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第十巻
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世の中に預言者又は予言者と呼ばれる者は一体世界でどの位いるのであろうか?
預言者とは、預言すなわち霊感により啓示された神意(託宣)を伝達あるいは解釈し、神と人とを仲介する者と定義されている。宗教に於ける祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果たすものだ。
旧約聖書で預言者に対応する最も一般的なヘブライ語はナービー である。この語源には様々な説が提示されているが、有力なのはアッカド語起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説である。
なお、岩波委員会訳聖書では「ヒッテーフ=(よだれを)垂らす」の意から出た「ヒトナベー」からの派生であると主張している。
古典ギリシア語では、プロフェーテース の語があてられた。本来これは「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持つ。
聖書の預言には未来を対象とするものも少なからずあるため「前もって語る人」の側面を含むのも事実である。結果として、この語から派生した英語の「Prophet」やフランス語の「prophète」は、「神の代弁者」と「(聖書と結びついているかに関わらず)未来を語る者」の二通りの意味を持つ。ただし「未来を語る者」については、英語では「foreteller」なども、フランス語では「prédiseur」などもそれぞれ用いられる。
ー(預言と予言の違い)ー
預言と予言は、英語では同一の語「prophecy」であるが日本語では予言が「未来のことを前もって語ること」であるのに対し、預言は「来たるべき世界の内容とその意味、それを前にして人々のとるべき態度、行動を指し示し、倫理性を伴った宗教的世界を提示する行為」として区別されることもある。
英語の「prophet」に対応している現在の日本語は「預言者」である。これは漢訳聖書の訳語に由来する。清代には西洋の宣教師らによって複数の漢訳聖書が作られた。18世紀初頭のジャン・バセ訳『四史攸編』や1813年のロバート・モリソン訳『新遺詔書』では「先見」の訳があてられたが、19世紀半ばには「預言者」の語をあてるものもあったようで、1860年代初めに日本人向けに作成されたヘボン訳『新約聖書』(四福音書のみ)では後者に基づいて「預言者」が採用された。
ただし「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字であり、中国語では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかない。一方、日本では「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、漢語としての由来を知らぬ者が「プロフェーテース」の原義に引きずられ、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを
予め語る者を「予言者」と理解した。
本来は「副詞+動詞」という構造であった「預言」という語を、みだりに動賓構造(動詞+目的語)に置き換えることは明らかな誤りであるとしてこれを問題視する見解もあるが、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる。
この区別を踏まえて、ある予言者(例えばノストラダムス)は神の言葉(預言)を聞いた、と解釈する場合に、その予言者を「預言者」と呼ぶことがある。
ー(各宗教における預言者)ー
(ユダヤ教における預言者)
旧約聖書では、神がかり状態の中で幻を見てそれを伝えるシャーマンのような見者(けんじゃ、ローエー rō,eh)と、神のことばを語る預言者(ナービー nābî)とは区別されるが、これらも必ずしも明瞭に区別されているわけではない。
ユダヤ教のトーラーでは「偽預言者」の話題が扱われている(申命記13章2-6、18章20-22)。
預言者である以上は、語られたことが必ず成就することが正当性を示す基準であり、旧約時代には偽預言者は死罪とみなされていた。
ディアスポラ後のユダヤ教徒たちは、70年にエルサレム神殿が破壊されて以来、預言者はユダヤの民に下されなくなったのだと考え、この世に預言者がなくなれば、神との契約は更新されることはありえないとする。
ユダヤ教徒はモーセと神の「旧い契約」に対し、キリスト教が神と結んだ「新しい契約」と主張する新約聖書の内容を認めていない。
ヤムニア会議によってユダヤ教正典と決定されたヘブライ語聖書式の配列では、「トーラー」「ケスービーム(諸書)」の間に「預言者(Nəbhī'īm, nevi'im, ネビーイーム)」が配置される。「預言書」という表記も見られるが、厳密ではないという意見もある。
ー(キリスト教における預言者)ー
キリスト教はユダヤ教の伝統から出現したナザレのイエスの活動から始まる宗教であり、旧約聖書に記された預言者たちをユダヤ教と同様に預言者と認める。ニカイア・コンスタンティノポリス信条では「聖霊は‥‥‥預言者をもってかつて語った」と告白する。
キリスト教では、イエス自身をいわゆる預言者とは区別し、神の子にして救世主(メシア)(この場合はイエス・キリスト)であると信じる。ただし、イエスをその働きゆえに「預言者」と呼ぶこともある(使徒7:37)。新約聖書の使徒言行録や書簡などの文書からは、預言の活動自体は初期のキリスト教会(初代教会)でも行われ、預言を行う信徒らが当時「預言者」として認められていたことがうかがえる。エルサレムからアンテオケに預言者たちが移動し、このうちの1人であったアガボは大きな飢饉が訪れることを預言し、それが成就したことが記されている。このアガボは、後にパウロが捕縛され異邦人に引き渡されることも預言した。初めて異邦人への公の宣教師として派遣されたパウロとバルナバも、預言者や教師のグループに属し(使徒13:1)、エルサレム会議での大切な決定事項を伝えるために、異邦人の諸教会に派遣されたユダとシラスも預言者であった。このシラスは、パウロの第2回目の伝道旅行に同行した。またパウロ書簡(エフェソの信徒への手紙)の中で「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語られているように、初代教会において預言者の役割は、使徒に次ぐ大切な働きとされていたことがわかる。
正教会では「聖預言者」の称号を付して記憶する。
ー(イスラム教における預言者)ー
イスラム教では、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書のイエス・キリスト(イーサー)も、歴代の預言者として認めている。
中でも
ノア(ヌーフ)
アブラハム(イブラーヒーム)
モーセ(ムーサー)
ナザレのイエス(イーサー)
ムハンマド(もしくはモハメッド)
を五大預言者として位置づけた上で、ムハンマドこそ最後の預言者であるとする。
ー(バハイ教における預言者)ー
イスラム教シーア派の十二イマーム派から分かれたバハイ教は、ムハンマドに至るまでのすべてのアブラハムの宗教の預言者たちを認め、バハイ教の始祖であるバハーウッラーも預言者の列に連なるひとりであるとする。バハイ教ではさらに、ブッダのようなアブラハムの宗教以外の宗教の始祖たちも唯一神の預言者であると説いており、アブラハムの宗教の潮流のみに留まらない普遍的世界宗教の性格を有している。
ー(日本で「預言者」とされる人物)ー
日本では、『立正安国論』で内憂外患を説いた鎌倉仏教の日蓮、非戦論を唱え戦争に反対した無教会主義キリスト教の内村鑑三や矢内原忠雄などが「預言者的人物」とされる。
その根拠となるのは強烈な召命体験と終末意識に立脚した社会批判であり、その主張により伝統的宗教の祭司と対立し社会から迫害される点にある。
預言者はしばしば社会の危機的状況において出現し時代の変革を促進する。
このほか新宗教系では、大本の出口王仁三郎や、真光系の岡田光玉、阿含宗の桐山靖雄なども預言者とされる。
オウム真理教の麻原彰晃は、ノストラダムスの予言などの「予言」を自らの宗教体系に取り込み、予言を繰り返した上で自らを絶対的預言者と称した。
ノストラダムス(Nostradamus、1503年12月14日 - 1566年7月2日[1])は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人。また、料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで非常に多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしている。
ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学では医学を、それぞれ学んだ。
南仏でのペスト流行時には積極的に治療にあたり、後年にその時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。
他方で、1550年頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。
王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者たちの中にも彼の予言を賛嘆する者が現れ、1564年には、国王シャルル9世より「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により62歳で没した。
彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩形式の予言は非常に難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が広く喧伝されてきた。あわせてノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げられることとなった。
長らくこれに対する学術的検証はほとんど行われてこなかったが、現在では伝説を極力排除した彼の生涯や、彼自身の予言観や未来観を形成する上で強い影響を与えたと考えられる文典の存在なども、徐々に明らかとなりつつある。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。
ノストラダムスの父方の先祖は、14世紀末以降、アヴィニョンで商業を営んでいた。父方の祖父が善良王ルネに仕えた医師・占星術師であったとする説は、ノストラダムスの弟や長男ら親族による誇張であり、父方の祖父も実際には商人であった。ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる18世紀の伝記などでは、ノストラダムスの先祖をさらに遡れば、失われた十支族のイッサカル族に辿り着くとされているが、これもまた根拠を持たない。
父方の曽祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗した。改宗後、クレカはピエール・ド・ノートルダムと改名し、三度目の妻の姓をもとにペイロ・ド・サント=マリーとも名乗った。ノートルダムもサント=マリーも聖母マリアを意味する。祖父は改名後、ノートルダム姓をより多く用い、それが息子や孫(ノストラダムス)にも受け継がれた。
ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョーム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンの商人であったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエールと結婚した後、サン=レミに居を移した。
ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。また、父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である。
母方については不明な点も多いが、曽祖父がキリスト教徒であったことは確かである。母レニエールもキリスト教徒であったと推測されているので、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当てはまらない。
一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに過ぎず、実際にはユダヤ教の信仰を捨てていなかったと主張する者や、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたなどとする者もいるが、これらは史料的な裏付けを持たない。少なくともノストラダムス本人は、公刊された文献等では王党派カトリック信徒の姿勢を示しており、著書の一つである『1562年向けの暦』もピウス4世に捧げられたものである。
また、秘書を務めたこともあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーも、ノストラダムスは生前熱心なカトリック信徒で、それと異なる信仰を強く非難していたと述べていた。
他方で、ルター派の顧客などと交わしていた私信の中では、プロテスタントに好意的な姿勢を示していたことも明らかになっている。ジェイムズ・ランディのように、カトリック信徒としての姿勢はあくまで表面的なもので、実際にはプロテスタントであったと見なす者もいるが[8]、むしろ相手の立場に応じて言葉を使い分けていた可能性を指摘する者もいる[9]。また、かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆している。
ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれたとされる。幼少期には母方の曽祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため彼が直接教育を施したとは考えられない。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。
ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。
このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。
この説は、後にノストラダムスの秘書となったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していないためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。
ー(モンペリエとアジャンでの日々)ー
1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。ただし、その記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある 。この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる。また、当時の正式な薬剤師登用に求められた条件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内での試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られないことから、入学前に薬剤師資格を所持していたこと自体を疑問視する者もいる。
この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、あたかも未来を先取りするかのような先進的な治療法のせいで、同僚の保守的な教授たちとの間で大きな軋轢が生まれ、わずか1年で辞職したというものがある。しかし、それは17世紀以降に言われるようになったに過ぎず、それを裏付ける史料は確認されていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない。
従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した。
彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また1531年には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。
この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが、慎重な見方をする論者もいる。
実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。
結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供[注釈 8]をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実際のところは不明である。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない。
同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった。さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである。その理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない。
怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、「そんなやり方では悪魔の像が出来てしまう」と注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが19世紀になって言い出した話のようである。
このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある。
こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える。この頃の伝説としては、オルヴァル修道院(フランス語版)に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資料的な裏付けを持たない。
ー(医師としての活動)ー
アンリ2世の死と結びつけられる百詩篇第1巻35番(1656年版)。解釈に都合良く原文が改竄されている。
長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。
そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。
伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、さらにはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。
しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある。
患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、決してノストラダムスに固有のものではないと言える。
『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている。
また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、自ら果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。
なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわらず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている。
その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もない頃のイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなどを回ったらしいことが窺える。
この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で、その相手が将来ローマ教皇となることを示唆したために、周囲の失笑を買った。しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世として即位し、ようやく彼の予言の正しさが証明されたのだという。この出会いにも裏付けはなく、後世の創作とされており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の二番煎じという指摘もある。
ー(ノストラダムスの予言者としての成功)ー
1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の開削事業に出資したりするようになる。
こうした活動と並行して、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手するようになる。
1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。
そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もあるのだ。
翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。
カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。
この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。
1557年には『ガレノスの釈義』を出版した。ノストラダムスは医師としての活動を縮小していたようだが1559年の処方箋も現存している。
1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。
なお、ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれしたため、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和(la paix universelle)」の年と予言していた。
ー(ノストラダムスの晩年)ー
アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声はさらに高まったようである。このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる。
ただし、この噂話についても、かなり尾ひれがついていたという指摘はある。
なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。事実、1564年に依頼されて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現存している。
こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。
彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アラバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。
しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。
ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。
ノストラダムスは国王親子とサロンのランペリ城(フランス語版)で会見をした。カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。
それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)。
このようにノストラダムスの予言はことごとく外れている。
この事から私が現在執筆中の日月神示の預言は的中率100%である。
ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。このエピソードが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワル(フランス語版)の日記(1589年)にも見出すことができる。
さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。
その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている。ただし『王太后への書簡』が1565年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている。
そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。
ノストラダムスは予兆詩で、自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていない。
抑々当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。
ノストラダムスは遺言書において、サロン市のフランシスコ会修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁面に葬られることを希望した。
1582年に妻アンヌが亡くなった時にも、同じ場所に葬られたという。当時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている[75]。当時、ノストラダムスは立った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認できる根拠からそれを裏付けることは出来ない。
その後、フランス革命最中の1793年頃に墓は暴かれた。暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から詮索しようとしたのだという。
伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどと言われるが、史実としての裏付はない。
この種の伝説の原型は、17世紀には既に登場していたという指摘もある。
また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが実態は不明である。
その後、19世紀初頭に当時のサロン市長のダヴィドが中心となって、ノストラダムスの遺骨が集められたが、あまり多くは集められなかったらしい。
なお、ノストラダムスの遺言書でフランシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった。
現在もその礼拝堂は残っており、ノストラダムスの骨は壁の奥の壺に収められているというが、それが本当にノストラダムスの骨なのかどうか、疑問視する見解もある。
このようにノストラダムスの生涯は医師としての側面が強かったと言える。
だが彼は占い師としての予言を常にしていたのではないかと、私は思っている。
今まで私もノストラダムスのような終末論に関心と興味を持ち夢中になって読んだりした。
しかし感想から申し上げると悉く私の期待を裏切るものであった。
それはノストラダムスもそうだが、著作者達が神という実在を知らなかったからだと私は思ったからだ。
しかし今執筆中の日月神示には嘘がない。
すべて神のお言葉であり、予言ではなくて、私達人類への警告であると、私は確信しているのだ。
預言者とは、預言すなわち霊感により啓示された神意(託宣)を伝達あるいは解釈し、神と人とを仲介する者と定義されている。宗教に於ける祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果たすものだ。
旧約聖書で預言者に対応する最も一般的なヘブライ語はナービー である。この語源には様々な説が提示されているが、有力なのはアッカド語起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説である。
なお、岩波委員会訳聖書では「ヒッテーフ=(よだれを)垂らす」の意から出た「ヒトナベー」からの派生であると主張している。
古典ギリシア語では、プロフェーテース の語があてられた。本来これは「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持つ。
聖書の預言には未来を対象とするものも少なからずあるため「前もって語る人」の側面を含むのも事実である。結果として、この語から派生した英語の「Prophet」やフランス語の「prophète」は、「神の代弁者」と「(聖書と結びついているかに関わらず)未来を語る者」の二通りの意味を持つ。ただし「未来を語る者」については、英語では「foreteller」なども、フランス語では「prédiseur」などもそれぞれ用いられる。
ー(預言と予言の違い)ー
預言と予言は、英語では同一の語「prophecy」であるが日本語では予言が「未来のことを前もって語ること」であるのに対し、預言は「来たるべき世界の内容とその意味、それを前にして人々のとるべき態度、行動を指し示し、倫理性を伴った宗教的世界を提示する行為」として区別されることもある。
英語の「prophet」に対応している現在の日本語は「預言者」である。これは漢訳聖書の訳語に由来する。清代には西洋の宣教師らによって複数の漢訳聖書が作られた。18世紀初頭のジャン・バセ訳『四史攸編』や1813年のロバート・モリソン訳『新遺詔書』では「先見」の訳があてられたが、19世紀半ばには「預言者」の語をあてるものもあったようで、1860年代初めに日本人向けに作成されたヘボン訳『新約聖書』(四福音書のみ)では後者に基づいて「預言者」が採用された。
ただし「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字であり、中国語では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかない。一方、日本では「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、漢語としての由来を知らぬ者が「プロフェーテース」の原義に引きずられ、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを
予め語る者を「予言者」と理解した。
本来は「副詞+動詞」という構造であった「預言」という語を、みだりに動賓構造(動詞+目的語)に置き換えることは明らかな誤りであるとしてこれを問題視する見解もあるが、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる。
この区別を踏まえて、ある予言者(例えばノストラダムス)は神の言葉(預言)を聞いた、と解釈する場合に、その予言者を「預言者」と呼ぶことがある。
ー(各宗教における預言者)ー
(ユダヤ教における預言者)
旧約聖書では、神がかり状態の中で幻を見てそれを伝えるシャーマンのような見者(けんじゃ、ローエー rō,eh)と、神のことばを語る預言者(ナービー nābî)とは区別されるが、これらも必ずしも明瞭に区別されているわけではない。
ユダヤ教のトーラーでは「偽預言者」の話題が扱われている(申命記13章2-6、18章20-22)。
預言者である以上は、語られたことが必ず成就することが正当性を示す基準であり、旧約時代には偽預言者は死罪とみなされていた。
ディアスポラ後のユダヤ教徒たちは、70年にエルサレム神殿が破壊されて以来、預言者はユダヤの民に下されなくなったのだと考え、この世に預言者がなくなれば、神との契約は更新されることはありえないとする。
ユダヤ教徒はモーセと神の「旧い契約」に対し、キリスト教が神と結んだ「新しい契約」と主張する新約聖書の内容を認めていない。
ヤムニア会議によってユダヤ教正典と決定されたヘブライ語聖書式の配列では、「トーラー」「ケスービーム(諸書)」の間に「預言者(Nəbhī'īm, nevi'im, ネビーイーム)」が配置される。「預言書」という表記も見られるが、厳密ではないという意見もある。
ー(キリスト教における預言者)ー
キリスト教はユダヤ教の伝統から出現したナザレのイエスの活動から始まる宗教であり、旧約聖書に記された預言者たちをユダヤ教と同様に預言者と認める。ニカイア・コンスタンティノポリス信条では「聖霊は‥‥‥預言者をもってかつて語った」と告白する。
キリスト教では、イエス自身をいわゆる預言者とは区別し、神の子にして救世主(メシア)(この場合はイエス・キリスト)であると信じる。ただし、イエスをその働きゆえに「預言者」と呼ぶこともある(使徒7:37)。新約聖書の使徒言行録や書簡などの文書からは、預言の活動自体は初期のキリスト教会(初代教会)でも行われ、預言を行う信徒らが当時「預言者」として認められていたことがうかがえる。エルサレムからアンテオケに預言者たちが移動し、このうちの1人であったアガボは大きな飢饉が訪れることを預言し、それが成就したことが記されている。このアガボは、後にパウロが捕縛され異邦人に引き渡されることも預言した。初めて異邦人への公の宣教師として派遣されたパウロとバルナバも、預言者や教師のグループに属し(使徒13:1)、エルサレム会議での大切な決定事項を伝えるために、異邦人の諸教会に派遣されたユダとシラスも預言者であった。このシラスは、パウロの第2回目の伝道旅行に同行した。またパウロ書簡(エフェソの信徒への手紙)の中で「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語られているように、初代教会において預言者の役割は、使徒に次ぐ大切な働きとされていたことがわかる。
正教会では「聖預言者」の称号を付して記憶する。
ー(イスラム教における預言者)ー
イスラム教では、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書のイエス・キリスト(イーサー)も、歴代の預言者として認めている。
中でも
ノア(ヌーフ)
アブラハム(イブラーヒーム)
モーセ(ムーサー)
ナザレのイエス(イーサー)
ムハンマド(もしくはモハメッド)
を五大預言者として位置づけた上で、ムハンマドこそ最後の預言者であるとする。
ー(バハイ教における預言者)ー
イスラム教シーア派の十二イマーム派から分かれたバハイ教は、ムハンマドに至るまでのすべてのアブラハムの宗教の預言者たちを認め、バハイ教の始祖であるバハーウッラーも預言者の列に連なるひとりであるとする。バハイ教ではさらに、ブッダのようなアブラハムの宗教以外の宗教の始祖たちも唯一神の預言者であると説いており、アブラハムの宗教の潮流のみに留まらない普遍的世界宗教の性格を有している。
ー(日本で「預言者」とされる人物)ー
日本では、『立正安国論』で内憂外患を説いた鎌倉仏教の日蓮、非戦論を唱え戦争に反対した無教会主義キリスト教の内村鑑三や矢内原忠雄などが「預言者的人物」とされる。
その根拠となるのは強烈な召命体験と終末意識に立脚した社会批判であり、その主張により伝統的宗教の祭司と対立し社会から迫害される点にある。
預言者はしばしば社会の危機的状況において出現し時代の変革を促進する。
このほか新宗教系では、大本の出口王仁三郎や、真光系の岡田光玉、阿含宗の桐山靖雄なども預言者とされる。
オウム真理教の麻原彰晃は、ノストラダムスの予言などの「予言」を自らの宗教体系に取り込み、予言を繰り返した上で自らを絶対的預言者と称した。
ノストラダムス(Nostradamus、1503年12月14日 - 1566年7月2日[1])は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人。また、料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで非常に多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしている。
ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学では医学を、それぞれ学んだ。
南仏でのペスト流行時には積極的に治療にあたり、後年にその時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。
他方で、1550年頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。
王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者たちの中にも彼の予言を賛嘆する者が現れ、1564年には、国王シャルル9世より「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により62歳で没した。
彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩形式の予言は非常に難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が広く喧伝されてきた。あわせてノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げられることとなった。
長らくこれに対する学術的検証はほとんど行われてこなかったが、現在では伝説を極力排除した彼の生涯や、彼自身の予言観や未来観を形成する上で強い影響を与えたと考えられる文典の存在なども、徐々に明らかとなりつつある。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。
ノストラダムスの父方の先祖は、14世紀末以降、アヴィニョンで商業を営んでいた。父方の祖父が善良王ルネに仕えた医師・占星術師であったとする説は、ノストラダムスの弟や長男ら親族による誇張であり、父方の祖父も実際には商人であった。ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる18世紀の伝記などでは、ノストラダムスの先祖をさらに遡れば、失われた十支族のイッサカル族に辿り着くとされているが、これもまた根拠を持たない。
父方の曽祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗した。改宗後、クレカはピエール・ド・ノートルダムと改名し、三度目の妻の姓をもとにペイロ・ド・サント=マリーとも名乗った。ノートルダムもサント=マリーも聖母マリアを意味する。祖父は改名後、ノートルダム姓をより多く用い、それが息子や孫(ノストラダムス)にも受け継がれた。
ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョーム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンの商人であったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエールと結婚した後、サン=レミに居を移した。
ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。また、父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である。
母方については不明な点も多いが、曽祖父がキリスト教徒であったことは確かである。母レニエールもキリスト教徒であったと推測されているので、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当てはまらない。
一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに過ぎず、実際にはユダヤ教の信仰を捨てていなかったと主張する者や、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたなどとする者もいるが、これらは史料的な裏付けを持たない。少なくともノストラダムス本人は、公刊された文献等では王党派カトリック信徒の姿勢を示しており、著書の一つである『1562年向けの暦』もピウス4世に捧げられたものである。
また、秘書を務めたこともあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーも、ノストラダムスは生前熱心なカトリック信徒で、それと異なる信仰を強く非難していたと述べていた。
他方で、ルター派の顧客などと交わしていた私信の中では、プロテスタントに好意的な姿勢を示していたことも明らかになっている。ジェイムズ・ランディのように、カトリック信徒としての姿勢はあくまで表面的なもので、実際にはプロテスタントであったと見なす者もいるが[8]、むしろ相手の立場に応じて言葉を使い分けていた可能性を指摘する者もいる[9]。また、かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆している。
ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれたとされる。幼少期には母方の曽祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため彼が直接教育を施したとは考えられない。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。
ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。
このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。
この説は、後にノストラダムスの秘書となったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していないためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。
ー(モンペリエとアジャンでの日々)ー
1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。ただし、その記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある 。この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる。また、当時の正式な薬剤師登用に求められた条件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内での試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られないことから、入学前に薬剤師資格を所持していたこと自体を疑問視する者もいる。
この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、あたかも未来を先取りするかのような先進的な治療法のせいで、同僚の保守的な教授たちとの間で大きな軋轢が生まれ、わずか1年で辞職したというものがある。しかし、それは17世紀以降に言われるようになったに過ぎず、それを裏付ける史料は確認されていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない。
従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した。
彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また1531年には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。
この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが、慎重な見方をする論者もいる。
実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。
結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供[注釈 8]をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実際のところは不明である。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない。
同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった。さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである。その理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない。
怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、「そんなやり方では悪魔の像が出来てしまう」と注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが19世紀になって言い出した話のようである。
このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある。
こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える。この頃の伝説としては、オルヴァル修道院(フランス語版)に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資料的な裏付けを持たない。
ー(医師としての活動)ー
アンリ2世の死と結びつけられる百詩篇第1巻35番(1656年版)。解釈に都合良く原文が改竄されている。
長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。
そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。
伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、さらにはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。
しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある。
患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、決してノストラダムスに固有のものではないと言える。
『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている。
また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、自ら果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。
なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわらず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている。
その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もない頃のイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなどを回ったらしいことが窺える。
この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で、その相手が将来ローマ教皇となることを示唆したために、周囲の失笑を買った。しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世として即位し、ようやく彼の予言の正しさが証明されたのだという。この出会いにも裏付けはなく、後世の創作とされており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の二番煎じという指摘もある。
ー(ノストラダムスの予言者としての成功)ー
1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の開削事業に出資したりするようになる。
こうした活動と並行して、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手するようになる。
1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。
そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もあるのだ。
翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。
カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。
この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。
1557年には『ガレノスの釈義』を出版した。ノストラダムスは医師としての活動を縮小していたようだが1559年の処方箋も現存している。
1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。
なお、ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれしたため、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和(la paix universelle)」の年と予言していた。
ー(ノストラダムスの晩年)ー
アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声はさらに高まったようである。このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる。
ただし、この噂話についても、かなり尾ひれがついていたという指摘はある。
なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。事実、1564年に依頼されて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現存している。
こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。
彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アラバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。
しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。
ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。
ノストラダムスは国王親子とサロンのランペリ城(フランス語版)で会見をした。カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。
それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)。
このようにノストラダムスの予言はことごとく外れている。
この事から私が現在執筆中の日月神示の預言は的中率100%である。
ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。このエピソードが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワル(フランス語版)の日記(1589年)にも見出すことができる。
さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。
その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている。ただし『王太后への書簡』が1565年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている。
そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。
ノストラダムスは予兆詩で、自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていない。
抑々当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。
ノストラダムスは遺言書において、サロン市のフランシスコ会修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁面に葬られることを希望した。
1582年に妻アンヌが亡くなった時にも、同じ場所に葬られたという。当時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている[75]。当時、ノストラダムスは立った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認できる根拠からそれを裏付けることは出来ない。
その後、フランス革命最中の1793年頃に墓は暴かれた。暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から詮索しようとしたのだという。
伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどと言われるが、史実としての裏付はない。
この種の伝説の原型は、17世紀には既に登場していたという指摘もある。
また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが実態は不明である。
その後、19世紀初頭に当時のサロン市長のダヴィドが中心となって、ノストラダムスの遺骨が集められたが、あまり多くは集められなかったらしい。
なお、ノストラダムスの遺言書でフランシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった。
現在もその礼拝堂は残っており、ノストラダムスの骨は壁の奥の壺に収められているというが、それが本当にノストラダムスの骨なのかどうか、疑問視する見解もある。
このようにノストラダムスの生涯は医師としての側面が強かったと言える。
だが彼は占い師としての予言を常にしていたのではないかと、私は思っている。
今まで私もノストラダムスのような終末論に関心と興味を持ち夢中になって読んだりした。
しかし感想から申し上げると悉く私の期待を裏切るものであった。
それはノストラダムスもそうだが、著作者達が神という実在を知らなかったからだと私は思ったからだ。
しかし今執筆中の日月神示には嘘がない。
すべて神のお言葉であり、予言ではなくて、私達人類への警告であると、私は確信しているのだ。
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