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第二巻
しおりを挟む出雲の地に地方豪族であった尼子氏がいた。
尼子氏は、武家・士族だった日本の氏族であった。そのルーツは室町時代中期に京極氏の分流京極高久が所領の近江国犬上郡尼子郷から尼子を称したのに始まる。
京極氏の守護代として出雲に下って勢力を拡大、経久の代に守護を世襲した京極氏が断絶したことから守護となり、出雲を中心に山陰地方の国人を従え安芸国、石見国に於いて大内氏と中国地方の覇権を争ったが、やがて大内氏を滅ぼした毛利氏に圧迫され、義久の代に居城月山富田城が落城した。以降尼子義久とその子孫は毛利氏の家臣となり、江戸時代には佐佐木に復姓して長州藩士家として続き、維新後士族。通字は「久」である。
尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋の平四つ目結も、京極氏のそれである。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したことに始まる。
宗家京極氏の出雲守護代を務めるも、後に京極氏が断絶したことで自らが守護となる。室町時代に高久の次男・持久は、宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向し、月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠った。やがて出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。出雲に於いては永享11年(1439年)よりその存在が確認される(『日御崎神社文書』)。
応仁の乱では出雲守護代として勢力を拡大している。
15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため、文明16年(1484年)に追討令が出されたが、2年後の文明18年(1486年)には守護・京極政経と嫡男の材秀が経久に出雲国を任せて上洛しており、出雲国内は特段混乱などはしていなかったと考えられる。永正11年(1514年)には、出雲守護を継承していた京極吉童子丸が死去し、京極氏が断絶したことで、同族である尼子氏は守護となっている。
永正5年(1508年)に、前将軍・足利義尹(後の義稙)を戴き、大内義興が山陽・山陰・九州勢を率いて上洛すると、細川高国はこれに呼応し、共に入京した。この上洛に経久は従い、京では船岡山合戦に参加している。この時期に、次男・国久は細川高国から、三男・興久は大内義興から偏諱を受けている。しかし永正15年(1518年)、経久の嫡男・政久は合戦にて討ち死にし、享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託し反尼子勢力として反乱を起こすと、これを鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった。なおこの乱以降、天文8年(1539年)まで、大内氏とは表面上は和睦関係を維持しており勢力拡大の矛先は東に向けられている。経久は出雲鉄の事業開発や海上交易を行ない、山陰を中心に勢力拡大に励んだのであった。
天文6年(1537年)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代、尼子氏は戦国大名として最盛期を迎え、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。
天文年間にかけて、尼子氏はほぼ備中を平定し、備前から美作・播磨への勢力拡大を図っている。天文8年(1539年)には、上洛の構えを見せていた晴久だが、いわゆる大内包囲網が瓦解し、西からの圧迫が強まったこともあり、出雲へ撤収している。
天文9年(1540年)、3万の軍勢で安芸へ侵攻し大内氏方の安芸有力国人である毛利氏の本拠地・吉田郡山城を攻めるが、毛利氏への大内義隆援軍・陶隆房の活躍などもあって吉田郡山城を攻め切れず、翌天文10年(1541年)には兵を引いてしまう(吉田郡山城の戦い)。
天文11年(1542年)、今度は大内軍が大内義隆を総大将として、毛利氏ら安芸、周防、石見の国人衆も集め、2万の兵で出雲に出兵してくる。この遠征は1年4ヶ月続いて月山富田城は攻囲されるが、尼子氏所領奥地に侵入した大内軍の補給線と防衛線をゲリラ戦術で分断しながら、大内氏配下の三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経ら国人衆を寝返らせて大内軍を弱体化させ、翌天文12年(1543年)敗走させた(第1次月山富田城の戦い)。
天文23年(1554年)、惣領である晴久の元から政治的に距離を置くようになっていた「新宮党」(出雲にも多くの直轄地を持つ独立集団と化していた)を率いる尼子経久次男・国久、誠久親子を滅ぼすなどの集権化を進め、さらなる尼子氏の勢力拡大を図った。
晴久の元、尼子氏は最盛期を迎え、その勢力は本拠である出雲、直轄地である伯耆、隠岐の他、石見東部、美作、因幡西部、備後北部、備中北西、備前西部まで及び、尼子家の名は中央にまで届くほどであった。
1558年、尼子氏支配下の備後北部に毛利氏が攻撃を開始、その時晴久は備前の浦上氏を攻撃していたが、直ぐに美作東部から兵を引き返し、備後へ援軍に駆けつけた。
しかし、備後北部の尼子方国人衆は駆逐されており、尼子軍は備後より撤退。備後庄原から南部の支配権を喪失した。
備後は、本国である出雲にも近い事から、尼子氏の影響力が強い所であったが、元就のこの備後侵攻によって山陽方面への影響力を喪失してしまう。
この山陽方面での影響力喪失などが、後々に次代の義久の時代に暗い影を落とすことになる。
弘治3年(1557年)に大内氏の内紛後の混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にした戦国大名となり、やがて石見東部へ侵攻を始めた。晴久は石見銀山を巡る戦いでは優勢であったが、永禄3年(1561年)に晴久が急死する。
晴久の跡を継いだ嫡男・義久は、この事態に際して将軍・足利義輝に毛利氏との仲介を依頼し一旦、和睦したものの毛利元就はその後、一方的にこれを破棄し永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた(第2次月山富田城の戦い)。義久は月山富田城に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。
しかし、永禄6年(1563年)に元就は支城である白鹿城を攻略すると、月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込んだ。同時に、元就は謀略を開始し、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼をも粛清してしまう。ついに永禄9年(1566年)11月、義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。
その後、尼子氏の遺臣である山中幸盛や立原久綱らは、新宮党の末裔尼子勝久を擁立して、織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興した。しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺されたため、尼子氏の大名としての復活はならなかった。
尼子勝久亡き後の尼子再興軍については、信長からの播磨上月城放棄退却の命を主君に伝え復命に戻った尼子氏庶流の亀井茲矩が生存し、残党を率いその後も転戦を続け、本能寺の変後も引き続き秀吉麾下にて朝鮮出兵にも参加、因幡国鹿野より転封を経て、長州と隣接する石見国津和野に津和野藩四万三千石の大名として明治まで続いた。同藩の筆頭家老職を明治まで世襲した多胡氏もまた、雲芸和議の後も尼子方として毛利軍と徹底抗戦し敗死した石見刺賀城主多胡辰敬の直系である。
一方嫡流の尼子義久は、毛利氏に降った後、安芸国、ついで関ヶ原後に毛利氏が移封された長門国に移り、毛利氏の庇護のもとで暮らしていたが、慶長15年(1610年)8月28日に長門で死去(享年71)。毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継ぎ、以降尼子氏は代々長州藩士家として存続する。就易の代(曽祖父隆慶の母が国久の娘)から、晴久が粛清した国久の系統が尼子の血脈を後世に伝えることになった。また彼の代から尼子氏のもともとの姓である佐佐木氏を名乗るようになった。尼子・佐佐木家の長州藩内での家格は寄組で、1292石余取りだった。
1940年(昭和15年)に最後の当主・寅介が嗣子なく東京・高輪の毛利家別邸で亡くなったため、尼子高久から続いた尼子氏は絶家した。ただし、寅介とは別に佐佐木甚五朗・忠雄系統を尼子宗家とする説もあり、そちらの系統は2018年現在も存続している。
また、義久の直系の子孫は、毛利の重臣福永氏として、末代まで残る。尼子氏の拠点であった福永要害の所在地名である、現広島県神石郡神石高原町福永から、福永姓を名乗ったとも、先祖である佐々木源氏の所領近江国福長(永)荘から名乗ったとも言われるが詳細は不明である。直系子孫は昭和初期、福長(永から長へ)に改姓、昭和30年代まで山口県防府市に在住していた。
嫡流子孫は現在広島市安佐南区中須に在住。庶流は山口県、広島県、愛媛県等に在住している。
幕末の長州藩士来島又兵衛政久(旧姓:喜多村氏)の養父政常は、尼子経久の子・森親久を祖とする来島氏の末裔とされる。
尼子晴久の娘は三沢為清に嫁いで血を残し、後に三沢氏からは伊達綱宗の側室・三沢初子(三沢清長の娘)が出る。初子は伊達綱村(仙台藩主)・伊達村和・伊達宗贇(宇和島藩主)を産む。その為、宗贇以降の宇和島藩主は初子の子孫であり、幕末の四賢侯と謳われた伊達宗城もその一人である。
さて、私の執筆する物語の始まりである。
戦国時代の1566年(永禄9年)、とある山中の寒村に、尼子氏の家臣だった8人の落武者たちが財宝とともに逃げ延びてくるが、村人たちは毛利氏による捜索が厳しくなるにつれ災いの種になることを恐れ、また財宝と褒賞に目がくらみ、武者たちを皆殺しにしてしまう。
「己れよくも騙したなぁ。この怨み果たすまで許さぬ」
そして
武者大将は死に際に
「七生までこの村に祟ってみせる」
と呪詛の言葉を残す。その後、村人が次々に変死しついには名主が気狂いになり死ぬに至って祟りを恐れた村人たちは犬猫の死骸同然に埋めてあった武者たちの遺体を手厚く葬るとともに、村の守り神とした。これが「八つ墓明神」となり、いつの頃からか村は「八つ墓村」と呼ばれるようになった。
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大正時代、落武者たちを皆殺しにした際の首謀者・田治見庄左衛門の子孫で田治見家の当主権蔵は、粗暴かつ残虐性を持った男で、妻子がありながら一条艶子を性暴力をもって犯し、自宅の土蔵に閉じ込めて情欲の限りをつくした。そのうち艶子は1922年(大正11年)の9月6日に弥之助という男児を出産したが、艶子には昔から深く言い交した立花翔太という男がおり、権蔵の目を盗んでは密会をしていた。弥之助誕生から一年ほどして
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との匿名の手紙が届く。その後、法律事務所で彼の身寄りである田治見家の使者で、母方の祖父・井川丑松に引き合わされるが、丑松はその場で血を吐いて死に、何者かが彼のぜんそく薬のカプセルに毒を混入したことが判明する。その後、弥之助の大伯母から依頼を受けた森美也子が弥之助を迎えに現れる。
田治見家には弥之助の異母兄姉にあたる久弥と春代がいるが2人とも病弱であること、里村慎太郎とその妹・典子といういとこがおり久弥と春代が死ねば慎太郎が田治見家を継ぐこと、弥之助の大伯母で双児の小竹と小梅は辰弥が跡取りとなることを望んでいること、美也子は田治見家と並ぶ分限者(=資産家)である野村家の当主・壮吉の義妹で未亡人であることなどの予備知識を携えて弥之助が八つ墓村入りすると、「濃茶の尼」と呼ばれる少し気の狂った尼から「八つ墓明神はお怒りじゃ。おまえが来ると村はまた血で汚れるぞ。いまに3人の死人が出るのじゃ。」と罵声を浴びせられる。その翌日、弥之助と対面中の久弥が悶絶死し、弥之助は毒殺を疑うが、医者の久野は病死で片づけてしまう。丑松と久弥の葬儀後、は野村家に逗留中の瀬尾五郎八から、怪しいと思うことがあったら率直にそれを披露するよう忠告される。3日後、久弥の死体が解剖された結果、久弥の死は丑松と同じ毒によるものであることが判明する。
さらに久弥の初七日の法要の席で蓮光寺の洪禅が毒殺され、辰弥は麻呂尾寺の英泉から「貴様が毒を盛ったのだ。貴様は自分のじじいを殺し、それから兄を殺し、今度はおれを殺そうとして、間違って洪禅君を殺したのだ!」と糾弾される。法要の前に慶勝院の尼・梅幸から「私と麻呂尾寺の住持が知っている大変大事なお話があります」と言われていたことから、翌日、慶勝院を訪問すると梅幸尼が毒殺されていた。そこには「双児杉」「博労」「分限者」「坊主」「尼」とそれぞれの対になる2組の名前が記された紙片が残されており、雷に打たれてなくなったお竹様の杉と毒殺された4人の名前の上に赤インキで棒が引いてあった。
その夜、弥之助は寝床のある離れから通ずる鍾乳洞を探検し、小さな滝から外に出たところで典子に出会い、彼女との別れ際に、濃茶の尼の尼寺の障子に鳥打帽をかぶった男のような人影がよぎったかと思うと電気が消えた。その翌朝、弥之助は昨夜の12時前後、弥之助と典子が尼寺の電気が消えるのを目撃した時間に濃茶の尼が殺されたことと、例の殺人予定表のような紙片を記した久野が失踪したことを知らされる。瀬尾五郎八は弥之助に、濃茶の尼殺しは梅幸尼殺しでヘマをやらかした犯人の予定外の殺人であると言う。数日後、何者かにさらわれた小梅の死体が鍾乳洞の奥「鬼火の淵」と呼ばれる地底の崖下の水面で見つかり、その近くに「双児:小竹様・小梅様」と記された紙片と行方不明の久野の鳥打帽が発見され、最重要容疑者として久野の鍾乳洞狩りを行ったところ、「狐の穴」と呼ばれる無数の枝道の一つに久野の毒殺死体と「医者:久野恒美 ・新居修平」と記された紙片が発見された。
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2人は3日後に救出され、快復した弥之助が麻呂尾寺の長英を訪ねたところ、英泉が弥之助の実の父・亀井であることを知らされる。英泉が洪禅の死の際、弥之助を糾弾したのは、弥之助が要蔵の子でないことを知りながら田治見家を横領しようと企み、自身の出生を知る父が邪魔で殺そうとしたのだという思い込みによるものだった。その後、春代の三十五日の夜、今回の事件の総括を関係者一同で行う。久野は商売敵の新居医師を八つ墓明神の伝説を利用して殺したいと願望して頭の中だけで立てたプランを手帖に書き、それを美也子に利用されたのであった。美也子は小指の傷口から入った悪いばい菌により体中が紫色に腫れあがって、苦痛にのた打ち回りながら息を引き取ったという。最後に弥之助は、発見した大判を披露するとともに、典子と結婚したことを報告し、皆の歓声と拍手に包まれる。
弥之助は慎太郎に亀井の写真を見せて田治見家相続の辞退を申し出る。
弥之助は、神戸の新居に移り住む前に典子から妊娠したことを告げられ、彼女を強く抱きしめる。
神戸の新居は三宮の布引であった。しかし、やがて落武者の怨霊が弥之助と典子、そして産まれてくる赤ちゃんに襲いかかってくるのである。
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