【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

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第十五巻 関ヶ原の合戦

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ー(関ヶ原の決戦)ー
 甲斐の虎・武田信玄とその軍師・山本勘助亡き後、天下分け目の大合戦が日本列島の臍で戦われた関ヶ原合戦は歴史的最も大きな戦いであった。
 東の諸将を率いる徳川家康、西の諸将を率いる石田三成の戦いであった。この戦いにはあの剣豪・宮本武蔵も西軍として参戦していたのだ。

 この関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた合戦である。

 関ヶ原に於ける決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる。
 私の調べたところによると、合戦当時は南北朝時代の古戦場として「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もあった。

ー(関ヶ原の戦い)ー
 読者の皆さんも大河ドラマや映画等を通じてその結果についてはすでにご存知であると思う。

 ここで改めてその結果について申し述べたい。
 結果は、東軍の勝利であった。
 
 西軍の諸将であった石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らの斬首。
 毛利輝元、上杉景勝ら大大名の減封。
 宇喜多秀家ら西軍大名の改易。

 東軍大名の加増・転封。

 江戸幕府の成立(1603年)。

 豊臣政権の瓦解。

ー(関ヶ原合戦の交戦勢力)ー
 (西軍)
 大坂城守備隊:毛利輝元

 (西軍本隊)
 石田三成 、毛利秀元、宇喜多秀家、大谷吉継 、小西行長 、島津義弘、安国寺恵瓊 他。
 (東軍に寝返り)
 小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠

 (東軍に内応)吉川広家、
 
 (上田城守備隊)
 真田昌幸、真田信繁

 (奥羽本隊)
 上杉景勝、直江兼続、本庄繁長

 (大津城攻撃隊)
  毛利元康、立花宗茂 

 (田辺城攻撃隊)
 小野木重次、織田信包、前田茂勝、小出吉政
 (美濃・尾張守備隊)
   織田秀信 


 (東軍本隊)
     徳川家康、松平忠吉、黒田長政、藤堂高虎、浅野幸長、井伊直政、本多忠勝、福島正則、細川忠興、織田長益他。

 (東軍中山道軍)
  徳川秀忠、榊原康政、仙石秀久、真田信幸
 
 (対上杉守備隊)
   最上義光、伊達政宗、結城秀康

 (大津城守備隊)
   京極高次

 (田辺城守備隊)
   細川幽斎

 (西軍戦力)
 80,000以上

 (東軍戦力)
 74,000 ~104,000

 (死者)
 (西軍戦死者)
  8,000~32,600

 (東軍戦死者)
  4,000 ~10,000

 (関ヶ原の戦い)

 会津 伏見城 田辺城 白石城 浅井畷 上杉遺民 木曽川・合渡川 河田木曽川渡河 米野 竹ヶ鼻城 岐阜城 伊賀上野城 安濃津城 八幡城 上田 大津城 慶長出羽 四国・九州出兵 石垣原 杭瀬川 関ヶ原 大垣城 佐和山城 三津浜 岩崎城 松川
 上記の城で一連の戦いがあった。

 (畿内三関における位置)



 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。

 豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。

 この戦いの結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老・五奉行体制は崩壊した。
 家康の権力掌握は徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった。

ー(決戦までの経緯)ー

 (豊臣政権内部の対立とその背景)

 秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は、秀吉の独裁から幼少の後継者・豊臣秀頼を五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)、五奉行(浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家)によって支える体制へと移行した。
 しかし、秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊していくことになる。 
 戦役の結果により消滅することになる。
政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いに於ける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる。また、地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無いと言える。

 (中央集権派と地方分権派の対立)

 太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成・増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立が抗争の背景にあったとする説である。

 一方、戸谷穂高氏は宥和・分権派として浅野長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている。

 私は戸谷穂高氏の論拠を支持している。

 文禄2年浅野長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め、また宇都宮氏や佐竹氏の改易を主導するなど、宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。

 曽根勇二氏もこれら東国に於ける長政の動向を朝鮮出兵の為の「総力戦の体制を打ち出した豊臣秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している。

 私も曽根勇二氏と同じ考え方である。

 (朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立)

 慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が、関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は、豊臣政権に於いて主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされている。
 しかし、両派閥の不仲を示した逸話には、一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く、一方後に東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており蔚山の戦い後、現地諸将より豊臣秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている。このことは慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状からも明らかである。

 中野等氏も、石田三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中で偶像化したものとしている。例えば、賤ヶ岳七本槍の印象から武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は、実際は国内統一戦の過程に於いて目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前に於いてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった。
 
 (豊臣秀次切腹事件による豊臣政権内の確執)

 文禄4年(1595年)6月に発生した豊臣秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、豊臣秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。豊臣秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰の幾つかは、徳川家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方で諸大名は石田三成を憎むようになったとする。

 しかし、石田三成を事件の首謀者とする説は、寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」という本の記述に登場して以降の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、史実として立証されたものではないのだ。

 (「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立)ー

「太閤様御置目」(豊臣秀吉の遺言や死の前後に作成された掟・起請文群)に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。

 後述する「内府ちかひの条々」で奉行衆は、家康が伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉の正室・北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯したと主張して、関ヶ原の戦いに於いて西軍が家康を討伐対象とする根拠としている。

 一方で、秀吉の死から間もない慶長3年(1598年)8月、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家の四奉行は大老・毛利輝元とともに、秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文を作成しており、その立場は家康の行動とは相違するものである。ただし、この行いは秀吉の遺命の一つである「徒党を組んではならない」という物を故意に破った行いでもある。

 なお、最初に表立って秀吉の遺命を破ろうとしたのは後陽成天皇で、秀吉が死去した直後の10月に、秀吉の遺志である良仁親王でなく、弟の八条宮智仁親王への譲位を希望する旨を伝えた。家康や元左大臣近衛信輔は後陽成の意思を尊重するとしたが、元関白九条兼孝をはじめとする摂家衆、利家・奉行の前田玄以らは良仁親王への譲位を主張した。後陽成の真意は三宮の即位だったようだが、11月18日には家康から譲位を思いとどまるよう意向が伝えられた。

 ー(秀吉の死・政治抗争の発生)ー

 慶長3年(1598年)8月9日、秀吉は死期を察して、徳川家康や毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家らを伏見城に招いた。その際、秀吉は自分の死後の国内体制について指示し、東国は家康、西国は輝元、北国は利家、五畿内は五奉行と割り振っている。

 8月18日、秀吉が伏見城で死去すると、五大老や五奉行は誓紙の交換を重ね、秀吉の遺児・豊臣秀頼への忠誠を誓った。だが、秀吉の死後、豊臣政権内部での対立が表面化していくことになる。 

 8月28日、輝元が五奉行のうち増田長盛・石田三成・長束正家・前田玄以ら四奉行に対し、「五大老の内、秀頼様への謀反ではなくとも、増田長盛・石田三成・長束正家・前田玄以の意見に同意しないものがあれば、自身は長盛・三成・正家・玄以に味方して秀頼様に奉公する」、とした旨の起請文を出した。
 だが、9月3日に五大老と五奉行が起請文を交わし、「何事に関しても一切の誓紙を交わさない」と定めて多数派工作を禁じ、諸大名の対立はひとまず沈静化した。

 慶長4年(1599年)1月、家康と伊達政宗ら諸大名が秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し、19日に大老の前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、2月2日に誓書を交換するなどして、騒動は一応の決着を見る。

 正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、伏見の家康邸にはこの騒動の際、織田有楽斎(長益)・京極高次・伊達政宗・池田輝政・福島正則・細川幽斎・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・最上義光ら30名近い諸大名が参集したとしている。

 一方の大坂の利家の屋敷には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野長政・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城貞隆・原長頼・熊谷直盛・垣見一直・福原長堯・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らが集まったとされる。

 参集した大名の異同はあるものの、秀頼の傅役と位置づけられた前田利家の下に家康以外の大老及び五奉行全員が結集した影響は大きく、家康としても一旦は譲歩(利家らから見れば屈服)せざるを得なかったと考えられているのである。

 閏3月、利家が死去すると、五奉行の一人である石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の七将に襲撃される(石田三成襲撃事件)。三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった。

 三成を襲撃した七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長堯が秀吉に歪曲して報告した為と主張する、彼等の不満にあったとされている。
 ただし、忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。 

 家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった。
 水野伍貴氏は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする。

 同月13日、家康は伏見城西ノ丸に入城。『多聞院日記』には天下殿になり目出度いと評し、また近衛信尹に日記には諸人が喜んだとある。なお、堀越祐一は家康が「御留守居を追出」したと記されていることに着目する。御留守居とは秀吉の遺言によって交替で城の管理実務を任されていた三成ら五奉行を指し、堀越は襲撃事件で三成が留守居の権限を使って伏見城に入ったのを機に家康が五奉行から伏見城の管理権限を取り上げて直接管理を図ったとみられている。なお、この件は後日出された「内府ちがひの条々」でも取り上げられている。

 なお、同月31日には家康と三成に近いとみられていた毛利輝元の間で起請文を交わしているが、そのなかで家康を兄、輝元を弟とした上で、家康は「兄弟の如く」と認めているのに対し、輝元は「父兄の思いを成す」と認めて家康を父兄も同然の上位者として認め、書札礼においても家康を上位、輝元を下位に置くことが明確とされていた。これは、三成を救えずに失脚するまで手を打てなかった輝元が政治的に家康に屈服を表明したことを示しているとする見方がある。

ー(加賀前田征伐と家康の権力強化)ー

 慶長4年(1599年)9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の挨拶をするためとして、伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。

 計画は前田利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、寛永年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。当時、伏見にいた朝鮮の儒者姜沆の『看羊録』には密告したのは石田三成で長盛は家康から嫌疑を掛けられて大野・土方が企てているという風説を聞いたと述べたとし、更に家康が三成を助けたことに憤っていた加藤清正も計画の中心人物であったとしている(ただし、大野治長が淀殿と密通して妊娠させていたなどの根拠不明の情報も含まれていることに注意)。

 ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。

 10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。

 翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。なお、前述の『看羊録』には利長が上杉景勝と結んでこれを迎え撃つとする風説が流れたと記している。
 金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、慶長5年(1600年)正月に利長の母で利家正室であった芳春院・前田家の重臣の前田長種・横山長和・太田雄宗・山崎長徳らの子を人質として江戸に送ることで落着した。

 また、この時、細川忠興は長男の忠隆の妻が利長の姉であったことから、利長の陰謀に組したという家康の嫌疑を受けたため、利長と同じく、同年の正月に三男忠利(15歳)を人質として江戸に送り、浅野長政も第三子の長重(15歳)を江戸に送っている。

 こうした騒動のさなか、慶長4年9月に家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。一方で家康も大坂入城の理由として、秀忠妻江の江戸下向を頓挫させられた、後陽成天皇譲位で天皇の意思と秀吉の遺言が衝突し家康が譲位撤回を上奏せざる得なかった、秀吉の遺言に反して宇喜多秀家が伏見でなく大坂在府を続けた点を挙げ、これら諸問題に対処するため大坂に移ったとしている。 

 政敵を排除して政権中枢の大坂城に入った家康の権力は上昇し、城中から大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作と考えられている。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴に越前府中5万石、森忠政に信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌を美濃岩村へ転封した。本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている。
 
 この頃、五大老の1人である宇喜多秀家と譜代の重臣達の間で内紛が発生し、年が明けて慶長5年正月には秀家側近の中村家正が重臣達に襲撃され、驚いた宇喜多秀家が伏見から大坂に逃れてしまったことで内紛の存在が明るみとなった(宇喜多騒動)。家康は当初は奉行や大谷吉継らに事態の仲裁を命じたが、埒が明かないことに痺れを切らした家康は自ら裁断を下して重臣達に宇喜多家を出ることを許した。『当代記』にはこの時に重臣達に非があると考える吉継と秀家に非があると考える家康の間で意見の対立があったとしている。

 このように政権内部での権力を強化していく家康に対して、この時期の前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行は政務面で協力的であり輝元も恭順の意を示している。また佐和山に隠居していた三成も家康暗殺計画事件の際は前田勢への備えとして軍勢を派遣し、大坂の自邸を宿所として提供するなど、家康とは比較的良好な関係であった。しかし、最終的に彼等は反家康闘争を決断することになる。

 ー(会津上杉征伐の決定)ー

 こうした政治的状況下、慶長5年春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化した。ただし、水野伍貴は前述の『看羊録』の記述を信じれば、前田利長と景勝の共謀の風説によって慶長4年の段階で既に悪化していたとみるべきであるとしている。

 4月には家康の家臣・伊奈昭綱らが会津若松に送り込まれ、神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する。

 5月中旬、この要求に対して景勝は上洛の意志を伝えるとともに秋までの上洛延期と、上杉家に謀叛の疑いを掛けた者の追及を要求するが、結局上杉側の提示した要求は受け入れられず、6月上旬に景勝上洛は中止となる。なお、家康に対して直江兼続が景勝への上洛要求を挑発的な文面で批判した、いわゆる「直江状」と言われる史料が存在するが、この文書の真贋や由来、内容解釈については諸説が存在している。

 一方、家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階で、すでに会津征伐を決定しており、6月2日には本多康重らに7月下旬「奥州表」に出陣することを伝えている。

『慶長年中卜斎記』では家康が6月15日に豊臣秀頼と淀殿に会見し、黄金2万枚と米2万石の他に正宗(あるいは政家)の脇差しと楢柴肩衝を餞別として送られたとしているが[62]、『関ヶ原軍記大成』では「餞別の引出物」とのみ記され、『当代記』(寛永年間成立)・『関原始末記』(明暦2年成立)には会見そのものの記述が無いなど、二次史料同士での記録は一致しない。また、家康の侍医であった板坂卜斎の著書の『慶長年中卜斎記』は成立時期が不明であること。7月28日に小山評定があったと記されているものの、小山評定前後の記述など、日付や内容に一次史料と相違するところが多く、白峰旬・本多輶成などの研究者から信憑性には甚だ疑問があると指摘がなされている。
6月16日、大坂を発った家康は同日に伏見城に入城した。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている。

 上杉景勝は上杉領へ侵攻する討伐軍を常陸の佐竹義宣と連携して白河口で挟撃する「白河決戦」を計画していたとされる[66]。しかし、本間宏は決戦の為に築かれたとされる防塁の現存遺構が、慶長5年当時の造営物であるか疑問であること、発給文書等の一次史料と「白河決戦」論の根拠である『会津陣物語』(延宝8年成立)『東国太平記』(延宝8年成立か)等の二次史料の記述が矛盾している点などから「白河決戦」計画の実存を否定している。

 また、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・直江兼続と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。宮本義己は慶長3年7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状の内容から西軍決起後の七月晦日の段階においても、両者の交信経路は確立されておらず、よって挟撃計画は無かったとする。本間宏は直江兼続は8月5日時点になっても、三成の挙兵やそれに伴う家康の撤退の情報を入手出来ていなかったと指摘している。

 阿部哲人は8月3日に浅香城にいた兼続が「内府ちかひの条々」を受け取っていることを指摘する。そのため、会津にいた景勝の受領はその数日前と推測されるものの、景勝・兼続共に続報を持ち合わせていないため、飛脚を上方に送ったことが彼らが上杉家中に充てた書状から判明する。つまり、三成らが家康に対して挙兵する意思があるのを知って連携に動き始めたのは8月に入ってからということになる。

 これに対し、三成は会津征伐を阻止するために決起したとする説もある。これは豊臣政権の「公戦」として位置づけられた会津征伐が「大老征伐」と「論功行賞」という2つの面で豊臣政権そのものの崩壊に繋がりかねない要素を孕んでいたからである。この指摘については西軍の結成とも深く関わるため、後述する。

 なお、上杉家と西軍の交信は真田家などの奥羽と上方の中間に拠点を持つ西軍大名を介して行われたと推測されるが、そうした大名自体が少なかったために前述の宮本説のように確立させるのが困難であった上に彼らが本格的な戦いが巻き込まれるとそのルートも遮断された為に、関ヶ原本戦の結果なども含めて上杉家が上方方面の情報を得るまでにタイムラグがあったと考えられ、それが上杉軍の行動にも影響しているとみられている。
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1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

 【最新版】  日月神示

蔵屋
歴史・時代
 最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。  何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」 「今に生きよ!」  「善一筋で生きよ!」  「身魂磨きをせよ!」  「人間の正しい生き方」  「人間の正しい食生活」  「人間の正しい夫婦のあり方」  「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」  たったのこれだけを守れば良いということだ。  根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。  日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。  これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」 という言葉に注目して欲しい。  今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。  どうか、最後までお読み下さい。  日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。    

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

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