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第2章 起動
2-1:捨てられた地
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ガタン、ゴトン。
不規則で暴力的な振動が、ソフィアの全身を打ち据える。
もはや「道」とは呼べない獣道を、車輪が無理やり進んでいく。罪人を護送するためだけに作られた、サスペンションという概念すらない荷馬車だ。その荷台の、カビ臭い干し草の上に、ソフィアは無造作に放り込まれていた。
王都を発ってから、丸二日が経過していた。
あの夜会での断罪の後、ソフィアは王城の地下牢——それも、政治犯や重罪人を収容する、光の届かない石牢に一晩だけ入れられた。夜会用の薄いドレス一枚では、夜の冷気は骨身に染みた。だが、ソフィアは寒さに震えるどころか、むしろその冷たさで思考が冴え渡るのを感じていた。
(計画は成功した。あとは、目的地に着くだけ)
翌朝、差し出されたのは、硬い黒パン一切れと、生ぬるい水だけだった。彼女はそれを文句一つ言わずに受け取り、ゆっくりと食べた。これから始まるサバイバルのためには、わずかなカロリーも無駄にはできない。
そして、この護送馬車に乗せられた。
クライネルト侯爵家からの抗議も、国王陛下からの赦免も、一切なかった。
(まあ、そうでしょうね)
ソフィアは、鉄格子の隙間から見える、流れ去る景色をぼんやりと眺めながら推察する。
アルベルト殿下がよほど強硬に「王命」を押し通したのか。あるいは、侯爵家が「王家に逆らった(と公表された)娘」として、早々に見切りをつけたのか。
おそらく後者だ。クライネルト家は、常に王家の忠実な盾であることを是としてきた。ソフィアという「瑕疵」は、家の体面のために、迅速に切り捨てられたのだろう。
(どちらでもいいわ)
ソフィアにとっては、実家がどう動こうと関係なかった。むしろ、未練がましい追っ手や、面倒な「慈悲」が来ないことに安堵していた。重要なのは、自分が確実に「追放」され、目的地である『霧深き森』へ向かっているという事実だけだ。
「……おい、着いたぞ」
二日の間、必要最低限の言葉しか発しなかった御者台の衛兵が、不意に、吐き捨てるように言った。
馬車が、軋む音を立てて止まる。
衛兵が、乱暴に荷台の鉄格子の扉を開けた。湿った外気が、カビ臭い馬車の中に流れ込んでくる。
「降りろ、悪女め」
「ええ、喜んで」
ソフィアは、泥だらけになった夜会用のドレスの裾をたくし上げ、ためらうことなく馬車から飛び降りた。
二日間のろくな食事も与えられなかった生活で、体はふらついたが、精神はむしろ刃物のように冴え渡っていた。
目の前に広がっていたのは、まさに「壁」だった。
空を覆い尽くすかのようにそびえ立つ、樹齢何百年かも分からない巨大な木々。その幹は黒々として、まるで世界の終わりを示す柵のように隙間なく並び立っている。その根元には、わずかな光すら拒むようにシダや茨が隙間なく生い茂り、奥からは得体の知れない湿気と、濃密な腐葉土の匂い、そして微かな獣の匂いが立ち込めてくる。
ここが、国境の『霧深き森』。
その名の通り、森の奥は深い霧に包まれ、太陽が真上にあるはずの昼間だというのに、薄闇が支配していた。
「ひっ……」
衛兵の一人が、森の入り口が放つ異様な空気に怯えたように息を飲む。彼の手は、腰の剣の柄を固く握りしめていた。
「な、何をぐずぐずしている! さあ、行け! さっさと中に入れ!」
もう一人の衛兵が、自らの恐怖を振り払うかのように、ソフィアの背中を乱暴に突き飛ばした。
「きゃっ」
ソフィアは、わざと小さく悲鳴を上げながらよろめき、森の入り口、茨の茂みの中に倒れ込んだ。上質な絹のドレスが、鋭い棘に無残に引き裂かれる。
「せいぜい、魔物の餌にでもなるがいいさ。聖女リリア様に逆らった罰だ」
衛兵たちは、これ以上この不気味な場所に一秒たりともいたくないとばかりに、慌てて馬車に飛び乗る。
「ご忠告どうも。ですが、心配には及びませんわ」
ソフィアは、泥のついた顔を上げ、衛兵たちに向かって、完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。それは、クライネルト侯爵令嬢として、数えきれないほどの夜会で浮かべてきた、非の打ち所のない笑みだった。
その瞳は、絶望とは程遠い、静かで、冷たいほどの光を宿していた。
「なっ……! き、気味の悪い女め!」
衛兵たちは、その死地に捨てられるとは思えないソフィアの態度に、本能的な恐怖を感じたようだった。彼らは悪態をつくと、鞭を激しく打ち鳴らし、慌てて馬車をUターンさせ、逃げるように走り去っていった。
ガタン、ゴトン……。
馬車の音が完全に遠ざかり、森には完全な静寂が戻った。
鳥の声すら聞こえない。聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、霧が流れる音だけ。
(……行ったわね)
ソフィアは、ゆっくりと立ち上がった。
ドレスを引き裂いた茨の棘で、腕にはいくつもの引っ掻き傷ができ、血が滲んでいる。
だが、ソフィアは構わなかった。
彼女はまず、ドレスの背中にある編み上げ(レース)の紐を掴むと、ありったけの力で引きちぎった。
「……っ!」
ブチブチと音を立てて紐が切れ、十八年間、彼女の内臓を締め付けていたコルセットが緩む。
「……はぁーーーーっ!」
ソフィアは、生まれて初めてするような深呼吸で、思い切り息を吸い込んだ。
(ああ、空気が美味しい)
腐葉土と、未知の植物が発する青臭い匂い。それは、前世の研究者・葉山カオリにとって、何よりも心を落ち着かせるアロマだった。侯爵邸の、高価な香油や焚香の匂いより、よほど魂が喜んでいるのが分かった。
彼女は次に、動きの邪魔になるドレスの長いスカート部分を、茨の棘にわざと引っ掛け、ビリビリと豪快に引き裂いた。膝丈ほどの長さになり、格段に動きやすくなる。もはや「ドレス」とは呼べない、ただのボロ布だ。
最後に、パーティー用の華奢な靴を脱ぎ捨て、荷物として唯一持つことを許された粗末な麻袋——中身は、追放を予期してソフィア自身が密かに詰め替えておいたものだ——から、履き古した丈夫な革のブーツ(学園での乗馬用だった)を取り出して履き替えた。
「さて」
準備は整った。
目の前に広がるのは、人が踏み入ることを拒む、死の森。
だが、ソフィアの目には、それが世界で最も魅力的な「宝の山」に映っていた。
「私の新しい研究室(ラボ)……。いったい、どんな発見が待っているのかしら」
その瞳は、もはや絶望に打ちひしがれた貴族令嬢のものではなかった。未知のフィールドに足を踏み入れる、興奮に飢えた研究者の目だった。
ソフィアは、霧深き森の奥へと、確かな一歩を踏み出した。
不規則で暴力的な振動が、ソフィアの全身を打ち据える。
もはや「道」とは呼べない獣道を、車輪が無理やり進んでいく。罪人を護送するためだけに作られた、サスペンションという概念すらない荷馬車だ。その荷台の、カビ臭い干し草の上に、ソフィアは無造作に放り込まれていた。
王都を発ってから、丸二日が経過していた。
あの夜会での断罪の後、ソフィアは王城の地下牢——それも、政治犯や重罪人を収容する、光の届かない石牢に一晩だけ入れられた。夜会用の薄いドレス一枚では、夜の冷気は骨身に染みた。だが、ソフィアは寒さに震えるどころか、むしろその冷たさで思考が冴え渡るのを感じていた。
(計画は成功した。あとは、目的地に着くだけ)
翌朝、差し出されたのは、硬い黒パン一切れと、生ぬるい水だけだった。彼女はそれを文句一つ言わずに受け取り、ゆっくりと食べた。これから始まるサバイバルのためには、わずかなカロリーも無駄にはできない。
そして、この護送馬車に乗せられた。
クライネルト侯爵家からの抗議も、国王陛下からの赦免も、一切なかった。
(まあ、そうでしょうね)
ソフィアは、鉄格子の隙間から見える、流れ去る景色をぼんやりと眺めながら推察する。
アルベルト殿下がよほど強硬に「王命」を押し通したのか。あるいは、侯爵家が「王家に逆らった(と公表された)娘」として、早々に見切りをつけたのか。
おそらく後者だ。クライネルト家は、常に王家の忠実な盾であることを是としてきた。ソフィアという「瑕疵」は、家の体面のために、迅速に切り捨てられたのだろう。
(どちらでもいいわ)
ソフィアにとっては、実家がどう動こうと関係なかった。むしろ、未練がましい追っ手や、面倒な「慈悲」が来ないことに安堵していた。重要なのは、自分が確実に「追放」され、目的地である『霧深き森』へ向かっているという事実だけだ。
「……おい、着いたぞ」
二日の間、必要最低限の言葉しか発しなかった御者台の衛兵が、不意に、吐き捨てるように言った。
馬車が、軋む音を立てて止まる。
衛兵が、乱暴に荷台の鉄格子の扉を開けた。湿った外気が、カビ臭い馬車の中に流れ込んでくる。
「降りろ、悪女め」
「ええ、喜んで」
ソフィアは、泥だらけになった夜会用のドレスの裾をたくし上げ、ためらうことなく馬車から飛び降りた。
二日間のろくな食事も与えられなかった生活で、体はふらついたが、精神はむしろ刃物のように冴え渡っていた。
目の前に広がっていたのは、まさに「壁」だった。
空を覆い尽くすかのようにそびえ立つ、樹齢何百年かも分からない巨大な木々。その幹は黒々として、まるで世界の終わりを示す柵のように隙間なく並び立っている。その根元には、わずかな光すら拒むようにシダや茨が隙間なく生い茂り、奥からは得体の知れない湿気と、濃密な腐葉土の匂い、そして微かな獣の匂いが立ち込めてくる。
ここが、国境の『霧深き森』。
その名の通り、森の奥は深い霧に包まれ、太陽が真上にあるはずの昼間だというのに、薄闇が支配していた。
「ひっ……」
衛兵の一人が、森の入り口が放つ異様な空気に怯えたように息を飲む。彼の手は、腰の剣の柄を固く握りしめていた。
「な、何をぐずぐずしている! さあ、行け! さっさと中に入れ!」
もう一人の衛兵が、自らの恐怖を振り払うかのように、ソフィアの背中を乱暴に突き飛ばした。
「きゃっ」
ソフィアは、わざと小さく悲鳴を上げながらよろめき、森の入り口、茨の茂みの中に倒れ込んだ。上質な絹のドレスが、鋭い棘に無残に引き裂かれる。
「せいぜい、魔物の餌にでもなるがいいさ。聖女リリア様に逆らった罰だ」
衛兵たちは、これ以上この不気味な場所に一秒たりともいたくないとばかりに、慌てて馬車に飛び乗る。
「ご忠告どうも。ですが、心配には及びませんわ」
ソフィアは、泥のついた顔を上げ、衛兵たちに向かって、完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。それは、クライネルト侯爵令嬢として、数えきれないほどの夜会で浮かべてきた、非の打ち所のない笑みだった。
その瞳は、絶望とは程遠い、静かで、冷たいほどの光を宿していた。
「なっ……! き、気味の悪い女め!」
衛兵たちは、その死地に捨てられるとは思えないソフィアの態度に、本能的な恐怖を感じたようだった。彼らは悪態をつくと、鞭を激しく打ち鳴らし、慌てて馬車をUターンさせ、逃げるように走り去っていった。
ガタン、ゴトン……。
馬車の音が完全に遠ざかり、森には完全な静寂が戻った。
鳥の声すら聞こえない。聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、霧が流れる音だけ。
(……行ったわね)
ソフィアは、ゆっくりと立ち上がった。
ドレスを引き裂いた茨の棘で、腕にはいくつもの引っ掻き傷ができ、血が滲んでいる。
だが、ソフィアは構わなかった。
彼女はまず、ドレスの背中にある編み上げ(レース)の紐を掴むと、ありったけの力で引きちぎった。
「……っ!」
ブチブチと音を立てて紐が切れ、十八年間、彼女の内臓を締め付けていたコルセットが緩む。
「……はぁーーーーっ!」
ソフィアは、生まれて初めてするような深呼吸で、思い切り息を吸い込んだ。
(ああ、空気が美味しい)
腐葉土と、未知の植物が発する青臭い匂い。それは、前世の研究者・葉山カオリにとって、何よりも心を落ち着かせるアロマだった。侯爵邸の、高価な香油や焚香の匂いより、よほど魂が喜んでいるのが分かった。
彼女は次に、動きの邪魔になるドレスの長いスカート部分を、茨の棘にわざと引っ掛け、ビリビリと豪快に引き裂いた。膝丈ほどの長さになり、格段に動きやすくなる。もはや「ドレス」とは呼べない、ただのボロ布だ。
最後に、パーティー用の華奢な靴を脱ぎ捨て、荷物として唯一持つことを許された粗末な麻袋——中身は、追放を予期してソフィア自身が密かに詰め替えておいたものだ——から、履き古した丈夫な革のブーツ(学園での乗馬用だった)を取り出して履き替えた。
「さて」
準備は整った。
目の前に広がるのは、人が踏み入ることを拒む、死の森。
だが、ソフィアの目には、それが世界で最も魅力的な「宝の山」に映っていた。
「私の新しい研究室(ラボ)……。いったい、どんな発見が待っているのかしら」
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