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第2章 起動
2-3:森番の小屋と生体認証
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牙猪と遭遇してから、さらに一時間ほど歩いただろうか。
膝は笑い始め、空腹と疲労で、侯爵令嬢としての脆弱な肉体が悲鳴を上げ始めていた。引き裂いたドレスは泥と汗で重く、肌に張り付いて不快だ。
(……さすがに、きついわね)
前世のカオリの精神力で、ソフィアの肉体を無理やり動かしているようなものだ。
それでも、下り坂だった地形が、わずかに開け、小さな丘のようになっている場所に出た。
そして、何よりも待ち望んでいた音が聞こえてきた。
(水の音……!)
間違いなく、近くに川が流れている。
ソフィアは、最後の気力を振り絞り、音のする方へと足を速めた。
視界が、開けた。
そこは、森の中では珍しく、巨大な木々が円形に切り開かれ、霧が薄く、陽光が柔らかく降り注ぐ、小さな広場のような場所だった。そして、その脇には、大人の膝ほどの深さの、驚くほど清らかな水が流れる小川が走っている。
(水、日当たり……完璧だわ)
ソフィアは、その場に座り込みそうになるのを堪えた。
そして、彼女の目は、広場の奥、小高い丘の背に立つ「それ」に釘付けになった。
蔦に覆われ、壁の一部は苔むしてはいるが、明らかに人の手によって作られた、石造りの頑丈な小屋だった。
屋根はスレート(石の板)で葺かれており、多少の欠けはあるものの、しっかりと残っている。壁には小さな窓枠があり、そして何より、立派な石造りの煙突までついている。
(……あった!)
ソフィアは駆け寄った。
おそらく、かつてこの森を管理していた「森番」の小屋だろう。王都の文献によれば、この森が「禁断の地」と定められたのは、数百年も前のこと。それ以前は、王家の薬草園として管理されていた時期もあるという。
今は打ち捨てられて久しいようだが、石造りの基礎はびくともしていない。
「ここが……ここが、私の、アトリエ(研究室)ね!」
歓喜がこみ上げてきた。
王都のクライネルト侯爵邸の、埃一つない完璧な自室よりも、今にも崩れそうなこの古びた小屋の方が、ソフィアにとってはよほど価値があった。
日当たりは良好。つまり、ハーブ園が作れる。インターフェイスが無くても、この日照条件なら栽培適地だと分かる。
小川が近い。つまり、水に困らない。飲料水にも、実験にも使える。
石造り。つまり、牙猪クラスの魔物の襲撃にもある程度耐えられるし、火(かまど)を使っても燃えにくい。
(最高じゃない……! まるで、私のために用意されていたみたいだわ)
ソフィアは、高鳴る胸を抑え、小屋の扉に手をかけた。
風雨にさらされたオーク材の扉は、湿気を吸って重く、冷たい。表面には、奇妙な幾何学模様が薄く刻まれている。何かの魔術的な防護印だろうか。
(ここから、私の新しい人生が始まる)
彼女が、扉を押し開けようと、ぐっと力を込めた、その瞬間だった。
——ジジッ。
脳内に、軽いノイズのようなものが走った。
(え?)
そして、機械的で、しかしどこか温かみのある、女の声とも男の声ともつかない合成音声が、直接、頭の中に響き渡った。
『――生体認証完了』
『適合を確認。対象:ソフィア・フォン・クライネルト。及び、魂の重複存在(デュアル・ソウル):葉山カオリ』
『前世(葉山カオリ)の知識(ナレッジベース)との一次リンクを開始します』
「な……なに?」
ソフィアは、あまりの出来事に扉から手を放し、驚きのあまり後ずさった。
(生体認証? 魂の重複存在? 葉山カオリ、ですって?)
自分の最大の秘密。転生者であること、前世の記憶を持っていること。それを、この謎の声は正確に把握していた。
(まさか、この小屋が……? それとも、この森が?)
混乱するソフィアをよそに、脳内の声は淡々と続けた。
『リンク完了。現世(ソフィア)の魔力適性をキーとし、前世(カオリ)の薬学・植物学知識をデータベースとして再構築します』
『システム、《植物図鑑インターフェイス》を起動します』
(植物図鑑インターフェイス……!)
それは、ソフィアが幼い頃、侯爵邸の庭の花に触れた時に一度だけ覚醒しかけた、あの力の名だった。
あの時は、ただ「情報が流れ込んでくる」だけだった。まるで、壊れたラジオのように、断片的な情報が脳を混乱させるだけだった。
だが、今は違う。
(システム、として起動する……? 魔力適性をキーに? 知識をデータベースとして再構築?)
その言葉の響きは、前世で研究に使っていた情報解析ソフトを彷彿とさせた。
(つまり、私の前世の知識というOSに、この世界の魔力というバッテリーが接続され、植物図鑑というアプリがインストールされた、ということ……?)
ソフィアは、ゴクリと唾を飲んだ。
自分の身に起こったことが、とんでもない「チート」であることに、彼女はようやく確信を持った。
(これは、試してみるしかないわね)
彼女の目は、恐怖から、再び研究者の強い好奇心の色に変わっていた。
膝は笑い始め、空腹と疲労で、侯爵令嬢としての脆弱な肉体が悲鳴を上げ始めていた。引き裂いたドレスは泥と汗で重く、肌に張り付いて不快だ。
(……さすがに、きついわね)
前世のカオリの精神力で、ソフィアの肉体を無理やり動かしているようなものだ。
それでも、下り坂だった地形が、わずかに開け、小さな丘のようになっている場所に出た。
そして、何よりも待ち望んでいた音が聞こえてきた。
(水の音……!)
間違いなく、近くに川が流れている。
ソフィアは、最後の気力を振り絞り、音のする方へと足を速めた。
視界が、開けた。
そこは、森の中では珍しく、巨大な木々が円形に切り開かれ、霧が薄く、陽光が柔らかく降り注ぐ、小さな広場のような場所だった。そして、その脇には、大人の膝ほどの深さの、驚くほど清らかな水が流れる小川が走っている。
(水、日当たり……完璧だわ)
ソフィアは、その場に座り込みそうになるのを堪えた。
そして、彼女の目は、広場の奥、小高い丘の背に立つ「それ」に釘付けになった。
蔦に覆われ、壁の一部は苔むしてはいるが、明らかに人の手によって作られた、石造りの頑丈な小屋だった。
屋根はスレート(石の板)で葺かれており、多少の欠けはあるものの、しっかりと残っている。壁には小さな窓枠があり、そして何より、立派な石造りの煙突までついている。
(……あった!)
ソフィアは駆け寄った。
おそらく、かつてこの森を管理していた「森番」の小屋だろう。王都の文献によれば、この森が「禁断の地」と定められたのは、数百年も前のこと。それ以前は、王家の薬草園として管理されていた時期もあるという。
今は打ち捨てられて久しいようだが、石造りの基礎はびくともしていない。
「ここが……ここが、私の、アトリエ(研究室)ね!」
歓喜がこみ上げてきた。
王都のクライネルト侯爵邸の、埃一つない完璧な自室よりも、今にも崩れそうなこの古びた小屋の方が、ソフィアにとってはよほど価値があった。
日当たりは良好。つまり、ハーブ園が作れる。インターフェイスが無くても、この日照条件なら栽培適地だと分かる。
小川が近い。つまり、水に困らない。飲料水にも、実験にも使える。
石造り。つまり、牙猪クラスの魔物の襲撃にもある程度耐えられるし、火(かまど)を使っても燃えにくい。
(最高じゃない……! まるで、私のために用意されていたみたいだわ)
ソフィアは、高鳴る胸を抑え、小屋の扉に手をかけた。
風雨にさらされたオーク材の扉は、湿気を吸って重く、冷たい。表面には、奇妙な幾何学模様が薄く刻まれている。何かの魔術的な防護印だろうか。
(ここから、私の新しい人生が始まる)
彼女が、扉を押し開けようと、ぐっと力を込めた、その瞬間だった。
——ジジッ。
脳内に、軽いノイズのようなものが走った。
(え?)
そして、機械的で、しかしどこか温かみのある、女の声とも男の声ともつかない合成音声が、直接、頭の中に響き渡った。
『――生体認証完了』
『適合を確認。対象:ソフィア・フォン・クライネルト。及び、魂の重複存在(デュアル・ソウル):葉山カオリ』
『前世(葉山カオリ)の知識(ナレッジベース)との一次リンクを開始します』
「な……なに?」
ソフィアは、あまりの出来事に扉から手を放し、驚きのあまり後ずさった。
(生体認証? 魂の重複存在? 葉山カオリ、ですって?)
自分の最大の秘密。転生者であること、前世の記憶を持っていること。それを、この謎の声は正確に把握していた。
(まさか、この小屋が……? それとも、この森が?)
混乱するソフィアをよそに、脳内の声は淡々と続けた。
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それは、ソフィアが幼い頃、侯爵邸の庭の花に触れた時に一度だけ覚醒しかけた、あの力の名だった。
あの時は、ただ「情報が流れ込んでくる」だけだった。まるで、壊れたラジオのように、断片的な情報が脳を混乱させるだけだった。
だが、今は違う。
(システム、として起動する……? 魔力適性をキーに? 知識をデータベースとして再構築?)
その言葉の響きは、前世で研究に使っていた情報解析ソフトを彷彿とさせた。
(つまり、私の前世の知識というOSに、この世界の魔力というバッテリーが接続され、植物図鑑というアプリがインストールされた、ということ……?)
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