『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』

とびぃ

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第3章 開拓(アトリエLv.1)

3-1:夢の工房(アトリエ)

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『植物図鑑インターフェイス』の起動という、予想だにしなかった、しかし望外のチート能力の覚醒に、ソフィアの心は高揚していた。興奮で指先がわずかに震える。
(すごい……これさえあれば、私はこの森で、前世で夢見た以上の研究ができる!)
だが、彼女はすぐに冷静さを取り戻した。研究者(カオリ)としての合理的な思考が、高ぶる感情を抑え込む。
(ダメよ、浮かれては。最優先事項は変わらない。安全な拠点の確保。そして、今夜を無事に越すこと)
彼女の目は、目の前にある「森番の小屋」の、重いオーク材の扉へと戻された。先ほど『生体認証』が走った、あの扉だ。
ソフィアは、今度こそ、その扉に全体重をかけて、ゆっくりと押し開けた。
ギィィ……ッ。
長い間、動かされることのなかった蝶番が、悲鳴のような軋んだ音を立てる。
隙間から、内部の空気が流れ出してきた。それは、埃と、カビと、わずかな獣の匂いが混じり合った、濃密な「停滞」の匂いだった。
(……王宮のお偉方が嗅いだら、一秒で卒倒しそうな香りね)
だが、ソフィアは怯まなかった。むしろ、この「手つかず」の状態に、ある種の愛おしさすら感じていた。
光が差し込まない室内は、薄暗かった。
ソフィアが中へ一歩足を踏み入れると、床に積もった分厚い埃が、彼女の動きに反応して静かに舞い上がる。
「……うっ」
思わず口元を、ボロボロになったドレスの袖で覆う。
だが、目は暗闇に慣れようと、必死に室内の様子を捉えようとしていた。
そこは、想像していたよりもずっと「ちゃんとした」小屋だった。
広さは、王宮の自室の控えの間ほど——いや、平民の家としては標準的な、六畳間が二つ分くらいの広さだろうか。壁も床も、すべて石造りだ。これなら、牙猪(ファングボア)の突進でもなければ、そう簡単には壊れないだろう。
奥には、立派な石造りの暖炉(かまど)が鎮座している。その存在感が、この小屋が単なる物置ではなく、生活の場であったことを示していた。
しかし、残された「生活の痕跡」は、無残なものだった。
部屋の隅には、簡素なベッドの——それも、木枠が腐り落ち、中身の藁がカビて散乱した——残骸がある。
中央には、片足が折れた木製のテーブルと、ひっくり返った椅子。
そして、何よりも目を引いたのは、天井の梁から壁にかけて、カーテンのように張り巡らされた、おびただしい数の蜘蛛の巣だった。埃を吸って灰色になったそれが、まるで忌まわしいタペストリーのように垂れ下がっている。
(……これは、骨が折れそうね)
侯爵令嬢ソフィアとして生きてきた十八年間、彼女は掃除というものをしたことがなかった。クライネルト侯爵邸は、常に完璧に磨き上げられ、埃一つ落ちていなかったからだ。
だが、前世の葉山カオリは違う。
彼女は、万年人手不足の研究室で、実験器具の洗浄から、床にこぼれた試薬の処理まで、すべて自分でやってきた。
(あの頃に比べれば、ただの埃と蜘蛛の巣なんて、可愛いものよ)
むしろ、この「自分の城」を、自分の手で完璧な「研究室(アトリエ)」に作り替えていく作業に、ソフィアの心は躍っていた。
王宮で、侍女に完璧に整えられた、息苦しいほどの清潔さ。
それに比べて、この埃まみれの小屋は、なんと自由なのだろうか。
「さて、まずは換気と、掃除道具の確保ね」
ソフィアは、壁際にある小さな窓枠に近づいた。ガラスはとうの昔に割れ落ち、木の板が打ち付けられている。彼女がその板に力を込めると、腐っていたのか、バリバリと音を立てて外れた。
外の、湿った緑の匂いを含んだ空気が、よどんだ室内の空気と入れ替わっていく。差し込んだ光が、埃をキラキラと輝かせた。
(よし、明るくなった)
彼女は麻袋(サバイバルキット)を床に置くと、中から愛用の乗馬用ナイフを取り出した。そして、小屋の隅に立てかけられていた、朽ちかけた箒(ほうき)の柄に目をつけた。
(穂先はもうダメね。でも、この柄は使える)
彼女はナイフで、箒の先端についていた植物の束を切り落とし、ただの棒にした。
次に、小川のほとりへ行き、自生していた背の高い、硬い繊維質の草(インターフェイスで『掃き草:分類イネ科。繊維が硬く、束ねることで簡易箒になる』と確認済み)を大量に刈り取った。
麻袋から取り出した予備の麻紐で、その草の束を棒の先に固く、固く縛り付ける。
(完璧な、即席ほうきの完成ね)
ソフィアは、その不格好だが実用的な道具に満足げに頷くと、小屋に戻った。
そして、まず、天井の梁から、その即席ほうきを振るい、蜘蛛の巣を払い落としていく。
バサッ、バサッ。
何十年分もの埃と、虫の死骸が、雪のように降ってくる。ソフィアは構わず、髪が真っ白になるのも気にせずに作業を続けた。
(王宮の令嬢たちが見たら、卒倒どころか憤死するかもしれないわね。楽しいのに)
次に、床。
積もった埃とカビた藁を、入り口から外へ、外へと掃き出していく。
侯爵令嬢の華奢な腕にはすぐに乳酸が溜まり、汗が玉のように噴き出す。だが、ソフィアの動きは止まらない。
(ああ、体を動かすって、なんて気持ちいいのかしら)
ダンスのレッスンのような、決められた動きの反復ではない。明確な「目的」のための、「合理的」な労働。それこそが、葉山カオリの精神を最も満たすものだった。
掃き掃除だけで、一時間以上かかっただろうか。
床の石畳が見えてきたところで、彼女は麻袋から、もう一つの「宝物」を取り出した。それは、前世で愛用していた、固形のマルセイユ石鹸(ハーブ石鹸)だった。
(このために、お小遣いをはたいて商会から取り寄せておいて正解だったわ)
彼女は、小川から汲んできた水(持参した折り畳み式の革バケツを使った)に石鹸を溶かし、夜会で着ていたドレスの、まだ綺麗だった部分を引き裂いて雑巾代わりにした。
そして、床を、壁を、窓枠を、ゴシゴシと磨き始めた。
カビの匂いが、石鹸の清々しいハーブの香りに変わっていく。
黒ずんでいた石畳が、本来の青みがかった美しい色を取り戻していく。
すべての掃除が終わる頃には、西の空がわずかに傾き始めていた。
ソフィアは、汗だくのまま、綺麗になった小屋の中央に仁王立ちになった。
(……上出来だわ)
室内は、まだ湿っぽさは残るものの、あの忌まわしい埃とカビの匂いは消え、石鹸と、森の緑の匂いが満ちていた。
そこはもはや「打ち捨てられた小屋」ではなかった。
ソフィア・フォン・クライネルトの、城であり、家であり、そして何より、夢の工房(アトリエ)だった。
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