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第6章 流行病(王都の混乱)
6-1:王宮薬師長の傲慢
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王都は、爛熟(らんじゅく)していた。
少なくとも、王宮薬師長オーギュストの目には、その腐敗寸前の輝きこそが、自らの権力が及ぶ範囲そのものに映っていた。
王城の北塔。そこは、意図的に太陽光が遮断された、彼の聖域(サンクチュアリ)であり、研究室だった。
ソフィアが根城とする、生命(ハーブ)の匂いと、実用的な生活感、そして未来への希望に満ちた森番の小屋(アトリエ)とは、あらゆる意味で対極にある空間だった。
アトリエが「生」を育む場所ならば、この研究室は「死」を陳列する場所だ。
窓は、分厚い深紅のビロードのカーテンで固く閉ざされ、真昼だというのに、蝋燭の、脂が燃える微かな匂いと、魔道具のかすかな発光だけが光源だった。
室内に満ちているのは、何世紀分もの埃を吸った古書の、カビ臭い匂い。防腐処理に使われるホルマリンに似た、得体の知れない薬剤の、鼻の奥をツンと刺す刺激臭。そして、それら全てを覆い隠すかのような、濃密な「停滞」の匂いだった。
壁一面には、黒檀(こくたん)で作られた無数の薬棚が並んでいる。だが、そこにガラス瓶に詰められて整然と並べられているのは、ソフィアが追い求める「薬草(ハーブ)」ではない。
『グリフォンの肝(乾燥)』
『マンティコアの毒針(粉末)』
『リザードマンの眼球(ホルマリン漬け)』
『呪われた沼のヘドロ(濃縮)』……。
それらは「薬学」の成果物ではなく、「錬金術」や「呪術」の領域に属する、およそまともな薬効など期待できそうもない、おどろおどろしい素材(マテリアル)ばかりだった。
(馬鹿どもめ。薬草(ハーブ)ごときで、病が治ってたまるか)
オーギュストは、豪奢な彫刻が施された椅子に深く身を沈め、机に積まれた報告書の山を、薄い唇を歪めて満足げに眺めていた。
彼は、かつて王立学園の薬学科に籍を置いていた。だが、彼は才能に恵まれなかった。
地道な成分分析や、膨大な文献の暗記、失敗と検証の繰り返し——ソフィア(カオリ)が本能的に喜びを見出す、それら「学問」のプロセスが、彼には苦痛でしかなかった。彼は、もっと手っ取り早く、劇的な「力」と「権威」を求めた。
結果、彼は「薬学」を捨てた。あんなものは、魔法や奇跡の「下位互換」だと。
そして、「錬金術」と、王家に伝わる「聖女の伝承」に傾倒していった。彼は、聖女リリアこそが、自分の権威を絶対的なものにするための「至宝」であり、最高の「駒」だと確信していた。
(聖女の治癒は、素晴らしい。だが、それだけでは足りん)
オーギュストの歪んだ思考は、こう結論づけた。
(民衆という愚かな羊は、『脅威』がなければ『救い』の価値を理解できん。彼らが真に聖女様を崇め、王家の権威にひれ伏すためには、聖女様にしか治せない『神の試練』が必要なのだ)
そして彼は、それを「創り出した」。
彼が密かに研究していた、古代遺跡の特定の植物から採取した「呪いの花粉」。それを、王都の下町の井戸に、ごく微量、散布させた。
狙い通り、病は流行した。
『黒咳病』——オーギュストが自ら名付けたその病は、通常の神官の治癒魔法では治らず、聖女リリアの「奇跡の光」でのみ、一時的に快方に向かった。
「聖女様、ありがとうございます!」
「おお、さすがは聖女様!」
民衆は熱狂し、貴族たちはこぞって高額な「寄付金」を教会(と、それを管理するオーギュストの部署)に納めた。アルベルト王太子は、自らが見出した聖女の活躍に満足し、オーギュストの地位も、王宮薬師長として盤石なものとなった。
(すべては、我が計画通り)
オーギュストは、机に置かれた金袋の一つを、まるで愛しいペットでも撫でるかのように、その節くれだった指で、恍惚とした表情で撫でた。金の冷たさと重みが、彼の乾いた心を潤していく。
「……だが」
彼は、最新の報告書を手に取り、眉をひそめた。
「少々、効き目が弱まってきたか。民衆も、あの程度の咳には慣れ始めてきたようだ。寄付金の額も、頭打ちになりつつある」
彼の自尊心は、もはや金銭だけでは満たされなかった。
彼は、この国の「病」と「救い」のすべてを、自らの手で掌握したかった。
(それに……あのロイドとかいう、小賢しい商人が、『黒咳病』にかかったまま王都から逃げ出した、という報告もある。あの男、妙に勘が鋭い。あれがもし、どこぞの田舎で、まぐれで治癒でもしてみろ。聖女様の権威に傷がつく。……早急に、手を打たねばならん)
オーギュストは、研究室の奥、錬金陣が刻まれた、厳重に鍵をかけた棚へと向かった。
(第二段階(フェーズ・ツー)に移る時が来たようだな)
彼は、棚の奥から、一つの小瓶を取り出した。
中に入っているのは、以前使った「呪いの花粉」とは、明らかに色の違う、禍々しいまでの『紫色』に変異した花粉だった。それは、瓶の中で、まるで生きているかのように、不気味に蠢(うごめ)いて見えた。
(最初の花粉を、さらに高濃度の魔力(グリフォンの肝)に浸し、変異を促した『選別種』。これならば、聖女様の光にも、より強い『耐性』を示すはず)
彼の計画では、こうだ。
この変異種(フェーズ・ツー)を、今度は「貴族街」に撒く。
貴族たちが次々と倒れ、聖女リリアの治癒魔法ですら、一度では完治せず、二度、三度と、より強い「祈り」と、より高額な「寄付」をしなければ治らない、という状況を演出する。
そうすることで、貴族たちは聖女の力を絶対視し、王家への忠誠を(恐怖と共に)再確認するだろう。
(ふふふ……アルベルト殿下も、リリアも、愚かな民衆も、貴族どもも……すべて、我が掌の上よ。俺こそが、この国の運命を、裏から操る『神』なのだ)
彼は、その紫色の花粉を、水に溶かした溶液の入った瓶を、影から現れた、顔のない部下に手渡した。
「貴族街の、主要な水源(井戸)に、だ。手筈は分かっておろうな」
「御意に」
部下が、音もなく闇に消える。
オーギュストは、再び椅子に身を沈め、目を閉じた。
(さあ、始まるぞ。国中が、我が創り出した『奇跡』に、再びひれ伏す時が)
彼は、自分の傲慢さが、自らの手にすら負えない「本物の災厄」を生み出してしまったことに、まだ気づいていなかった。
彼の研究室の暗闇の中で、彼がかつて「失敗作」として廃棄したはずの、別の花粉のサンプル瓶が、紫色の光とは異なる、不吉な『黒色』の瘴気を、かすかに放っていたことを、彼は知る由もなかった。
少なくとも、王宮薬師長オーギュストの目には、その腐敗寸前の輝きこそが、自らの権力が及ぶ範囲そのものに映っていた。
王城の北塔。そこは、意図的に太陽光が遮断された、彼の聖域(サンクチュアリ)であり、研究室だった。
ソフィアが根城とする、生命(ハーブ)の匂いと、実用的な生活感、そして未来への希望に満ちた森番の小屋(アトリエ)とは、あらゆる意味で対極にある空間だった。
アトリエが「生」を育む場所ならば、この研究室は「死」を陳列する場所だ。
窓は、分厚い深紅のビロードのカーテンで固く閉ざされ、真昼だというのに、蝋燭の、脂が燃える微かな匂いと、魔道具のかすかな発光だけが光源だった。
室内に満ちているのは、何世紀分もの埃を吸った古書の、カビ臭い匂い。防腐処理に使われるホルマリンに似た、得体の知れない薬剤の、鼻の奥をツンと刺す刺激臭。そして、それら全てを覆い隠すかのような、濃密な「停滞」の匂いだった。
壁一面には、黒檀(こくたん)で作られた無数の薬棚が並んでいる。だが、そこにガラス瓶に詰められて整然と並べられているのは、ソフィアが追い求める「薬草(ハーブ)」ではない。
『グリフォンの肝(乾燥)』
『マンティコアの毒針(粉末)』
『リザードマンの眼球(ホルマリン漬け)』
『呪われた沼のヘドロ(濃縮)』……。
それらは「薬学」の成果物ではなく、「錬金術」や「呪術」の領域に属する、およそまともな薬効など期待できそうもない、おどろおどろしい素材(マテリアル)ばかりだった。
(馬鹿どもめ。薬草(ハーブ)ごときで、病が治ってたまるか)
オーギュストは、豪奢な彫刻が施された椅子に深く身を沈め、机に積まれた報告書の山を、薄い唇を歪めて満足げに眺めていた。
彼は、かつて王立学園の薬学科に籍を置いていた。だが、彼は才能に恵まれなかった。
地道な成分分析や、膨大な文献の暗記、失敗と検証の繰り返し——ソフィア(カオリ)が本能的に喜びを見出す、それら「学問」のプロセスが、彼には苦痛でしかなかった。彼は、もっと手っ取り早く、劇的な「力」と「権威」を求めた。
結果、彼は「薬学」を捨てた。あんなものは、魔法や奇跡の「下位互換」だと。
そして、「錬金術」と、王家に伝わる「聖女の伝承」に傾倒していった。彼は、聖女リリアこそが、自分の権威を絶対的なものにするための「至宝」であり、最高の「駒」だと確信していた。
(聖女の治癒は、素晴らしい。だが、それだけでは足りん)
オーギュストの歪んだ思考は、こう結論づけた。
(民衆という愚かな羊は、『脅威』がなければ『救い』の価値を理解できん。彼らが真に聖女様を崇め、王家の権威にひれ伏すためには、聖女様にしか治せない『神の試練』が必要なのだ)
そして彼は、それを「創り出した」。
彼が密かに研究していた、古代遺跡の特定の植物から採取した「呪いの花粉」。それを、王都の下町の井戸に、ごく微量、散布させた。
狙い通り、病は流行した。
『黒咳病』——オーギュストが自ら名付けたその病は、通常の神官の治癒魔法では治らず、聖女リリアの「奇跡の光」でのみ、一時的に快方に向かった。
「聖女様、ありがとうございます!」
「おお、さすがは聖女様!」
民衆は熱狂し、貴族たちはこぞって高額な「寄付金」を教会(と、それを管理するオーギュストの部署)に納めた。アルベルト王太子は、自らが見出した聖女の活躍に満足し、オーギュストの地位も、王宮薬師長として盤石なものとなった。
(すべては、我が計画通り)
オーギュストは、机に置かれた金袋の一つを、まるで愛しいペットでも撫でるかのように、その節くれだった指で、恍惚とした表情で撫でた。金の冷たさと重みが、彼の乾いた心を潤していく。
「……だが」
彼は、最新の報告書を手に取り、眉をひそめた。
「少々、効き目が弱まってきたか。民衆も、あの程度の咳には慣れ始めてきたようだ。寄付金の額も、頭打ちになりつつある」
彼の自尊心は、もはや金銭だけでは満たされなかった。
彼は、この国の「病」と「救い」のすべてを、自らの手で掌握したかった。
(それに……あのロイドとかいう、小賢しい商人が、『黒咳病』にかかったまま王都から逃げ出した、という報告もある。あの男、妙に勘が鋭い。あれがもし、どこぞの田舎で、まぐれで治癒でもしてみろ。聖女様の権威に傷がつく。……早急に、手を打たねばならん)
オーギュストは、研究室の奥、錬金陣が刻まれた、厳重に鍵をかけた棚へと向かった。
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彼は、棚の奥から、一つの小瓶を取り出した。
中に入っているのは、以前使った「呪いの花粉」とは、明らかに色の違う、禍々しいまでの『紫色』に変異した花粉だった。それは、瓶の中で、まるで生きているかのように、不気味に蠢(うごめ)いて見えた。
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そうすることで、貴族たちは聖女の力を絶対視し、王家への忠誠を(恐怖と共に)再確認するだろう。
(ふふふ……アルベルト殿下も、リリアも、愚かな民衆も、貴族どもも……すべて、我が掌の上よ。俺こそが、この国の運命を、裏から操る『神』なのだ)
彼は、その紫色の花粉を、水に溶かした溶液の入った瓶を、影から現れた、顔のない部下に手渡した。
「貴族街の、主要な水源(井戸)に、だ。手筈は分かっておろうな」
「御意に」
部下が、音もなく闇に消える。
オーギュストは、再び椅子に身を沈め、目を閉じた。
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彼は、自分の傲慢さが、自らの手にすら負えない「本物の災厄」を生み出してしまったことに、まだ気づいていなかった。
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