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第6章 流行病(王都の混乱)
6-2:聖女の涙
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王宮の一角に設けられた、聖女リリアのための「祈りの間」。
そこは、オーギュストの研究室とは対照的に、純白の大理石で覆われ、天井のステンドグラスから差し込む七色の光が、神々しいまでの雰囲気を演出している場所だった。
だが、今、その神々しい空間は、病人の苦しいうめき声と、焦燥感、そして、無力な祈りが空転する、冷たい静寂に包まれていた。
純白の大理石は、差し込む光を反射するにはするが、その光には、もはや何の暖かみも感じられなかった。
「聖女様、どうか……! 息子に、息子のロベールに、もう一度、御力をお貸しください!」
一人の貴婦人が、高価な絹のドレスを床に擦り付け、リリアの足元にすがりついて泣いていた。
「……はい! もちろんです!」
リリアは、その青白い顔に、引きつるような、必死の笑みを貼り付けて頷いた。
彼女の心は、すでに限界だった。
オーギュストが撒いた『黒咳病(フェーズ・ワン)』は、確かに、彼女を「本物の聖女」にした。
王太子アルベルトは、彼女を「国の救い主だ」と抱きしめ、貴族たちは彼女に感謝の言葉を捧げ、民衆は彼女の姿に熱狂した。
(私、役に立ってる。ソフィア様のように、怖くて、難しいことを言わなくても、私は、私にしかできないことで、皆を救えるんだ)
その万能感は、蜜のように甘美だった。
だが、それも、数日前までのこと。
オーギュストが、あの『紫色の花粉(フェーズ・ツー)』を撒いてから、すべてが変わった。
「う……ゲホッ、ゴホッ……! ヒュー……」
ベッドに横たわるのは、先ほどの貴婦人の息子、ロベール。まだ十歳ほどの、公爵家の跡継ぎだった。
数日前までは、ただの咳だった。リリアが光を当てれば、数日は収まっていた。
だが、三日前。彼は、突如として高熱を出し、紫色の血痰を吐き、今や、呼吸すらままならない状態に陥っていた。その小さな体からは、高熱と、薬草(オーギュストが処方した、気休めにしかならない高価なもの)の匂いが、混じり合って立ち上っている。
「聖女様、お願いします!」
「リリア、君ならできる。君は、この国の希望なのだから」
傍らでは、アルベルト王太子が、リリアの肩に手を置き、期待という名の、拒否できないプレッシャーをかけてくる。その瞳には、もはや彼女への「愛しさ」はなく、ただ「機能」への期待だけが浮かんでいた。
(……はい、アルベルト様。私、やります!)
リリアは、愛する王太子の期待に応えるため、最後の気力を振り絞った。
彼女は、ロベールのベッドの前に膝まずき、両手を組んで、祈りを捧げた。
「おお、聖なる光よ。この哀れな子羊を、苦しみから解き放ちたまえ……!」
リリアの全身から、暖かな、黄金色の光が溢れ出した。それは、彼女の魔力そのものであり、彼女の「聖女としての証」だった。
光が、ロベールの体を包み込む。
(お願い、効いて……!)
だが——。
黄金色の光は、ロベールの体に触れた瞬間、まるで、目に見えない「泥」に阻まれたかのように、バチッ、と汚い音を立てて弾け飛んだ。
「え……?」
リリアの祈りが、届かない。
「ゲホッ、ゲホッ! がっ……!」
ロベールの苦しみは、和らぐどころか、むしろ光に刺激されたかのように、さらに激しくなった。
「そ、そんな……。なぜ……?」
リリアは、信じられない思いで、再び、より強く、祈りを込めた。
「光よ!」
黄金色の光が、先ほどよりも強く、ロベールの体を打つ。
だが、結果は同じだった。
光は、ロベールの体を「治癒」するのではなく、彼の体を覆う、目に見えない『紫色の瘴気』とぶつかり合い、まるで黄金の蝶が、紫色の炎に焼かれるかのように、霧散していく。
(ダメ……ダメよ! 私の光が、食べられてる……!)
「リリア! どうした! 早く治癒を!」
アルベルトが、焦燥に満ちた声を上げる。その声には、彼女を気遣う響きは、もはや欠片もなかった。
「聖女様……? まさか、治せないのですか?」
貴婦人の声が、期待から、疑惑と、冷たい絶望の色に変わっていく。
「ち、違います! 私は……私は、聖女です! 治せないはずが……!」
リリアは、パニックに陥った。
彼女は、自分の力の源が、王宮薬師長オーギュストによって(無自覚のうちに)供給されていたことなど、知る由もなかった。
彼女が知っているのは、ただ、自分の「祈り」が、人々を救ってきたという「事実」だけだ。
そして今、その「事実」が、目の前で崩れ去ろうとしていた。
(いや、いや、いや!)
彼女は、泣きながら、叫びながら、何度も、何度も、光を放った。
だが、光は弾かれ続け、ロベールの呼吸は、次第に弱く、浅くなっていく。
「……あ……」
やて、リリアの体から、黄金色の光が、フッと消えた。
魔力の枯渇。
そして、それ以上に、彼女の「聖女である」という、心の支柱が、ポキリと折れた音だった。
「……う……うわあああああああん!」
リリアは、その場に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私の力が……私の力が、足りないから……!」
アルベルトは、その姿を見て、愕然とした。
彼が愛した「奇跡の聖女」は、そこにはいなかった。
そこにいたのは、ただ、無力に泣き叫ぶだけの、一人の世間知らずな少女だった。
「……使えん」
アルベルトが、心の底から吐き捨てるように、冷たく呟いた。
その冷たい声は、リリアの絶望に、さらに追い打ちをかけた。
(ソフィア様……。あの人がいたら……? いや、違う。あの人は、私をいじめた人……。でも……)
リリアの脳裏に、あの断罪の日、冷たい瞳で、しかし、自分を見下すアルベルトの視線すら意に介さず、毅然と立ち去っていった、元・婚約者の姿が、なぜか、浮かび上がってきていた。
そこは、オーギュストの研究室とは対照的に、純白の大理石で覆われ、天井のステンドグラスから差し込む七色の光が、神々しいまでの雰囲気を演出している場所だった。
だが、今、その神々しい空間は、病人の苦しいうめき声と、焦燥感、そして、無力な祈りが空転する、冷たい静寂に包まれていた。
純白の大理石は、差し込む光を反射するにはするが、その光には、もはや何の暖かみも感じられなかった。
「聖女様、どうか……! 息子に、息子のロベールに、もう一度、御力をお貸しください!」
一人の貴婦人が、高価な絹のドレスを床に擦り付け、リリアの足元にすがりついて泣いていた。
「……はい! もちろんです!」
リリアは、その青白い顔に、引きつるような、必死の笑みを貼り付けて頷いた。
彼女の心は、すでに限界だった。
オーギュストが撒いた『黒咳病(フェーズ・ワン)』は、確かに、彼女を「本物の聖女」にした。
王太子アルベルトは、彼女を「国の救い主だ」と抱きしめ、貴族たちは彼女に感謝の言葉を捧げ、民衆は彼女の姿に熱狂した。
(私、役に立ってる。ソフィア様のように、怖くて、難しいことを言わなくても、私は、私にしかできないことで、皆を救えるんだ)
その万能感は、蜜のように甘美だった。
だが、それも、数日前までのこと。
オーギュストが、あの『紫色の花粉(フェーズ・ツー)』を撒いてから、すべてが変わった。
「う……ゲホッ、ゴホッ……! ヒュー……」
ベッドに横たわるのは、先ほどの貴婦人の息子、ロベール。まだ十歳ほどの、公爵家の跡継ぎだった。
数日前までは、ただの咳だった。リリアが光を当てれば、数日は収まっていた。
だが、三日前。彼は、突如として高熱を出し、紫色の血痰を吐き、今や、呼吸すらままならない状態に陥っていた。その小さな体からは、高熱と、薬草(オーギュストが処方した、気休めにしかならない高価なもの)の匂いが、混じり合って立ち上っている。
「聖女様、お願いします!」
「リリア、君ならできる。君は、この国の希望なのだから」
傍らでは、アルベルト王太子が、リリアの肩に手を置き、期待という名の、拒否できないプレッシャーをかけてくる。その瞳には、もはや彼女への「愛しさ」はなく、ただ「機能」への期待だけが浮かんでいた。
(……はい、アルベルト様。私、やります!)
リリアは、愛する王太子の期待に応えるため、最後の気力を振り絞った。
彼女は、ロベールのベッドの前に膝まずき、両手を組んで、祈りを捧げた。
「おお、聖なる光よ。この哀れな子羊を、苦しみから解き放ちたまえ……!」
リリアの全身から、暖かな、黄金色の光が溢れ出した。それは、彼女の魔力そのものであり、彼女の「聖女としての証」だった。
光が、ロベールの体を包み込む。
(お願い、効いて……!)
だが——。
黄金色の光は、ロベールの体に触れた瞬間、まるで、目に見えない「泥」に阻まれたかのように、バチッ、と汚い音を立てて弾け飛んだ。
「え……?」
リリアの祈りが、届かない。
「ゲホッ、ゲホッ! がっ……!」
ロベールの苦しみは、和らぐどころか、むしろ光に刺激されたかのように、さらに激しくなった。
「そ、そんな……。なぜ……?」
リリアは、信じられない思いで、再び、より強く、祈りを込めた。
「光よ!」
黄金色の光が、先ほどよりも強く、ロベールの体を打つ。
だが、結果は同じだった。
光は、ロベールの体を「治癒」するのではなく、彼の体を覆う、目に見えない『紫色の瘴気』とぶつかり合い、まるで黄金の蝶が、紫色の炎に焼かれるかのように、霧散していく。
(ダメ……ダメよ! 私の光が、食べられてる……!)
「リリア! どうした! 早く治癒を!」
アルベルトが、焦燥に満ちた声を上げる。その声には、彼女を気遣う響きは、もはや欠片もなかった。
「聖女様……? まさか、治せないのですか?」
貴婦人の声が、期待から、疑惑と、冷たい絶望の色に変わっていく。
「ち、違います! 私は……私は、聖女です! 治せないはずが……!」
リリアは、パニックに陥った。
彼女は、自分の力の源が、王宮薬師長オーギュストによって(無自覚のうちに)供給されていたことなど、知る由もなかった。
彼女が知っているのは、ただ、自分の「祈り」が、人々を救ってきたという「事実」だけだ。
そして今、その「事実」が、目の前で崩れ去ろうとしていた。
(いや、いや、いや!)
彼女は、泣きながら、叫びながら、何度も、何度も、光を放った。
だが、光は弾かれ続け、ロベールの呼吸は、次第に弱く、浅くなっていく。
「……あ……」
やて、リリアの体から、黄金色の光が、フッと消えた。
魔力の枯渇。
そして、それ以上に、彼女の「聖女である」という、心の支柱が、ポキリと折れた音だった。
「……う……うわあああああああん!」
リリアは、その場に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私の力が……私の力が、足りないから……!」
アルベルトは、その姿を見て、愕然とした。
彼が愛した「奇跡の聖女」は、そこにはいなかった。
そこにいたのは、ただ、無力に泣き叫ぶだけの、一人の世間知らずな少女だった。
「……使えん」
アルベルトが、心の底から吐き捨てるように、冷たく呟いた。
その冷たい声は、リリアの絶望に、さらに追い打ちをかけた。
(ソフィア様……。あの人がいたら……? いや、違う。あの人は、私をいじめた人……。でも……)
リリアの脳裏に、あの断罪の日、冷たい瞳で、しかし、自分を見下すアルベルトの視線すら意に介さず、毅然と立ち去っていった、元・婚約者の姿が、なぜか、浮かび上がってきていた。
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