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第19章:新生の聖女と「能力の変化」
19-7:二人だけの「研究所」
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アトリエ(わたしたちのけんきゅうしつ)に戻ってきた時、渓谷を吹き荒れていた冷たい風の音は、もう聞こえなかった。
代わりに二人を迎えたのは、暖炉の火が静かに爆ぜる、穏やかな音。そして、壁一面に貼られた研究ノートと、整然と並んだガラス器具が作り出す、完璧な「秩序」の空気だった。
「はぁ……っ」
アトリエの重いオーク材の扉が閉まった瞬間、リリアは、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、その場にへなへなと座り込んだ。ブーツも革ズボンも、渓谷の泥と苔で汚れ、汗で湿った亜麻色の髪が、疲労を隠せない頬に張り付いている。
「お疲れ様、リリア助手。よく、ついてきたわね」
私は、そんな彼女の隣に膝をつくと、水差しから汲んだ清潔な水を、木製のカップで差し出した。
「あ……ありがとうございます……」
リリアは、震える手でそれを受け取り、乾ききった喉に流し込んだ。水の冷たさが、火照った体に染み渡っていく。
疲労は、聖女だった頃の比ではなかった。馬車にも乗らず、自分の足で、あの険しい岩場を歩き通したのだ。だが、不思議と、気分は悪くなかった。むしろ、心地よい疲労感と共に、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを、彼女は感じていた。
(私、歩けた。ソフィアさんと、一緒に……)
王都からこのアトリエまで、死に物狂いでたどり着いた時の「絶望」とは違う。自分の「意志」で、自分の「足」で、このアトリエから出発し、そして「成果」を持って、今、戻ってきたのだ。
「さて」
私は、リリアが呼吸を整えるのを待つと、休む間もなく立ち上がった。
私の顔には、疲労の色はなかった。むしろ、未知のサンプルを前にした、前世(カオリ)からの研究者としての「興奮」で、その赤い瞳はギラギラと輝いていた。
「疲れているところ悪いけれど、ここからが『本当の仕事』よ」
私は、革のケースから、厳重に封印された二本のガラス瓶を取り出し、実験台の、最も明るいアルコールランプの光の下に、カタン、と音を立てて並べた。
一つは、リリアが「オレンジ色の光」と呼んだ、清浄な水脈の土壌サンプル。
もう一つは、彼女が「氷のように冷たい黒」と呼んだ、あの汚染の中心部の、ブライトの泥。
「こ、これが……」
リリアも、その二つのサンプルが持つ、対極的な「気配」に、ゴクリと息を飲んだ。アトリエという「安全」な場所で見ても、あの黒い泥は、周囲の光を吸い込むかのように、不気味な存在感を放っている。
「まずは、あなたの『目』の、裏付け(エビデンス)を取りましょうか」
私は、まず「清浄サンプル」の瓶を開け、その土壌を数グラム、白磁の皿に取り分けた。
「私のインターフェイスによれば……」
私は、その土壌に触れ、脳内に展開される情報を読み上げる。
「成分、高純度のシリカ(ケイ砂)、微量の鉄分、そして、聖樹由来の高密度魔力(マナ)の痕跡。……なるほど、温かく感じたのは、この『魔力の痕跡』のせいね。あなたの感覚(センス)と、私の分析(サイエンス)が、完全に一致したわ」
「本当……! 私の『見えた』もの、合ってたんですね……!」
リリアの顔が、ぱあっと輝いた。
「ええ。問題は、こっちよ」
私の表情が、険しくなる。
私は、採取に使ったナイフとは別の、分析用の滅菌されたピンセットを使い、「汚染サンプル」の黒い泥を、ほんの僅か、別の白磁の皿に取り分けた。
アトリエの室温に触れた瞬間、その黒い泥は、まるで、生きているかのように、わずかに、粘性を帯びて動いた気がした。
私は、息を止め、その泥に、指先(インターフェイス)を、触れさせた。
次の瞬間。
私の脳内に、あの日、聖樹の根元で感じたのと同じ、強烈なエラーメッセージが、赤い警告文となって点滅した。
『警告:高レベル魔力汚染(古代呪術兵器)を検出』
『分類:コード:Unknown(ブライト)』
『構成成分:解析限界超過。既存の化学(データベース)に、該当する物質構造なし』
『状態:活性化(Active)。魔力(マナ)を、分解・消滅させる特性を確認』
「ソフィアさん?」
私の顔色が変わったのを、リリアが不安げに見つめている。
「やはり、ダメね」
私は、大きく、息を吐いた。
「私の『科学(インターフェイス)』では、これが『何』なのか、分からない。ただ、『魔力を消滅させる、危険な毒物』としか、表示されないわ」
私の最強の武器であるはずの、前世の知識(チート)が、この異世界の「理」そのものである呪いの前には、沈黙してしまう。ヴォルフラムの錬金術と同じく、私の科学の「外側」にある存在。
「でも」
私は、顔を上げた。
「私の科学(インターフェイス)が『成分不明』としか表示しないものを、リリア、あなたの『目』は、正確に、観測したわ」
「え……?」
「あなたは、言った。『黒い影』『氷のように冷たい』『生命の光を吸い込もうとしている』……そして、『うごめいている』と」
私は、白磁の皿の上で、不気味な存在感を放つ、黒い泥を指差した。
「私の科学が『結果(データ)』しか表示しないのに対し、あなたの感知は、それが、今、まさに、どういう『状態(ステータス)』で、何をしようとしている『意志(挙動)』なのかを、教えてくれる」
「それこそが、私が、今、一番、欲しい『情報』なのよ」
私の赤い瞳が、リリアの、戸惑う亜麻色の瞳を、まっすぐに射抜いた。
「リリア助手。あなたは、もう、ただの『フィールドワーカー』ではないわ」
「え……」
「あなたは、このアトリエ(けんきゅうしつ)の、『第二の分析官(アナリスト)』よ。私の『化学(サイエンス)』と、あなたの『感知(センス)』。この二つが揃って、初めて、私たちは、あのヴォルフラムの『錬金術(アルケミー)』に、対抗できる」
リリアは、その言葉の意味を、すぐには、理解できなかった。
分析官。
助手。
ソフィアさんと、対等な「パートナー」として、この、彼女が憧れた「研究」の場に、立っている。
聖女として、ただ祈るだけだった自分が。アルベルトの庇護がなければ、何もできなかった自分が。
「私、が……」
リリアの、大きな瞳から、ぽろり、と。
涙が、一筋、こぼれ落ちた。
それは、王都で流した、無力感と絶望の涙ではない。
聖樹の前で流した、喪失と苦痛の涙でもない。
生まれて初めて、自分の「価値」を、自分の「居場所」を、その手で掴み取った、熱い、熱い、歓喜の涙だった。
「はいっ!」
彼女は、革ズボンの泥を拭うのも忘れ、その手で、涙をぐいと拭った。
「はいっ! ソフィアさん! 私、やります! あなたの『助手』として、いえ、『分析官』として!」
その顔は、もう、元・聖女リリアの、か弱い面影は、どこにもなかった。
泥と汗にまみれ、目は泣き腫らしているが、その表情は、自らの意志で未来を切り開こうとする、「研究者」の、晴れやかで、力強い笑顔だった。
(これで、役者は揃ったわね)
私は、この新しい、頼もしい「相棒」の誕生に、満足げに頷いた。
(ギルバートが、王都(せいじ)で、ロイドが、物流(ビジネス)で、戦っているなら)
(私たちは、このアトリエ(ラボ)で、私たちの『戦い』を、始めましょうか)
私は、壁に貼り付けた、まだ真っ白な、新しい研究計画(プロトコル)の羊皮紙を、睨みつけた。
そこには、私の文字で、こう、書き殴られていた。
『研究テーマ:古代呪術兵器(ブライト)の、完全無力化、および、新薬(エリクサーLv.3)への応用』
「さあ、リリア助手」
私は、白衣の袖をまくり上げ、アルコールランプの、青い炎を、灯した。
「ギルバートたちが、王都から、次の『資材(プレゼント)』を持って帰ってくる前に、私たち二人で、あの鉄血伯爵(ヴォルフラム)の、鼻を明かす、準備を、始めましょうか!」
「はいっ!」
渓谷での戦いを終え、アトリエには、二人の「研究者」の、熱を帯びた声が響き渡った。
私の、新しい「スローライフ(けんきゅうせいかつ)」が、今、本当の意味で、始まったのだった。
代わりに二人を迎えたのは、暖炉の火が静かに爆ぜる、穏やかな音。そして、壁一面に貼られた研究ノートと、整然と並んだガラス器具が作り出す、完璧な「秩序」の空気だった。
「はぁ……っ」
アトリエの重いオーク材の扉が閉まった瞬間、リリアは、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、その場にへなへなと座り込んだ。ブーツも革ズボンも、渓谷の泥と苔で汚れ、汗で湿った亜麻色の髪が、疲労を隠せない頬に張り付いている。
「お疲れ様、リリア助手。よく、ついてきたわね」
私は、そんな彼女の隣に膝をつくと、水差しから汲んだ清潔な水を、木製のカップで差し出した。
「あ……ありがとうございます……」
リリアは、震える手でそれを受け取り、乾ききった喉に流し込んだ。水の冷たさが、火照った体に染み渡っていく。
疲労は、聖女だった頃の比ではなかった。馬車にも乗らず、自分の足で、あの険しい岩場を歩き通したのだ。だが、不思議と、気分は悪くなかった。むしろ、心地よい疲労感と共に、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを、彼女は感じていた。
(私、歩けた。ソフィアさんと、一緒に……)
王都からこのアトリエまで、死に物狂いでたどり着いた時の「絶望」とは違う。自分の「意志」で、自分の「足」で、このアトリエから出発し、そして「成果」を持って、今、戻ってきたのだ。
「さて」
私は、リリアが呼吸を整えるのを待つと、休む間もなく立ち上がった。
私の顔には、疲労の色はなかった。むしろ、未知のサンプルを前にした、前世(カオリ)からの研究者としての「興奮」で、その赤い瞳はギラギラと輝いていた。
「疲れているところ悪いけれど、ここからが『本当の仕事』よ」
私は、革のケースから、厳重に封印された二本のガラス瓶を取り出し、実験台の、最も明るいアルコールランプの光の下に、カタン、と音を立てて並べた。
一つは、リリアが「オレンジ色の光」と呼んだ、清浄な水脈の土壌サンプル。
もう一つは、彼女が「氷のように冷たい黒」と呼んだ、あの汚染の中心部の、ブライトの泥。
「こ、これが……」
リリアも、その二つのサンプルが持つ、対極的な「気配」に、ゴクリと息を飲んだ。アトリエという「安全」な場所で見ても、あの黒い泥は、周囲の光を吸い込むかのように、不気味な存在感を放っている。
「まずは、あなたの『目』の、裏付け(エビデンス)を取りましょうか」
私は、まず「清浄サンプル」の瓶を開け、その土壌を数グラム、白磁の皿に取り分けた。
「私のインターフェイスによれば……」
私は、その土壌に触れ、脳内に展開される情報を読み上げる。
「成分、高純度のシリカ(ケイ砂)、微量の鉄分、そして、聖樹由来の高密度魔力(マナ)の痕跡。……なるほど、温かく感じたのは、この『魔力の痕跡』のせいね。あなたの感覚(センス)と、私の分析(サイエンス)が、完全に一致したわ」
「本当……! 私の『見えた』もの、合ってたんですね……!」
リリアの顔が、ぱあっと輝いた。
「ええ。問題は、こっちよ」
私の表情が、険しくなる。
私は、採取に使ったナイフとは別の、分析用の滅菌されたピンセットを使い、「汚染サンプル」の黒い泥を、ほんの僅か、別の白磁の皿に取り分けた。
アトリエの室温に触れた瞬間、その黒い泥は、まるで、生きているかのように、わずかに、粘性を帯びて動いた気がした。
私は、息を止め、その泥に、指先(インターフェイス)を、触れさせた。
次の瞬間。
私の脳内に、あの日、聖樹の根元で感じたのと同じ、強烈なエラーメッセージが、赤い警告文となって点滅した。
『警告:高レベル魔力汚染(古代呪術兵器)を検出』
『分類:コード:Unknown(ブライト)』
『構成成分:解析限界超過。既存の化学(データベース)に、該当する物質構造なし』
『状態:活性化(Active)。魔力(マナ)を、分解・消滅させる特性を確認』
「ソフィアさん?」
私の顔色が変わったのを、リリアが不安げに見つめている。
「やはり、ダメね」
私は、大きく、息を吐いた。
「私の『科学(インターフェイス)』では、これが『何』なのか、分からない。ただ、『魔力を消滅させる、危険な毒物』としか、表示されないわ」
私の最強の武器であるはずの、前世の知識(チート)が、この異世界の「理」そのものである呪いの前には、沈黙してしまう。ヴォルフラムの錬金術と同じく、私の科学の「外側」にある存在。
「でも」
私は、顔を上げた。
「私の科学(インターフェイス)が『成分不明』としか表示しないものを、リリア、あなたの『目』は、正確に、観測したわ」
「え……?」
「あなたは、言った。『黒い影』『氷のように冷たい』『生命の光を吸い込もうとしている』……そして、『うごめいている』と」
私は、白磁の皿の上で、不気味な存在感を放つ、黒い泥を指差した。
「私の科学が『結果(データ)』しか表示しないのに対し、あなたの感知は、それが、今、まさに、どういう『状態(ステータス)』で、何をしようとしている『意志(挙動)』なのかを、教えてくれる」
「それこそが、私が、今、一番、欲しい『情報』なのよ」
私の赤い瞳が、リリアの、戸惑う亜麻色の瞳を、まっすぐに射抜いた。
「リリア助手。あなたは、もう、ただの『フィールドワーカー』ではないわ」
「え……」
「あなたは、このアトリエ(けんきゅうしつ)の、『第二の分析官(アナリスト)』よ。私の『化学(サイエンス)』と、あなたの『感知(センス)』。この二つが揃って、初めて、私たちは、あのヴォルフラムの『錬金術(アルケミー)』に、対抗できる」
リリアは、その言葉の意味を、すぐには、理解できなかった。
分析官。
助手。
ソフィアさんと、対等な「パートナー」として、この、彼女が憧れた「研究」の場に、立っている。
聖女として、ただ祈るだけだった自分が。アルベルトの庇護がなければ、何もできなかった自分が。
「私、が……」
リリアの、大きな瞳から、ぽろり、と。
涙が、一筋、こぼれ落ちた。
それは、王都で流した、無力感と絶望の涙ではない。
聖樹の前で流した、喪失と苦痛の涙でもない。
生まれて初めて、自分の「価値」を、自分の「居場所」を、その手で掴み取った、熱い、熱い、歓喜の涙だった。
「はいっ!」
彼女は、革ズボンの泥を拭うのも忘れ、その手で、涙をぐいと拭った。
「はいっ! ソフィアさん! 私、やります! あなたの『助手』として、いえ、『分析官』として!」
その顔は、もう、元・聖女リリアの、か弱い面影は、どこにもなかった。
泥と汗にまみれ、目は泣き腫らしているが、その表情は、自らの意志で未来を切り開こうとする、「研究者」の、晴れやかで、力強い笑顔だった。
(これで、役者は揃ったわね)
私は、この新しい、頼もしい「相棒」の誕生に、満足げに頷いた。
(ギルバートが、王都(せいじ)で、ロイドが、物流(ビジネス)で、戦っているなら)
(私たちは、このアトリエ(ラボ)で、私たちの『戦い』を、始めましょうか)
私は、壁に貼り付けた、まだ真っ白な、新しい研究計画(プロトコル)の羊皮紙を、睨みつけた。
そこには、私の文字で、こう、書き殴られていた。
『研究テーマ:古代呪術兵器(ブライト)の、完全無力化、および、新薬(エリクサーLv.3)への応用』
「さあ、リリア助手」
私は、白衣の袖をまくり上げ、アルコールランプの、青い炎を、灯した。
「ギルバートたちが、王都から、次の『資材(プレゼント)』を持って帰ってくる前に、私たち二人で、あの鉄血伯爵(ヴォルフラム)の、鼻を明かす、準備を、始めましょうか!」
「はいっ!」
渓谷での戦いを終え、アトリエには、二人の「研究者」の、熱を帯びた声が響き渡った。
私の、新しい「スローライフ(けんきゅうせいかつ)」が、今、本当の意味で、始まったのだった。
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