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しおりを挟む家の前に、街灯に照らし出された、カーキのジャケットの人影を見た瞬間、本当に久しぶりに目が覚めたような気持ちになった。
「遅かったな、ましろ」
耳雨。耳雨だ。
「何で…?何で今さら」
「会いたかった。だから来た」
大きな肩がもたれかかるように抱きついてくる。
「また、一人で頑張ってるんだろうと思って」
嬉しかった。けど、いろいろ混乱して。
「と、とにかく中へ」
と、家の中へ招き入れた。
大きな男の人の身体を肩で支えながら、リビングまで引きずる。ソファに横たえると一緒に胸の中に引きずり込まれる。ジャケットの下の温かいセーターに沈みそうになるがそのまま、
「聞きたいことがたくさんあるんだけど」
とようやく呟いた。
「だろうと思った」
上から耳雨の少し掠れた声が降ってくる。
「でもその前に、ぼくはあなたに関わるなって言われてるんだけど、志彦さんに」
「知ってる。それに従わざるをえなかったましろのことも」
ぼくはぱっと身を起こして耳雨の目を見た。
「だって、あんなこと突然聞かされて、もうびっくりして。ぼくの手に負える世界の話じゃないと思ったんだよ!」
「そうか…そりゃあやっぱり、俺のことそう簡単には信用できないよな」
ぼくの両手を支えながら少し低い声で言う。
「ねえ、何で二重人格なのにぼくのこと守るって言ったの? いつ人格が変わるかわからない、不安定な身で」
「放っておけなかったから。どうしても」
「でも!」
「どうしてもだ。だから来た。もう一度ちゃんと話すために」
「じゃ、何故今まで来てくれなかったの?」
そう恨みがましく聞くと
「お前、今、働いてるんだな。偉いぞ」
大きな手で頭をガシガシ撫でられる。
「…耳雨のこと忘れなきゃって思ったから」
志彦に車で自宅に送ってもらった後、一週間は脱力状態だった。それでももしかしたら耳雨がまた現れて、あんなこと嘘だよ、あれは悪い夢なんだよって言ってくれるのを。…でもこのまま耳雨を待っていたなら気がおかしくなりそうで。
「あの後、志彦…ユキは小説の仕事を続けていて…俺たちいつ入れ替わるかわからないから、締め切りとか破るわけにいかなくて、とにかくユキはユキでいられるうちに書きまくらなくちゃならなくて。編集の野口ってのが事情を知っててくれていろいろ管理してくれてるんだけど。で、余裕で間に合ったんだけど。しばらく俺は俺になれなくて」
耳雨は悲しそうにため息をつく。
「ユキとして生活しながら、ユキの後ろにいて情けなかったなー。あんなに堂々とましろを守るって言ったのに、きっとましろが俺を必要としているだろう時に、ましろに会いに来れなくて」
そうして彼はぼくの身体をぎゅっと抱きしめる。
「で、俺は俺になった時からユキに手紙を書いていた。ましろに会わせてくれって。ユキはユキでいる時、俺としての記憶がないから。でもいざとなると全然言葉にならなくて…俺にはユキみたいな文才が無いのな。大事なことが伝えられない」
ぼくは、耳雨の胸に耳をくっつけて、心臓の音と耳雨の声を聞いていた。
「俺とユキの関係はあまりにも不安定だ。俺はお前を振り回して壊してしまうかもしれない。でも、お前、待ってたろ? 初めて会った時から何かがお前を変えてくれるのを待ってたろ? おどおどしてびくびくして、本当は俺を見ながら期待してたろ? それがわかったから。会わなくちゃって思ったんだ。このまま…ましろを一人で放っておけない。ましろに俺と関わってほしいと思ったんだ」
そこまで言ってじれったそうな表情で
「ああ…何でうまく伝わらないんだろう? どう伝えたら俺たち…俺とユキにとってましろが大切かを伝えられるんだろう?」
と、呟いた。
「こんなに大事なのに」
そう言って、ぼくの頭を引き寄せて、きゅーっと唇を重ねてきた。
「…キスしたらわかった?」
「…ますます離れられなくなったことは確かかな…。待てよ、お前慣れてるな。初めてじゃないのか? キス」
「んー、高校の時、上級生のお姉さまに奪われちゃった。可愛い弟みたいだって」
でもあの時は彼女がいたからこんなにグジグジしたぼくでもいじめられたりせずに何とか学校を続けることができたのだ。
「で、そのお姉さまは今、どうしてる? ましろを守ってくれていないのか?」
「知らない。先に卒業してそれっきりどこか行っちゃった」
耳雨は「ひどいなあ」と苦笑しながら
「普通、弟にキスはしないよなあ」
と言った。
「じゃ、こんなキスはしたことある?」
そう言って、舌で唇をこじ開けて、ぼくの舌を舐めて絡めてくる。
「んん、初めて」
ぼくは目をぱちぱちした。味は無かったけど、少し変な感じがする。でもとても温かい。
きっと耳雨はこういうことに慣れてる男の人なんだな、と思った。
「もしかして身体もそのお姉さまにあげちゃった?」
「いいえ」
彼の背に腕を回してみる。短い腕、小さな手のひら、むちむちした指。まるでこどもの手だ。自分はおよそそういったことに縁がないタイプの人間と思っていた。
自分は今、大変なことに関わろうとしている。もっと考えなくてはならないのかな。でも。目を閉じて耳雨の心臓の音に耳をすませてみる。自分はこうなるべくして巻き込まれた気がする。
「耳雨にあげる」
「怖くないのか? 戻れなくなるぞ」
息の音に近い熱い囁き声で確認を取る。ぼくは耳雨の胸に更に強く顔を押し付けた。
「きっと、幸せにする。いや、幸せになろう」
そう言ってぼくの身体を抱き上げた。ぼくは少し笑った。
「まるでプロポーズ」
耳雨も笑って
「寝室に行こう。案内して」
と言った。
ぼくは耳雨の首に腕を巻き付けて、ひとつ疑問に思っていることを聞いた。
「ねえ、してる間に志彦さんになっちゃうこともあるの?」
「寝て起きたら入れ替わってることなら何回かあった。そうならないよう祈ってくれ」
クスクス笑いながら彼は答えた。
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