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第1話 いつもの視線
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《登場人物》
ガルド・ルヴァーン(Gald Levaan)
種族 狼族(獣人族)
年齢 28歳
所属 ラヴァナール獣人連邦・狼族防衛隊出身
/現在はルーヴェンの巡回護衛騎士
地位 元戦士長・七牙将直属の護衛隊員
外見 銀灰色の髪・琥珀の瞳。高身長・筋肉質。
灰銀色の尻尾。
性格 寡黙で誠実。不器用ながらも思いやり深く、
弱者と小動物に優しい。
感情が尻尾に出やすく、本人は不本意。
特技 剣術・風魔法・身体強化・追跡・狩り・夜間警護。
鋭い嗅覚で嘘を見抜く。
苦手 言葉遊び・感情表現・人前での会話。
ユリス・アルヴィン(Yulis Arvin)
種族 人間
年齢 23歳
所属 アルデンティア王国・ルーヴェン領主館
役職 領主補佐/文官
外見 柔らかな金灰色の髪
灰青の瞳(光によって緑がかる)。細身で猫背気味。
性格 温厚・天然・感受性豊か。
誰かを助けたいと思う優しい性格。
特徴 重度のモフモフフェチ。特に獣人の耳と尻尾が大好き。
特技 通訳(複数言語)・文化調整・交渉。
苦手 血・体力勝負。
戦が終わって3年。
森と湖に抱かれた国境の街ルーヴェンは穏やかなの朝を迎えていた。市場の屋根布には朝露が光り、人も獣人も肩を並べて露店を開く。狼族の干し肉の隣に、人の職人が焼いた蜂蜜パンが山と積まれる。鐘楼から一番鐘が鳴れば、子どもたちの笑い声が通りに弾み、港の方角からは小舟の舳先を叩く水音が返ってくる。
アルデンティア王国とラヴァナール獣人連邦。
長く続いた不信の時代は、国境線にこの小さな共生都市を生んだ。王国の法と連邦の慣習が交わる場所。ここでは違いが争いの理由にはならない。耳も尻尾も、甲冑も法服も、みんなが興味津々に眺め、覚え、分け合う。年に何度か開かれる「風祭」では、ふわりと舞い下りる風鈴の音に合わせ、獣人の太鼓と人の竪琴が同じ拍を刻む。
――だから、この街が好きだ。
ユリス・アルヴィンはそう思う。思うだけでなく、腹の底から信じている。
ユリスは領主館に勤める文官、領主補佐だ。
机の上の仕事も多いが、彼の真価は外で発揮される。市場の調整、共用井戸の管理、税の周知、他所から来た隊商への案内。連邦語の響きと王国語の抑揚を同じ舌で話せる彼は、境目に立って言葉を織り直す役目を気に入っていた。
ただ――身体は、少しばかりのんびりだった。
よく転ぶ。角でぶつかる。帳面を抱えたまま段差を忘れて足をひねる。血の気が引くほどの大怪我はしないが、擦り傷と紫の痣が絶えない。領主はいつも溜め息をつき、温い薬草茶を押しつけながら言う。
「ユリス、頼むから膝当てでも付けてくれ」
「領主様、それはちょっと見た目が……」
「見た目より身の安全だ」
それでも、ユリスの仕事ぶりは優秀だった。
思い込みの強い商人が税率を取り違えたときも、語尾の硬い狼族の青年が人の礼法に戸惑ったときも、ユリスは間に入り、ほどけにくい結び目からそっと指を差し入れて、時間をかけて解いていく。彼は争いが嫌いで、誰か一人が矛を収めるのではなく、両方が肩を落として笑える終わり方を探すのが得意だった。
そんな彼の外回りに、ある日から「変化」があった。
怪我を、しなくなったのだ。
最初は偶然だと思った。
曲がり角でぶつかるはずの肩先が、紙一重で空を切る。段差の手前でなぜか足取りがゆっくりになる。飛び出してきた荷車の前、ほんの一瞬、空気が凝ったように感じて、ユリスの足は自然と止まっていた。倒れた桶は彼の脛をかすりもしない。
おかしいな、と首を傾げたその時、背に「視線」を感じた。
熱くも冷たくもない。陽だまりの縁のような、柔らかい気配。目を向けると、そこにはいつも何もない。
(見てる? 誰が?)
ユリスはふふっと笑ってしまった。
怖くはない。むしろ、その視線は彼の背筋をまっすぐ伸ばしてくれる。市場の喧騒の中、言葉の取り違いで頬を膨らませる子どもにしゃがみ込むとき、彼は自分の肩越しに、誰かの警戒が張られているのを感じるのだ。
魔術師ではないユリスにも、それは“魔力”の気配としてわかった。
王国式の礼法で隠すでもなく、連邦の流儀で誇示するでもない。目的だけを研ぎ澄ました、静かな守り。織り目の細かい外套の裏地みたいな……おそらく相当、魔力制御に長けている。
(誰だろう。どんな人だろう)
外回りは、前よりずっと楽しくなった。
ユリスは仕事のついでに、視線の主を探す遊びを覚えた。探すといっても、振り返るわけではない。角で立ち止まる。屋台の軒先の銅鏡に映る通りの影を眺める。港の手すりに手をかけ、波間に反射する街の明滅を見る。正面から見つけようとしないこと。見つけた瞬間に逃げられてしまう……そんな勘が働いた。
手がかりは、たまにある。
樹皮の匂い。樟脳。油をさした革のきしむ音。鎖帷子が押さえつけられるくぐもった金属の響き。ほんの刹那、風に混じるそれらの欠片が、ユリスの頬を撫でて過ぎる。
昼下がり、共用井戸の掃除の段取りを市場に貼り出し、「日暮れまでに三回、鐘楼が鳴るごとに交代で」と連邦語と王国語で書き分ける。隣の屋台の狼族の女性が、彼の筆に興味深そうに首を傾げた。
「ユリスの字、きれいね」
「ありがとうございます。読み飛ばされないように、なるべく短くしてるつもりなんですが……」
「短いから、わかりやすい。ユリス、助かるわ」
褒められて照れながら紙を貼る。
そのとき、背にまた気配が寄る。視線は通りの向こうから。ユリスはわざと屋台の影に半歩入った。露が乾いていく木陰は少し涼しい。流れてきた風が、ペン先のインクの匂いを攫う。匂いに混じって、微かに――
(樟脳と、革)
こっそり、銅鏡を見る。
そこに映ったのは、通りの角、石柱の陰。すっと立つ、灰銀の影。長身。肩幅が広い。頭にはフード。顔は見えない。けれど、尾の先だけが、石柱の外にほんの少し覗いている。灰銀。陽に透けると淡く光る。
(しっぽだ……狼族?)
胸が、どくん、と跳ねた。
ユリスは気づかないふりをして、紙をもう一枚貼る。通りの人に道を空ける。井戸の縁に腰掛けている子どもに笑いかける。視線はずっと感じている。けれど近づいてはこない。距離が一定に保たれている。僕を守るため?
その午後、港の検札所で小さな騒ぎが起きた。
王国の若い荷運びが、連邦の記録札の読み方を誤解して、積み荷を下ろす位置を間違えたのだ。係員が声を荒げ、荷運びが真っ赤になって言い返す。ユリスは手を上げて間に入り、双方の言葉の行き違いをなだめる。声の調子を下げ、短い文だけで構築する。怒りは長い文を嫌う。短く、確かに、要を結ぶ。
「――ここ。『火の札』は、船ではなく倉庫の入り口の印です。あなたの積み荷は湿気を嫌うから、港ではなく上段の倉へ」
荷運びが口を噤み、係員が眉根を解いた。
ユリスが札を指ではさみ、倉庫の壁の印を示す。互いの視線が彼の手先に集まり、次の瞬間には頷きに変わる。わずかな緊張が解けて、潮風が二人の間をすり抜けた。
そのとき――木箱の山が、ぐらりと揺れた。
ユリスの背、すぐ後ろで。誰かが足を滑らせたのか、木箱の角が彼の肩に向けて落ちかける。反射的に目を閉じた。いつもの癖で「痛い!」が口に上りかけ――
――痛く……ない?
替わりに、腕が彼の肩を取った。
冷たい革の感触。ぐっと、強くも丁寧に引き寄せられる。ユリスの足が半歩、港の外側にずれる。木箱は彼の頬をかすめもしないで、地面にどさりと落ち、ばらけた蓋から干し草の香りがふわりと立ちのぼる。
ユリスの心臓は、うるさいほど鳴っていた。
腕はすぐに離れる。気配は、逃げない。そこに留まる。ユリスはゆっくりと振り返った。
灰銀が、風の縁で揺れている。
フードは外されていた。陽光に晒された銀灰の髪が短く切り揃えられ、額からこめかみへとなめらかに流れている。琥珀の瞳。深く、獣の光なのに、不思議と柔らかい。日を浴びた木蜜みたいに、濃い琥珀が底でゆらぐ。
腕は、逞しかった。肩幅が、思ったより広い。
灰銀の尾が、彼の背で静かに止まっている――止まっているはずなのに、先端だけが、ほんのわずか震えていた。
「怪我はないか」
低い声だった。
思わず聞き入ってしまうような心地よい声。
「……だ、だいじょうぶ、です。あの、ありがとうございます」
ユリスは慌てて礼を言った。
狼族の男は視線をさっと逸らし、落ちた木箱を片手で持ち上げ、荷運びと係員に手渡す。二人がどぎまぎしながら謝罪する間、彼は首だけで軽く頷いた。
その装いに、ユリスはようやく気づく。
深い緑の巡回外套。肩章にはルーヴェンの紋。腰には片刃の剣。鎖帷子は袖口から控えめに覗く。王国式に整えられた装備に、連邦の実用が息づいている。
「あなたは……」
「ルーヴェン巡回護衛隊、ガルド・ルヴァーン」
名乗りは簡潔だった。
目は合わせない。けれど、耳が――尾の先が、ほんの少しだけ揺れた気がする。彼の意志ではないところで、感情が零れるのだろう。ユリスはなぜだかきゅうっと切なくなった。
(ガルドさん……)
名前も教えてくれた。どうしよう、嬉しい。
ユリスは深く頭を下げた。油断すると、言葉が次々に出てきてしまいそうで、けれど彼を困らせたくなくて、短くまとめる。
「助けてくださって、ありがとうございました。いつも……いえ、あの、たぶん、前から」
ガルドの視線が、わずかに揺れた。
ユリスは気配が言葉より雄弁なことを知っている。彼の沈黙も、否定ではないのだろう。
港の風が二人の間をとおり、ユリスの髪を揺らした。その一房が、ガルドの外套の肩に触れかけて、風に攫われる。
「外回りが多いのだろう」
「はい。市場や港、教会、図書館……色々です」
「この街は段差や裏路地が多い。気をつけろ」
「……はい」
それだけ言うと、彼は「では」と踵を返した。
歩みは静かだが速い。音は少ない。彼の背中は不思議と大きく、街の喧騒のなかで、そこだけ風が縫い留められているみたいに見えた。尾が外套の裾を軽く撫で、陽の粒が灰銀の上で跳ねる。
ユリスはその背をしばらく見送った。
胸の鼓動が早い。肩に残る革の感触が、守られたという事実と混ざって、頬が勝手に熱くなる。
(ガルド・ルヴァーン。元連邦の戦士長。七牙将直属の護衛隊――そんな人が、……私を見ていた)
領主館に戻ると、領主は書類に目を落としたまま、ちらりとユリスの顔を見た。
彼の頬の赤さに気づいたのか、口の端が意地悪く上がる。
「誰かに告白でもされたのか?」
「されてません!ただ、今日は……大丈夫でした」
「ほう?」
「巡回護衛の方が、助けてくださいました。ガルド・ルヴァーンさん、って」
領主は「ああ」と頷いた。
「元連邦の戦士長だった騎士だな……。こっちに来てまだ日が浅いが、真面目な性格でかなり強いと聞いている」
「やはり有名な方なのですね」
「彼が気になるか?」
ユリスは笑って誤魔化した。
領主は視線を書類に戻し、それでも声だけは柔らかい。
「まぁ、いい。今後も……怪我がないように」
「はい」
その夜、ユリスは自室の小さな寝台に横になり、眠れなかった。枕を抱え、天井の木組みを眺める。目を閉じると、琥珀色の瞳が瞼の裏に浮かんだ。低い声。短い言葉。しっぽの先の、ほんの僅かな揺れ。
胸の中に、風が吹いた気がした。
――街を好きだと思うときに吹く、あの風だ。市場の笑い声と、港の水音と、教会の鐘と、そして、今は誰かの視線が混ざっていく。ユリスは枕に顔を埋めて、くぐもった声で呟いた。
「ガルドさん……、かっこよかったなぁ……!」
言ってから、さらに眠れなくなった。
耳まで熱い。布団の中で足がばたばたと暴れ、結局、冷たい夜気を吸いに窓を少し開けた。森の匂いが入ってくる。どこか遠くで、狼の低い遠吠えが、風に溶けて細く長く伸びていった。
ユリスは胸に手を当てた。
鼓動はまだ早い。明日の外回りが待ち遠しい。
例えば、あの角で立ち止まったら……銅鏡の端に、灰銀が映るかもしれない。
しっぽの先が、今日と同じように――
「……ふふ」
眠れない夜の笑いは、街の灯に紛れて、すぐ消えた。
胸に灯った小さな光だけは、消えなかった。
ルーヴェンの風が、やさしく窓を揺らした。
ガルド・ルヴァーン(Gald Levaan)
種族 狼族(獣人族)
年齢 28歳
所属 ラヴァナール獣人連邦・狼族防衛隊出身
/現在はルーヴェンの巡回護衛騎士
地位 元戦士長・七牙将直属の護衛隊員
外見 銀灰色の髪・琥珀の瞳。高身長・筋肉質。
灰銀色の尻尾。
性格 寡黙で誠実。不器用ながらも思いやり深く、
弱者と小動物に優しい。
感情が尻尾に出やすく、本人は不本意。
特技 剣術・風魔法・身体強化・追跡・狩り・夜間警護。
鋭い嗅覚で嘘を見抜く。
苦手 言葉遊び・感情表現・人前での会話。
ユリス・アルヴィン(Yulis Arvin)
種族 人間
年齢 23歳
所属 アルデンティア王国・ルーヴェン領主館
役職 領主補佐/文官
外見 柔らかな金灰色の髪
灰青の瞳(光によって緑がかる)。細身で猫背気味。
性格 温厚・天然・感受性豊か。
誰かを助けたいと思う優しい性格。
特徴 重度のモフモフフェチ。特に獣人の耳と尻尾が大好き。
特技 通訳(複数言語)・文化調整・交渉。
苦手 血・体力勝負。
戦が終わって3年。
森と湖に抱かれた国境の街ルーヴェンは穏やかなの朝を迎えていた。市場の屋根布には朝露が光り、人も獣人も肩を並べて露店を開く。狼族の干し肉の隣に、人の職人が焼いた蜂蜜パンが山と積まれる。鐘楼から一番鐘が鳴れば、子どもたちの笑い声が通りに弾み、港の方角からは小舟の舳先を叩く水音が返ってくる。
アルデンティア王国とラヴァナール獣人連邦。
長く続いた不信の時代は、国境線にこの小さな共生都市を生んだ。王国の法と連邦の慣習が交わる場所。ここでは違いが争いの理由にはならない。耳も尻尾も、甲冑も法服も、みんなが興味津々に眺め、覚え、分け合う。年に何度か開かれる「風祭」では、ふわりと舞い下りる風鈴の音に合わせ、獣人の太鼓と人の竪琴が同じ拍を刻む。
――だから、この街が好きだ。
ユリス・アルヴィンはそう思う。思うだけでなく、腹の底から信じている。
ユリスは領主館に勤める文官、領主補佐だ。
机の上の仕事も多いが、彼の真価は外で発揮される。市場の調整、共用井戸の管理、税の周知、他所から来た隊商への案内。連邦語の響きと王国語の抑揚を同じ舌で話せる彼は、境目に立って言葉を織り直す役目を気に入っていた。
ただ――身体は、少しばかりのんびりだった。
よく転ぶ。角でぶつかる。帳面を抱えたまま段差を忘れて足をひねる。血の気が引くほどの大怪我はしないが、擦り傷と紫の痣が絶えない。領主はいつも溜め息をつき、温い薬草茶を押しつけながら言う。
「ユリス、頼むから膝当てでも付けてくれ」
「領主様、それはちょっと見た目が……」
「見た目より身の安全だ」
それでも、ユリスの仕事ぶりは優秀だった。
思い込みの強い商人が税率を取り違えたときも、語尾の硬い狼族の青年が人の礼法に戸惑ったときも、ユリスは間に入り、ほどけにくい結び目からそっと指を差し入れて、時間をかけて解いていく。彼は争いが嫌いで、誰か一人が矛を収めるのではなく、両方が肩を落として笑える終わり方を探すのが得意だった。
そんな彼の外回りに、ある日から「変化」があった。
怪我を、しなくなったのだ。
最初は偶然だと思った。
曲がり角でぶつかるはずの肩先が、紙一重で空を切る。段差の手前でなぜか足取りがゆっくりになる。飛び出してきた荷車の前、ほんの一瞬、空気が凝ったように感じて、ユリスの足は自然と止まっていた。倒れた桶は彼の脛をかすりもしない。
おかしいな、と首を傾げたその時、背に「視線」を感じた。
熱くも冷たくもない。陽だまりの縁のような、柔らかい気配。目を向けると、そこにはいつも何もない。
(見てる? 誰が?)
ユリスはふふっと笑ってしまった。
怖くはない。むしろ、その視線は彼の背筋をまっすぐ伸ばしてくれる。市場の喧騒の中、言葉の取り違いで頬を膨らませる子どもにしゃがみ込むとき、彼は自分の肩越しに、誰かの警戒が張られているのを感じるのだ。
魔術師ではないユリスにも、それは“魔力”の気配としてわかった。
王国式の礼法で隠すでもなく、連邦の流儀で誇示するでもない。目的だけを研ぎ澄ました、静かな守り。織り目の細かい外套の裏地みたいな……おそらく相当、魔力制御に長けている。
(誰だろう。どんな人だろう)
外回りは、前よりずっと楽しくなった。
ユリスは仕事のついでに、視線の主を探す遊びを覚えた。探すといっても、振り返るわけではない。角で立ち止まる。屋台の軒先の銅鏡に映る通りの影を眺める。港の手すりに手をかけ、波間に反射する街の明滅を見る。正面から見つけようとしないこと。見つけた瞬間に逃げられてしまう……そんな勘が働いた。
手がかりは、たまにある。
樹皮の匂い。樟脳。油をさした革のきしむ音。鎖帷子が押さえつけられるくぐもった金属の響き。ほんの刹那、風に混じるそれらの欠片が、ユリスの頬を撫でて過ぎる。
昼下がり、共用井戸の掃除の段取りを市場に貼り出し、「日暮れまでに三回、鐘楼が鳴るごとに交代で」と連邦語と王国語で書き分ける。隣の屋台の狼族の女性が、彼の筆に興味深そうに首を傾げた。
「ユリスの字、きれいね」
「ありがとうございます。読み飛ばされないように、なるべく短くしてるつもりなんですが……」
「短いから、わかりやすい。ユリス、助かるわ」
褒められて照れながら紙を貼る。
そのとき、背にまた気配が寄る。視線は通りの向こうから。ユリスはわざと屋台の影に半歩入った。露が乾いていく木陰は少し涼しい。流れてきた風が、ペン先のインクの匂いを攫う。匂いに混じって、微かに――
(樟脳と、革)
こっそり、銅鏡を見る。
そこに映ったのは、通りの角、石柱の陰。すっと立つ、灰銀の影。長身。肩幅が広い。頭にはフード。顔は見えない。けれど、尾の先だけが、石柱の外にほんの少し覗いている。灰銀。陽に透けると淡く光る。
(しっぽだ……狼族?)
胸が、どくん、と跳ねた。
ユリスは気づかないふりをして、紙をもう一枚貼る。通りの人に道を空ける。井戸の縁に腰掛けている子どもに笑いかける。視線はずっと感じている。けれど近づいてはこない。距離が一定に保たれている。僕を守るため?
その午後、港の検札所で小さな騒ぎが起きた。
王国の若い荷運びが、連邦の記録札の読み方を誤解して、積み荷を下ろす位置を間違えたのだ。係員が声を荒げ、荷運びが真っ赤になって言い返す。ユリスは手を上げて間に入り、双方の言葉の行き違いをなだめる。声の調子を下げ、短い文だけで構築する。怒りは長い文を嫌う。短く、確かに、要を結ぶ。
「――ここ。『火の札』は、船ではなく倉庫の入り口の印です。あなたの積み荷は湿気を嫌うから、港ではなく上段の倉へ」
荷運びが口を噤み、係員が眉根を解いた。
ユリスが札を指ではさみ、倉庫の壁の印を示す。互いの視線が彼の手先に集まり、次の瞬間には頷きに変わる。わずかな緊張が解けて、潮風が二人の間をすり抜けた。
そのとき――木箱の山が、ぐらりと揺れた。
ユリスの背、すぐ後ろで。誰かが足を滑らせたのか、木箱の角が彼の肩に向けて落ちかける。反射的に目を閉じた。いつもの癖で「痛い!」が口に上りかけ――
――痛く……ない?
替わりに、腕が彼の肩を取った。
冷たい革の感触。ぐっと、強くも丁寧に引き寄せられる。ユリスの足が半歩、港の外側にずれる。木箱は彼の頬をかすめもしないで、地面にどさりと落ち、ばらけた蓋から干し草の香りがふわりと立ちのぼる。
ユリスの心臓は、うるさいほど鳴っていた。
腕はすぐに離れる。気配は、逃げない。そこに留まる。ユリスはゆっくりと振り返った。
灰銀が、風の縁で揺れている。
フードは外されていた。陽光に晒された銀灰の髪が短く切り揃えられ、額からこめかみへとなめらかに流れている。琥珀の瞳。深く、獣の光なのに、不思議と柔らかい。日を浴びた木蜜みたいに、濃い琥珀が底でゆらぐ。
腕は、逞しかった。肩幅が、思ったより広い。
灰銀の尾が、彼の背で静かに止まっている――止まっているはずなのに、先端だけが、ほんのわずか震えていた。
「怪我はないか」
低い声だった。
思わず聞き入ってしまうような心地よい声。
「……だ、だいじょうぶ、です。あの、ありがとうございます」
ユリスは慌てて礼を言った。
狼族の男は視線をさっと逸らし、落ちた木箱を片手で持ち上げ、荷運びと係員に手渡す。二人がどぎまぎしながら謝罪する間、彼は首だけで軽く頷いた。
その装いに、ユリスはようやく気づく。
深い緑の巡回外套。肩章にはルーヴェンの紋。腰には片刃の剣。鎖帷子は袖口から控えめに覗く。王国式に整えられた装備に、連邦の実用が息づいている。
「あなたは……」
「ルーヴェン巡回護衛隊、ガルド・ルヴァーン」
名乗りは簡潔だった。
目は合わせない。けれど、耳が――尾の先が、ほんの少しだけ揺れた気がする。彼の意志ではないところで、感情が零れるのだろう。ユリスはなぜだかきゅうっと切なくなった。
(ガルドさん……)
名前も教えてくれた。どうしよう、嬉しい。
ユリスは深く頭を下げた。油断すると、言葉が次々に出てきてしまいそうで、けれど彼を困らせたくなくて、短くまとめる。
「助けてくださって、ありがとうございました。いつも……いえ、あの、たぶん、前から」
ガルドの視線が、わずかに揺れた。
ユリスは気配が言葉より雄弁なことを知っている。彼の沈黙も、否定ではないのだろう。
港の風が二人の間をとおり、ユリスの髪を揺らした。その一房が、ガルドの外套の肩に触れかけて、風に攫われる。
「外回りが多いのだろう」
「はい。市場や港、教会、図書館……色々です」
「この街は段差や裏路地が多い。気をつけろ」
「……はい」
それだけ言うと、彼は「では」と踵を返した。
歩みは静かだが速い。音は少ない。彼の背中は不思議と大きく、街の喧騒のなかで、そこだけ風が縫い留められているみたいに見えた。尾が外套の裾を軽く撫で、陽の粒が灰銀の上で跳ねる。
ユリスはその背をしばらく見送った。
胸の鼓動が早い。肩に残る革の感触が、守られたという事実と混ざって、頬が勝手に熱くなる。
(ガルド・ルヴァーン。元連邦の戦士長。七牙将直属の護衛隊――そんな人が、……私を見ていた)
領主館に戻ると、領主は書類に目を落としたまま、ちらりとユリスの顔を見た。
彼の頬の赤さに気づいたのか、口の端が意地悪く上がる。
「誰かに告白でもされたのか?」
「されてません!ただ、今日は……大丈夫でした」
「ほう?」
「巡回護衛の方が、助けてくださいました。ガルド・ルヴァーンさん、って」
領主は「ああ」と頷いた。
「元連邦の戦士長だった騎士だな……。こっちに来てまだ日が浅いが、真面目な性格でかなり強いと聞いている」
「やはり有名な方なのですね」
「彼が気になるか?」
ユリスは笑って誤魔化した。
領主は視線を書類に戻し、それでも声だけは柔らかい。
「まぁ、いい。今後も……怪我がないように」
「はい」
その夜、ユリスは自室の小さな寝台に横になり、眠れなかった。枕を抱え、天井の木組みを眺める。目を閉じると、琥珀色の瞳が瞼の裏に浮かんだ。低い声。短い言葉。しっぽの先の、ほんの僅かな揺れ。
胸の中に、風が吹いた気がした。
――街を好きだと思うときに吹く、あの風だ。市場の笑い声と、港の水音と、教会の鐘と、そして、今は誰かの視線が混ざっていく。ユリスは枕に顔を埋めて、くぐもった声で呟いた。
「ガルドさん……、かっこよかったなぁ……!」
言ってから、さらに眠れなくなった。
耳まで熱い。布団の中で足がばたばたと暴れ、結局、冷たい夜気を吸いに窓を少し開けた。森の匂いが入ってくる。どこか遠くで、狼の低い遠吠えが、風に溶けて細く長く伸びていった。
ユリスは胸に手を当てた。
鼓動はまだ早い。明日の外回りが待ち遠しい。
例えば、あの角で立ち止まったら……銅鏡の端に、灰銀が映るかもしれない。
しっぽの先が、今日と同じように――
「……ふふ」
眠れない夜の笑いは、街の灯に紛れて、すぐ消えた。
胸に灯った小さな光だけは、消えなかった。
ルーヴェンの風が、やさしく窓を揺らした。
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今年から新しく学園へ配属されたリチャードは、クリスの学年の監督官となる。横暴で無愛想、教団の犬かと思いきや、教団の魔の手からなにかとクリスを守ろうする。教団に対する裏切り行為は極刑に値するが、なぜかリチャードは協定を組もうと話を持ちかけてきた。疑問に思うクリスだが、どうしても味方が必要性あるクリスとしては、どんな見返りを求められても承諾するしかなかった。
ナイトとなったリチャードに、クリスは次第に惹かれていき……。
貴族軍人と聖夜の再会~ただ君の幸せだけを~
倉くらの
BL
「こんな姿であの人に会えるわけがない…」
大陸を2つに分けた戦争は終結した。
終戦間際に重症を負った軍人のルーカスは心から慕う上官のスノービル少佐と離れ離れになり、帝都の片隅で路上生活を送ることになる。
一方、少佐は屋敷の者の策略によってルーカスが死んだと知らされて…。
互いを思う2人が戦勝パレードが開催された聖夜祭の日に再会を果たす。
純愛のお話です。
主人公は顔の右半分に火傷を負っていて、右手が無いという状態です。
全3話完結。
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