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第2話 路地裏で
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ルーヴェンの朝はいつも風から始まる。
湖面を撫でた風が市場を抜け、パン屋の煙突の煙を揺らし、教会の鐘楼の上で渦を巻いて散っていく。
街のどこにいても、その風の匂いを嗅げば一日の始まりが分かった。
ユリス・アルヴィンの一日は、今日も市場の外回りから。
昨日――港で出会った護衛騎士、ガルド・ルヴァーンの姿が何度も頭をよぎって、鏡の前で襟を整える手が落ち着かない。
髪もきちんと撫でつけ、いつもよりきれいに結った。それでも、鏡に映る自分がどこか落ち着かず、思わずため息をつく。
「何をやってるんだろう、僕……」
彼が助けてくれたときの腕の力。
低く響く声。陽を受けて光った銀灰の髪。
あの一瞬が胸の中で何度も再生されて、夜通し眠れなかった。
――ガルド・ルヴァーン。
元連邦軍の戦士長、七牙将直属の護衛隊にいたという噂。
戦時中、名前を聞いたことがある。敵国の将の名として。
その彼が今はこの街で“平和を守る護衛”をしている。
――そして今、この街のどこかで、きっとあの人が巡回している。
それを思うだけで、足取りが軽くなる。
ユリスは書類を抱えて外へ出た。朝の光が石畳に反射し、白鳩が頭上を横切る。
◇
午前の仕事は順調だった。
昼近く、通りの角で少年たちが追いかけっこをしていて、ユリスはとっさに避けきれず、バランスを崩した。
「わっ――!」
しかし転ばなかった。
落ちる寸前、腰に柔らかな風が押したような感覚。
視線を上げると、斜めの屋根の影――石壁の上から、誰かの影が動いたように見えた。
(……あ、もしかして)
胸が弾む。
昨日のこともあって、ユリスは確信していた。あの優しい気配の主は、ガルドに違いない。
でも、どうして彼はこんなに自分を見守るのだろう。
そんなに危なっかしく見えるのだろうか……いや、見えるかもしれない。
けれど、ただの“職務”としてここまで気にかけるだろうか。
(直接、聞いてみたい……)
でも、教えてくれるだろうか。
まっすぐ聞いたところで、きっと「仕事だ」で終わる気も……。
いや――少し、仕掛けてみよう。
◇
一旦領主館に戻り、午後は再び外回りに出た。
書類を届けるついでに、ユリスは市場の裏通りを歩いた。
ここは人通りが少なく、倉庫や民家の裏口が続く場所。
太陽は高く、壁に映る影がはっきりと伸びている。
近くにはいつもの気配が感じられる。
――あぁ、良かった。やっぱり来てくれた。
ユリスは歩く速度を少し落とし、角を曲がった瞬間、足を止める。
ゆっくりと振り返りながら、笑った。
「……そんなに、僕が心配ですか?」
路地の奥、影の中に立っていたのは、やはり彼だった。
銀灰の髪。
琥珀の瞳。
薄暗い路地でもその瞳は不思議と光を含み、狼族特有の耳がわずかに動いた。
「……気づいていたのか」
「ええ、なんとなく。気が付いたのは、最近ですけどね。だって、僕、怪我をしなくなりました」
ユリスは一歩、近づく。
ガルドはわずかに身じろぎし、眉を寄せた。
「職務だ。巡回中に、お前がいつも無防備に歩いているからな」
「ふふ、そういう言い方すると思ってました。でも、これは“巡回”の範囲をちょっと越えてる気がしますけど?」
軽く首を傾けると、ガルドは返す言葉を失ったようだった。
灰銀の尾が、後ろで小さく揺れる。
ほんのわずかだが、誤魔化すような動きだった。
「……あの時も。市場でも、港でも。いつも見てくださってたんですよね?」
ユリスの声は穏やかだ。責める響きはない。
ただ、確かめたかった。
自分の勘違いじゃないと知りたかった。
「危なっかしい人間がいたら、放っておけないだけだ」
「危なっかしい、ですか」
「転ぶ、ぶつかる、荷車の前に出る……。目を離したら、すぐ怪我をする」
「うっ……確かに否定はできませんけど……」
ユリスは思わず苦笑する。
しかし、ガルドの表情は真剣そのもの。
琥珀の瞳がまっすぐユリスを見据える。その視線に、思わず息を呑む。
胸がきゅっと縮まり、心臓が熱を持った。
「……そんなに、僕のこと見てくれていたのですね」
ユリスがそっと呟くと、ガルドの耳がわずかに動いた。
その仕草があまりにも可愛くて、思わず笑みがこぼれる。
「……何がおかしい」
「いえ。ただ、可愛いなって思って」
「か、可愛い!?」
ガルドの目が一瞬で見開かれた。
狼族の戦士長として鍛え抜かれた男の表情が、一瞬で崩れる。
その反応に、ユリスはこらえきれず吹き出した。
「だって、本当に……耳、動きましたよ。ふわって」
「っ……!」
ガルドは耳を押さえ、顔を背けた。
その頬がほんのり赤い。
路地裏の薄光の中で、灰銀の毛並みが照れくさそうに揺れる。
「……人族は、本当に遠慮がないな」
「ごめんなさい。だって、あなたみたいなすごい方が僕を気にしてくださるなんて嬉しすぎて、……調子に乗りました。……改めて、ありがとうございます、ガルドさん」
柔らかな言葉に、ガルドの動きが止まった。
口の中で何かを噛みしめるように、一瞬視線を落とし、それから静かに言った。
「……あまり外に一人で出るな。街は平和だが、油断は禁物だ」
「心配性ですね」
「……悪いか」
「いいえ。すご嬉しいです」
その一言に、ガルドの尾がまた小さく揺れた。
そして彼は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……この街は、まだ完全に平和じゃない。連邦出身の俺が言うのも何だが、人間と獣人の間には、まだ警戒が残っている。お前みたいに誰にでも笑いかける人間は、特に目立つ」
「でも、その“目立つ”笑顔があるから、街が変わるんですよ」
ユリスはまっすぐ言った。
その言葉に、ガルドの琥珀の瞳が揺れる。
言い返すこともせず、ただ黙って見つめ返してきた。
その静けさが、なぜか心地よかった。
風が二人の間を抜け、ユリスの髪を揺らす。
灰銀と金灰――色の違う髪が一瞬、同じ光を受けて交わった。
「……ガルドさん」
「なんだ」
「これからも、僕のこと……見ててくださいますか?」
「……」
ガルドはため息をつき、低い声で言った。
「……ああ。危なっかしいからな」
「ふふ、本当に心配性なんですね」
そう言って笑うユリスの笑顔に、ガルドは一瞬だけ息を呑んだ。
そして、少しだけ目を伏せる。
「……風が冷えてきた。戻れ」
「はい。――また会えますか?」
「お前次第、だな」
「じゃあ、きっとすぐですね」
「……やれやれ」
呆れたような声とともに、ガルドは踵を返す。
その背を見送りながら、ユリスはそっと胸に手を当てた。
(嬉しい――お話ができた。また見ててくれるって約束してくれた。)
街角に吹き抜ける風が、灰銀の尾をひときわ明るく照らした。
ユリスはその光景を、まるで宝物のように目に焼きつける。
◇
その夜、自室で寝台に腰掛けたユリスは、日中のやり取りを思い出して頬を押さえた。
動いた耳を指摘されて、照れくさそうなガルドの顔――思い出すだけで心臓が跳ねる。
「……やっぱり、可愛い」
ぽつりと呟いて、顔を埋める。
窓の外、ルーヴェンの風がそよぎ、遠くで教会の鐘が鳴った。
静かな夜の中、彼の胸の中には、じんわりとあたたかい余韻が広がっていた。
――それはまだ恋と呼ぶには小さな灯火。
湖面を撫でた風が市場を抜け、パン屋の煙突の煙を揺らし、教会の鐘楼の上で渦を巻いて散っていく。
街のどこにいても、その風の匂いを嗅げば一日の始まりが分かった。
ユリス・アルヴィンの一日は、今日も市場の外回りから。
昨日――港で出会った護衛騎士、ガルド・ルヴァーンの姿が何度も頭をよぎって、鏡の前で襟を整える手が落ち着かない。
髪もきちんと撫でつけ、いつもよりきれいに結った。それでも、鏡に映る自分がどこか落ち着かず、思わずため息をつく。
「何をやってるんだろう、僕……」
彼が助けてくれたときの腕の力。
低く響く声。陽を受けて光った銀灰の髪。
あの一瞬が胸の中で何度も再生されて、夜通し眠れなかった。
――ガルド・ルヴァーン。
元連邦軍の戦士長、七牙将直属の護衛隊にいたという噂。
戦時中、名前を聞いたことがある。敵国の将の名として。
その彼が今はこの街で“平和を守る護衛”をしている。
――そして今、この街のどこかで、きっとあの人が巡回している。
それを思うだけで、足取りが軽くなる。
ユリスは書類を抱えて外へ出た。朝の光が石畳に反射し、白鳩が頭上を横切る。
◇
午前の仕事は順調だった。
昼近く、通りの角で少年たちが追いかけっこをしていて、ユリスはとっさに避けきれず、バランスを崩した。
「わっ――!」
しかし転ばなかった。
落ちる寸前、腰に柔らかな風が押したような感覚。
視線を上げると、斜めの屋根の影――石壁の上から、誰かの影が動いたように見えた。
(……あ、もしかして)
胸が弾む。
昨日のこともあって、ユリスは確信していた。あの優しい気配の主は、ガルドに違いない。
でも、どうして彼はこんなに自分を見守るのだろう。
そんなに危なっかしく見えるのだろうか……いや、見えるかもしれない。
けれど、ただの“職務”としてここまで気にかけるだろうか。
(直接、聞いてみたい……)
でも、教えてくれるだろうか。
まっすぐ聞いたところで、きっと「仕事だ」で終わる気も……。
いや――少し、仕掛けてみよう。
◇
一旦領主館に戻り、午後は再び外回りに出た。
書類を届けるついでに、ユリスは市場の裏通りを歩いた。
ここは人通りが少なく、倉庫や民家の裏口が続く場所。
太陽は高く、壁に映る影がはっきりと伸びている。
近くにはいつもの気配が感じられる。
――あぁ、良かった。やっぱり来てくれた。
ユリスは歩く速度を少し落とし、角を曲がった瞬間、足を止める。
ゆっくりと振り返りながら、笑った。
「……そんなに、僕が心配ですか?」
路地の奥、影の中に立っていたのは、やはり彼だった。
銀灰の髪。
琥珀の瞳。
薄暗い路地でもその瞳は不思議と光を含み、狼族特有の耳がわずかに動いた。
「……気づいていたのか」
「ええ、なんとなく。気が付いたのは、最近ですけどね。だって、僕、怪我をしなくなりました」
ユリスは一歩、近づく。
ガルドはわずかに身じろぎし、眉を寄せた。
「職務だ。巡回中に、お前がいつも無防備に歩いているからな」
「ふふ、そういう言い方すると思ってました。でも、これは“巡回”の範囲をちょっと越えてる気がしますけど?」
軽く首を傾けると、ガルドは返す言葉を失ったようだった。
灰銀の尾が、後ろで小さく揺れる。
ほんのわずかだが、誤魔化すような動きだった。
「……あの時も。市場でも、港でも。いつも見てくださってたんですよね?」
ユリスの声は穏やかだ。責める響きはない。
ただ、確かめたかった。
自分の勘違いじゃないと知りたかった。
「危なっかしい人間がいたら、放っておけないだけだ」
「危なっかしい、ですか」
「転ぶ、ぶつかる、荷車の前に出る……。目を離したら、すぐ怪我をする」
「うっ……確かに否定はできませんけど……」
ユリスは思わず苦笑する。
しかし、ガルドの表情は真剣そのもの。
琥珀の瞳がまっすぐユリスを見据える。その視線に、思わず息を呑む。
胸がきゅっと縮まり、心臓が熱を持った。
「……そんなに、僕のこと見てくれていたのですね」
ユリスがそっと呟くと、ガルドの耳がわずかに動いた。
その仕草があまりにも可愛くて、思わず笑みがこぼれる。
「……何がおかしい」
「いえ。ただ、可愛いなって思って」
「か、可愛い!?」
ガルドの目が一瞬で見開かれた。
狼族の戦士長として鍛え抜かれた男の表情が、一瞬で崩れる。
その反応に、ユリスはこらえきれず吹き出した。
「だって、本当に……耳、動きましたよ。ふわって」
「っ……!」
ガルドは耳を押さえ、顔を背けた。
その頬がほんのり赤い。
路地裏の薄光の中で、灰銀の毛並みが照れくさそうに揺れる。
「……人族は、本当に遠慮がないな」
「ごめんなさい。だって、あなたみたいなすごい方が僕を気にしてくださるなんて嬉しすぎて、……調子に乗りました。……改めて、ありがとうございます、ガルドさん」
柔らかな言葉に、ガルドの動きが止まった。
口の中で何かを噛みしめるように、一瞬視線を落とし、それから静かに言った。
「……あまり外に一人で出るな。街は平和だが、油断は禁物だ」
「心配性ですね」
「……悪いか」
「いいえ。すご嬉しいです」
その一言に、ガルドの尾がまた小さく揺れた。
そして彼は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……この街は、まだ完全に平和じゃない。連邦出身の俺が言うのも何だが、人間と獣人の間には、まだ警戒が残っている。お前みたいに誰にでも笑いかける人間は、特に目立つ」
「でも、その“目立つ”笑顔があるから、街が変わるんですよ」
ユリスはまっすぐ言った。
その言葉に、ガルドの琥珀の瞳が揺れる。
言い返すこともせず、ただ黙って見つめ返してきた。
その静けさが、なぜか心地よかった。
風が二人の間を抜け、ユリスの髪を揺らす。
灰銀と金灰――色の違う髪が一瞬、同じ光を受けて交わった。
「……ガルドさん」
「なんだ」
「これからも、僕のこと……見ててくださいますか?」
「……」
ガルドはため息をつき、低い声で言った。
「……ああ。危なっかしいからな」
「ふふ、本当に心配性なんですね」
そう言って笑うユリスの笑顔に、ガルドは一瞬だけ息を呑んだ。
そして、少しだけ目を伏せる。
「……風が冷えてきた。戻れ」
「はい。――また会えますか?」
「お前次第、だな」
「じゃあ、きっとすぐですね」
「……やれやれ」
呆れたような声とともに、ガルドは踵を返す。
その背を見送りながら、ユリスはそっと胸に手を当てた。
(嬉しい――お話ができた。また見ててくれるって約束してくれた。)
街角に吹き抜ける風が、灰銀の尾をひときわ明るく照らした。
ユリスはその光景を、まるで宝物のように目に焼きつける。
◇
その夜、自室で寝台に腰掛けたユリスは、日中のやり取りを思い出して頬を押さえた。
動いた耳を指摘されて、照れくさそうなガルドの顔――思い出すだけで心臓が跳ねる。
「……やっぱり、可愛い」
ぽつりと呟いて、顔を埋める。
窓の外、ルーヴェンの風がそよぎ、遠くで教会の鐘が鳴った。
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