狼の護衛騎士は、今日も心配が尽きない

結衣可

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第6話 雨の日のひとやすみ

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 朝から雲が低く垂れ込めていた。
 ルーヴェンの空は、春雨の気配を隠しきれずにいる。湖面は薄く波立ち、風はまだ温いのに、街全体がしんと落ち着いた色に包まれていた。

「……降りそうですね」

 領主館の玄関でユリス・アルヴィンが空を見上げる。
 傍らのガルド・ルヴァーンは、短く頷いた。

「西の森の上に厚い雲。二刻ももたなそうだ」

「じゃあ、早めに市場を回っておきましょう。今日の分の納品確認だけでも」

 ユリスは書類を抱えて足早に通りへ出る。
 その後ろで、ガルドが大きな外套の裾を整えた。
 風に灰銀の尾がゆらりと揺れる。

 雨が降る前の街は、少しせわしい。
 魚屋の兄弟は屋根布を増やし、花屋は花瓶を奥に引き下げ、パン屋の前では焼きたての香りが雨の匂いと混ざっていた。
 そんな中でもユリスは、笑顔を絶やさない。

「今日の鯖、美味しい。少しふり塩を弱くしました?こっちの方が好まれそうです」

「気づいたか、さすがだなぁ」

「うん、これなら子どもでも食べやすいかもしれません。仕入れの方は順調ですか?」

 言葉のやり取りの間、ガルドの視線はずっと周囲を巡っている。
 目立たぬように立ち位置を変え、通行人との距離を測り、どの方向からの危険に対しても対応できるように視線を張り巡らせていた。
 その姿は、まるでユリスを守る壁のようだった。

 しかし、雨の方が一足早く動いた。
 空がぼんやり光り、細かい雨粒が通りをかすめた。
 人々が一斉に声を上げ、屋根布を引き寄せる。

「ガルドさん、あそこ!」

 ユリスが指した先――路地を挟んだ向こうの古い倉庫の軒下。
 屋根が深く、しばらくなら雨をしのげそうだ。

「走るぞ」

「はい!」

 二人は駆け出した。
 ぱらぱらと降る雨が次第に強くなり、石畳に白い輪をつくる。
 ユリスの髪が頬に貼りつき、外套の裾が雨を吸う。
 倉庫の軒下に飛び込んだときには、しっとりと外套が濡れていた。

「はぁ、間に合いましたね……」

 ユリスは息を整えながら、髪を払う。
 灰青の瞳の中に雨の光がちらちらと映り、頬を滑る雫が光の線を描いた。

 その様子に、ガルドは目を奪われて、言葉を失った。

 ――綺麗な顔してんだよな……本人は無自覚なようだが。

 雨音の中、彼の耳がわずかに伏せられる。
 ため息をついたガルドは、外套の内側から、乾いた布を取り出した。

「貸す」

「え?」

「濡れている。風邪をひく」

 それは、巡回用のタオルだった。
 厚手で、彼の体温がうっすらと残っている。
 ユリスは「ありがとう」と受け取ろうとしたが、ガルドは軽く首を振った。

「……俺が拭く」

「え……!」

 有無を言わせぬ低い声だった。
 ユリスは反射的に動きを止め、背筋が少し伸びる。
 ガルドは歩み寄り、タオルを両手で持ち、そっとユリスの頭に置いた。
 動きは驚くほど丁寧だった。その指は力強いのに乱暴ではなくて、髪を押さえるたびに温もりが伝わってくる。

「……冷たいな」

「雨に濡れましたから」

「服も冷たくなっているだろう。外套、脱げ」

「えっ、そ、そこまでは――!」

「替えがある」

「え、ええと……じゃあ、上だけ……!」

 赤面しながら外套を脱ぐユリス。
 薄いシャツ越しに肌が透け、肩の線が雨に濡れて少し光る。
 ガルドはタオルを移動させ、今度は首筋と頬を拭った。

「……くすぐったいです」

「我慢しろ」

「優しいですね、ガルドさん」

「任務だ」

 任務――と言いながらも、視線は少し揺らいでいた。
 距離が近い。
 ユリスがふと顔を上げると、彼の瞳がすぐそこにあった。
 琥珀の色が、雨の灰色の光を受けて、まるで火を宿したように見えた。

「……もう、乾きましたよ」

「まだ」

 ガルドはタオルを動かす手を止めず、ユリスの髪を指でほぐす。
 その指先が耳の後ろをなぞると、ユリスの体がぴくりと震えた。
 彼の視線が、無意識にガルドの胸元を見上げる。
 距離が、近い。雨音さえ遠くに感じた。

「ガルドさん……?」

 呼んだ声が、思ったよりも小さかった。
 ガルドは答えない。
 ただ、ユリスの前髪の雫を指でぬぐい取り、そのまま手を離した。

「……これでいい」

 ユリスは顔を上げたまま、胸の鼓動を落ち着けるように息を吸う。
 まだ拭かれたときの温もりが残っている。

「ありがとうございます。ガルドさんて……本当に、優しいですね」

「優しいのではない。放っておけないだけだ」

「それを“優しい”って言うんですよ」

 小さく笑うと、ガルドの耳がわずかに動いた。
 その仕草が可愛くて、ユリスはもう一度笑ってしまう。
 雨音の中で、ガルドがぼそりと呟いた。

「……お前は、よく笑うな」

「笑うの、ダメですか?」

「……ダメではない」

「ふふ。笑っている方が前向きになれる気がしませんか?」

「……まぁ、そうだな」

 ガルドは目を細めた。
 外はしとしとと雨が続き、通りの向こうでは誰かが屋根布を叩く音がしていた。
 ガルドの低い声が落ちる。

「この街は、雨が多いのか」

「ええ。そういえば、多いかもしれません……でも、嫌いじゃないです」

「なぜだ?」

「……静かになるから、ですかね。その方が人の機微とか気配がわかりやすい気がして」

 ユリスはそう言って振り返った。
 ガルドの視線がまっすぐ自分を見ている。
 その瞳に、雨粒が反射して光る。

「……俺の気配も、か?」

「そうです」

「……」

 ユリスは目を細めて微笑んだ。

「ガルドさんの気配は、いつも“あたたかい風”みたいでした。
 近づくと安心できて、離れると少し寒くなるような」

「……そんなに単純じゃない」

「わかってます。でも、……僕にはそう感じます」

 ガルドの喉が、かすかに鳴る。
 視線を外すこともできたのに、彼は外さなかった。
 外套の中で尾が静かに動く。

「……ユリス」

「はい」

「濡れた外套の替えを取りに戻る。お前は館で休め」

「僕も行きます」

「ダメだ。足元が滑る」

「それでも……一緒にいたいです」

 思わず口からこぼれた言葉に、ユリス自身が驚いた。
 雨音が一瞬止まったように感じる。
 ガルドの瞳が、わずかに見開かれた。

「……一緒に?」

「はい。……だって、僕を一人に……しないで」

 ユリスはガルドの外套の裾を掴み、小さな声で訴えた。
 ガルドは短くため息をつき、諦めたように肩を落とす。

「……分かった。その代わり、傘代わりに俺の外套を使え」

「え? それじゃ、ガルドさんが濡れて――」

「構わない」

 外套を外し、ふわりとユリスの頭にかける。
 彼の匂いが、すぐそこにあった。
 森ような香り、そして雨に濡れた土の香り。
 ユリスの胸がどくんと鳴る。

「歩くときは、俺の前を行くな。段差で転ぶ」

「はい……」

 外套の重みが優しく肩を包み、背の高いガルドの影がすぐ後ろに落ちる。
 その距離はいつもより近く、心臓の音が聞こえてしまいそうだった。

  ◇

 領主館に戻るころには、雨はすっかり小降りになっていた。
 玄関の前で外套を返すとき、ユリスはそっと微笑んだ。

「……やっぱり、ガルドさん、あたたかいです」

「体温が残ってただけだろ」

「それだけじゃない気がします」

「……」

 返す言葉が見つからなかったのか、ガルドは小さく目を逸らした。
 その頬に、ほとんど見えないくらいの赤みがさした。

 ユリスはそれを見て、心の中でそっと呟く。

 ――雨の日も、大好きになれそう。

 ガルドの尾が静かに風に揺れる。
 街はまた、穏やかな午後を取り戻していく。
 濡れた外套の匂いだけが、二人の間に少しだけ残っていた。
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