狼の護衛騎士は、今日も心配が尽きない

結衣可

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第5話 お弁当としっぽの秘密

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 翌朝のルーヴェンは、柔らかな曇り空だった。
 湖から上がる白い靄が街をかすめ、屋根瓦の端でほどけていく。市場はいつもより静かで、パン屋の窯だけが確かな熱を吐いていた。
 ユリス・アルヴィンは、まだ薄い朝の光の中で台所に立っていた。
 領主館の共用厨房の隅。小鍋に湯をわかし、刻んだハーブを指先でつまむ。指に残る香りは、ガルドの外套がふと揺れたときの森の匂いとどこか似ていた。

(……喜んでくれるかな)

 木の弁当箱を二つ。
 一方には、蜂蜜に漬けて焼いた肉を薄く切り、冷めても香りが立つように表面に軽く焼き目をつけて並べる。もう一方には、湖の小魚を酢で締めたものと、森で採れたきのこの炒め物。色合いが寂しくならないように、卵の薄焼きをくるくる巻いて詰め、端に塩漬けの赤い実を添えた。
 最後に、小袋から白い粉を指先でつまむ。
 連邦の露店で教わった、獣人の塩――乾かした海藻と山の塩を混ぜ、少しだけ野草の粉を加えたもの。人には少し強いが、肉の旨みを引き出す。ユリスは包丁の背で丁寧に叩き、あられのように散らしてから、そっと蓋を閉じた。

(“僕だけの護衛”さんに、ちゃんとお礼したい)

 何となく――くすぐったい。
 網かごに弁当と水筒、布巾を入れて、そわそわしながらユリスは厨房を出た。

  ◇

 午前の見回りは、雨の前特有の慌ただしさが混じっていた。
 洗濯女は「降る前に」と物干しを増やし、魚屋は干物を急いで取り込む。路地裏の猫は落ちつきをなくし、犬は鼻を空に向けてひくつかせる――その中で、灰銀の尾だけは、いつも通り静かだった。
 ガルド・ルヴァーンは、半歩後ろ。
 ユリスの視界に入らない位置で、ゆっくりと街をなでるように見る。危険の芽を、芽のまま潰すように。短い言葉で人の動線を整え、角では先に入り、段差では先に下りる。彼の動きは目立たないのに、通りは不思議と滑らかに回っていく。

「お昼、少し早めに休めますか」

 市場をひと巡りしたところで、ユリスが振り返る。
 ガルドは空を一瞥し、頷いた。

「雨になる前がいいだろう。念のため、屋根のあるところで」

「そしたら、良い場所、あります」

 二人が向かったのは、港から少し離れた水門脇の小さな見張り台だった。
 人の出入りは少なく、屋根付きの木のベンチがある。斜めの雨をよけるように設計された庇は深く、風鈴がひとつ、古い紐で吊られていた。

「ここ、好きなんです。水の音が落ち着くから」

 ユリスは網かごをそっと置き、布を広げる。
 ガルドは周囲を確認してから、外套の裾を払って腰を下ろした。

「……何か、持ってきたのか」

「はい。お口に合えばいいんですけど」

 蓋を開けると、曇り空の下でも色がはっと浮かび上がった。
 香ばしい肉の縁が光り、卵の巻きが黄色の帯を描き、小魚の銀が静かに光る。ふわりと立った湯気に、ガルドの耳が微かに反応した。

「これは……?」

「連邦で好まれる塩?というものを商人の方に教わって……、少し試してみました。美味しいといいんですけど」

 言い終えるか終えないかで、ガルドの喉仏がわずかに動いた。
 その表情の変化を見逃すほど、ユリスは鈍くない。
 木箸を手渡すと、ガルドはほんの一拍の間呼吸を整え、それから静かに箸を進めた。
 一口、肉を。
 頬の筋肉がわずかに弛み、琥珀の瞳の底がやわらかく揺れる。

「……旨い」

 その二文字に、ユリスの心臓が跳ねた。

「よかった……!」

 ガルドは二口目に箸を運び、無駄のない所作で食べる。嚙む音はほとんど立たず、息は静かで一定――にもかかわらず、外套の影で灰銀の尾が、ゆっくり、ほんの少しずつ、律動を増していくのがユリスには見えた。

(しっぽ……動いてる)

 最初は気のせいかと思った。
 きのこの炒め物に箸が伸びた瞬間、尾先が小さく弾んだ。
 小魚を食べたときは、尾がいったん止まり――しばらくして、またやわらかく揺れ始めた。

「ふふ、ガルドさん」

「……なんだ」

「しっぽ、かわいいです」

 箸が、ぴたりと止まる。
 耳が、見事なまでに伏せられる。

「見ていたのか」

「はい。あの、怒ってます?」

「怒っていない。……隠せないだけだ」

 言いながら、彼はそっと尾を自分の脇に巻きつけた。
 外からは見えない位置。ユリスの席からは、巻きつく動きの名残が細く見える。

「隠さないでほしいです」

 自分でも驚くほど真っ直ぐな声が出た。
 ガルドの視線が、ゆっくりとユリスを捉える。曇り空の下、琥珀の色は落ち着いた蜂蜜のように深い。

「尾が動くのは……狼族にとって、幼い証拠だ。気持ちを隠せない子どもみたいで、みっともない」

「そんなこと、ないです」

 即答に、ガルドのまぶたが小さく揺れた。
 ユリスは弁当の縁に指を置き、言葉を選ぶ。

「“美味しい”“嬉しい”“安心している”――人は言葉にできます。でも、言葉より先に出るものもありますよね。笑いとか、溜め息とか。尾は、ガルドさんにとっての……それなんじゃないですか」

 風鈴がひとつ鳴った。
 水門の水が、規則正しく落ちていく。
 ガルドはしばらく黙り、弁当に視線を戻した。肉をもう一切れ口に入れ、ゆっくり噛み、飲み込む。

「……群れでは、尾は“合図”だ。危険、警戒、集合、離散。戦では、それで命が救われることもある。だが――」

「?」

「家では、違う。尾は“安心”の印だ。……誰の前で動いたかを、よく覚えておけと、昔、親に言われた」

 そこで、ガルドは言葉を切った。
 外套の影で、巻きつけたはずの尾が、わずかに解ける。
 ユリスの喉が小さく鳴った。

「俺は、あまり動かなかった。そういう性質だと思っていた――」

 ガルドは箸を置き、ユリスをまっすぐ見た。

「?」

「……今は、よく動くようになった」

 その言葉の意味が分かって、頬が熱くなるのを隠せなかった。
 ユリスは慌てて視線を逸らした。

 ――それって、それって、……僕だから?
   どうしよう。嬉しい……。

 自分のドキドキがばれないように、水筒の蓋を回し、二人分の杯に水を注ぐ。
 指先がかすかに震えて、杯の縁に小さな輪がひとつ広がった。

「あの、その……よかった、です。動いて……」

「ふ、そうだな」
 
 その声が優しくて、ドキドキが耳まで聞こえてくるような気がした。
 ユリスは杯を差し出し、ガルドの指先が軽く触れる。
 ざらりとした感触に、身体がビクッと反応する。
 二人が同時に水を飲むと、風鈴がまたちりんと鳴った。

「……あの、卵、好きですか?」

 ユリスは慌てて話題を繋ぐ。

「甘すぎませんでした?」

「ちょうどいい。……これは、何の香りだ」

「山椒の実を少し。苦手なら」

「いや、好きだ」

 ガルドの言葉は直球で、心臓に悪い。
 ユリスは自分を落ち着かせるように弁当箱の隅から、小さな包みを取り出した。

「実は、もう一つ。連邦の干し肉屋さんが教えてくれた“保存の香り袋”を作ってみて……。ガルドさん、巡回で昼を逃すことがあるでしょう? これを弁当箱に忍ばせると、多少時間が経っても食材が悪くなりにくいんだそうです」

 包みの中には、小さな布袋。中に乾かしたハーブと柑橘の皮が入っている。
 ガルドは手に取って、鼻先に近づけた。僅かに目を細め、頷く。

「よく調べたな」

「あなたのためなら、なんでも……あ」

 口に出してしまってから、ユリスは自分で驚いた。恥ずかしい。
 雨の前の湿った風が、頬の熱を一向に冷ましてくれない。
 ガルドは、ほんの少しだけ目を伏せる。

「……そうか」

 外套の影で、尾がゆっくりと、素直に揺れた。
 もう隠そうとしない。ユリスはその揺れを、目に焼きつける。

  ◇

 食後、空は一段暗くなり、遠くで雷のくぐもった音が鳴った。
 雨が庇を叩き始め、見張り台の前の石畳に暗い丸が増えていく。

「少し止むまで、ここに居ましょう」

 ユリスが言うと、ガルドは頷いて、外に視線を向けた。

「ガルドさん」

「ん」

「自分で言ってて恥ずかしいんですけど……今日のしっぽ、最高でした」

「やめろ」

「本当に。僕の人生で一番素敵な……」

「ユリス」

 低い声に名前を呼ばれて、ユリスは口を閉じる。
 ガルドは少しだけ身体を傾け、言葉を探すように間を置いた。

「……お前が作ったものを食べるのは、危険だ」

「え?」

「尾が、動く。理性が、……緩む。任務中に、良くない」

 言いながら、どこか困ったように笑う。
 滅多に見ないその笑みに、ユリスは目が熱くなるのを感じた。

「……それでも、また作っちゃうと思います」

 雨音が強くなる。
 風鈴の紐が濡れ、鈴は重く鳴った。

「……そうか」

 ガルドは肯定も否定もしなかった。
 ユリスの胸で、何かがやわらかくほどけていく。

「じゃあ、次は……温かい汁ものも考えます。巡回の合間でも飲めるように、蓋のしっかりした器で」

「……」

「好き嫌い、ありますか?」

「……甘すぎるものは得意ではない。いや、今日の卵は平気だった」

「了解しました」

 ユリスは弁当箱を重ね、布で包む。
 その手を、ふとガルドの指が捕えた。重ねるように、そっと。
 ユリスは固まったまま、ガルドの言葉を待った。

「ユリス」

「はい」

「尾のことを、笑わないでいてくれるなら……いつでも、見ていていい」

「笑いません。可愛いとは言いますけど」

「それは……許す」

 二人は同時に小さく息を吐いた。
 しばらくすると、雨が弱まってきた。街の音が、少しずつ戻っていく。
 ユリスは網かごを持ち上げ、見張り台の外、濡れた石畳に一歩を踏み出した。

「行きましょう、ガルドさん。午後の市場、きっと混みます」

「ああ」

 庇を抜けるとき、灰銀の尾がユリスの膝の横をかすめた。
 わざとではないのかもしれないけれど、あたたかかった。
 ユリスは振り返らないまま、微笑み言った。

「……やっぱりしっぽ、最高です」

「仕事に集中しろ」

「は~い」

 小雨の中、二人の足音が並ぶ。
 ――次の昼も、その次の昼も。
 弁当箱の小さな蓋を開けるたび、灰銀は、ゆっくりと、やさしく揺れるだろう。
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