辺境に咲く花

結衣可

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第2話 砦の医官補佐

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 朝の砦は、まだ息が白くなるほど冷えていた。
 鐘が一度鳴ると、兵士たちが一斉に動き出す。鎧の金具の音、鍛冶場の火の弾ける音、遠くで吠える魔獣の声。
 その喧騒の中で、アデルは医務房の扉を押し開けた。
 長机の上には昨夜のまま放置された包帯と血のついた布が山になっている。
 薬瓶は半分が空、残りの半分は中身の分量がまちまち。
 整頓されているとは言い難かったが、前任者が倒れて以来、この砦の医務房は慢性的な人手不足なのだと聞いていた。
 アデルは袖をまくり、深く息を吸う。

「……では、まず分類から始めよう」

 声に出すと、ほんの少しだけ緊張がほぐれた。
 薬草の香りと血の鉄臭さが混ざった空気の中で、彼は仕分けを始める。
 効能ごとに分け、使用期限を見極め、使えるものと廃棄すべきものを記録帳に書き写していく。
 手を動かすうちに、昨夜までの“追放された貴族”という思考が薄れていった。
 ここでは、身分よりも、働けるかどうか。それだけだ。

 ――ただの補佐でも、役に立てることはある。

 昼が近づく頃、若い兵士が怪我人を背負って飛び込んできた。

「医官補佐! 外の見張り台で転落だ!」

 見れば、膝から下が真っ赤に染まっている。
 アデルは即座に持って来ていた包帯と消毒薬を手に取り、止血帯を探す。

「あ、あの、ベルトを貸していただけますか?」

「あ、あぁ、これを」

 連れてきた兵士が自分のベルトを差し出した。

「ありがとうございます。締めますよ……少し、堪えて下さい」

「ひっ、痛ぇ!」

「血が止まらないと悪化してしまいます。痛いと思いますが、もう少し頑張って」

 手際の良さに、周囲の兵士たちは目を丸くした。
 王都の医官と違い、現場での応急処置を覚えているのは珍しい。
 彼は王都時代、戦場医術の講義を自主的に学んでいたのだ。
 やがて血が止まり、兵士は息を吐いた。

「……助かった」

「無理に動かさなければ、2.3日で通常業務に戻れますよ」

 アデルは静かに微笑んだ。
 その表情はどこか柔らかく、兵士たちは少しだけ視線を逸らした。
 “追放者”という噂のわりに、まるで陽の光のような微笑だったからだ。

 その日の夕刻、医務房の片隅から彼を見つめる視線があった。
 黒い外套に身を包んだヴァルガスだ。
 アデルは気づかぬまま、薬草を刻み、傷薬を練っていた。
 包帯を巻く手の動きは正確で、目の前の仕事にだけ集中している。
 無駄な言葉も動作もない。
 ヴァルガスは、彼の横顔をしばらく見つめ、低く息を吐いた。

「……あれが王都で“追放”されるような男か」

 副官の一人が小声で答える。

「侯爵家の息子だとか。政略のこじれだそうです」

「政治の腐臭はどこにでもあるな」

 ヴァルガスはわずかに眉を動かす。
 
 それから数日、アデルは砦の生活に少しずつ馴染んでいった。
 洗濯場の女たちは、最初こそ貴族の手など役に立たないと笑っていたが、薬草の煮出し方を教えると、次第に彼を頼るようになった。
 訓練場の兵士も、傷を診てもらううちに態度が変わっていく。

「おい、アデル。次はこっちの擦り傷も頼む」

「また転んだんですか? 子どもじゃないんですから」

「うるせぇ、地面が滑ったんだ!」

 そんなやり取りに笑いが起き、砦の空気が少しだけ柔らかくなった。

 夜、医務房に一人残って薬を調合していると、扉の向こうから足音がした。
 ヴァルガスだった。

「まだ起きているのか」

「明日の巡回に備えて薬の補充を」

「勤勉なことだ」

 低い声には呆れとも、僅かな称賛とも取れる響きがあった。
 ヴァルガスは棚の瓶を指でなぞりながら問う。

「この薬は、どう違う」

「右は止血、左は感染防止です。同じ色ですが、配合が違います」

「見分けはつくのか」

「香りで。少し焦げた草の匂いがする方が止血用です」

 ヴァルガスは瓶を近づけ、静かに鼻を寄せた。

「……確かに違うな」

「間違うと危険なので、印を変えておきます」

「頼む」

 短い会話の間に、妙な沈黙が挟まった。
 砦の外では風が唸り、窓の外の雪片がちらつく。
 ヴァルガスは視線を逸らし、無造作に言った。

「王都の者は、この空気に耐えらないと思っていたが……」

 アデルは、苦笑に似た息を漏らした。

「最初は、息をするのも痛かったです」

「今はどうだ」

「……もう慣れてきました。風は冷たいけど」

 ヴァルガスは短く笑った。
 それは、砦に来て初めて見る彼の笑みだった。
 口元だけがかすかに緩み、一瞬だけ温かみを帯びた。

「冷たく深い森と魔獣しかいない土地で、生きられる人間は限られている」

「僕はその一人になれたらと思っています」

「――そうだな」

 そう言い残して彼は部屋を出ていった。
 扉が閉まると、静寂の中にまだ彼の声が残っている気がした。
 アデルは机に置かれた薬瓶を見下ろしながら、ふと笑みをこぼす。

 この砦の空気が、自分を受け入れ始めている。
 そして、ヴァルガスという男もまた――
 無骨な沈黙の奥で、何かを感じ始めているのかもしれない。
 外では、雪が音もなく降り始めていた。
 白い結晶が砦の石壁に積もり、灯りを柔らかく反射させている。
 灰色の砦に、ほんのひと筋の白い光が差した夜だった。
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