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第3話 夜営の灯
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灰色の空を渡る風が、乾いた土と血の匂いを運んでいた。
日が落ちると、遠征隊の野営地は焚き火の光に包まれる。
炎の赤が揺れ、鉄の鍋で煮込まれる薬草の香りが夜気に溶けていく。
アデルは膝をつき、負傷兵の包帯を替えていた。
昼の戦闘で魔獣に爪を引っかかれた兵士たちの傷は深く、感染を防ぐために一人ひとりの傷を洗い、薬を塗り、清潔な布で巻き直していく。
指の感覚はとっくに失われていた。
それでも、手を止めるという選択肢は、アデルにはない。
「次の方、どうぞ」
「おい、アデル、もう夜中だぞ。少し休め」
隣で見ていた副官が呆れたように言うが、アデルは微笑んだ。
「今のうちに処置しておかないと、朝には熱が出てしまいますから」
「真面目すぎるな……」
そのやり取りを、少し離れた焚き火の影から見ていたヴァルガスは、腕を組んだまま黙っていた。
炎の赤が彼の横顔を照らす。
昼間の戦場で見せた鋭さは消え、代わりに何かを確かめるような静かな眼差しだけがあった。
――生き残ることに必死な男たちの中で、アデルだけが不思議に穏やかだ。
血の匂いにも、罵声にも、彼は眉ひとつ動かさない。
震える手で兵の髪を撫で、優しく声をかける。
その柔らかさが、辺境の空気に微かな温度を与えていた。
「医官補佐、少し寝てこい」
低い声が背後から響いた。アデルが振り返ると、ヴァルガスが立っていた。
「辺境伯様……まだ包帯の交換が――」
「それは他の者でもできる。お前の顔色が悪い」
ヴァルガスの視線は、まっすぐだった。
命令のようでいて、どこかに心配の色が滲む。
アデルは唇を噛んだ。
「僕は、皆さんの役に立ちたくて……」
「役に立ちたいなら、倒れるな」
短く言い放つと、ヴァルガスは焚き火のそばから毛布を一枚持ってきて、アデルの肩にかけた。
ごつごつした指が触れた瞬間、全身に電流が走るように熱が広がる。
あまりの不器用さに、思わず笑みが漏れた。
「そんな顔をするな」
「すみません。思ったより、温かかったもので」
アデルの声に、ヴァルガスはわずかに眉を寄せた。
「……寝ろ」
それだけ言って背を向ける。
その背中を見つめながら、アデルの胸が静かに痛んだ。
彼の言葉は荒っぽいのに、優しさが滲んでいる。
砦で最初に会ったとき、冷たいと思った男の中に、こんな温もりがあるとは思わなかった。
――どうして、こんなにも気になるのだろう。
夜半を過ぎると、焚き火の火が弱まっていく。
アデルはどうしても眠れず、少し離れた丘の上に立って夜空を見上げた。
辺境の星々は王都よりもずっと近く、冷たい光が空いっぱいに散らばっている。
その背後で、足音がした。
「……眠れないのか」
声に振り向くと、ヴァルガスが立っていた。
外套の肩には夜露が光っている。
「えぇ。久しぶりに、こんな星を見たものですから」
「王都では見えないだろう」
「ええ。灯りが多すぎるので」
沈黙が落ちた。風が草を撫で、遠くで馬のいななきが響く。
ヴァルガスは視線を空に向けたまま、ぽつりと言った。
「この光の下で眠ると、不思議と夢を見ない」
「……それは、安らぎという意味ですか?」
「いや。疲れが深すぎて、夢すら追いつかんという意味だ」
アデルは苦笑し、ヴァルガスの横顔を見上げた。
焚き火の残り火が、彼の頬に淡く光を落とす。
その光景が、なぜか胸を締めつけた。
「辺境伯様は……いつからこの地に?」
「7年になる」
「7年……」
「まぁ、左遷されたんだ。……お前と似たようなものだな」
自嘲めいた声が、夜気に滲む。
アデルは言葉を失った。
ヴァルガスが、王都から追われた身であることを初めて知る。
「王都は、俺のような人間を嫌う」
「でも、この砦の人たちは、あなたを信じています」
「そう見えるか?」
「はい。皆さん、あなたの命令に従うだけでなく……敬意を持っています」
ヴァルガスはわずかに視線を落とした。
風が外套を揺らし、二人の距離がほんの少し近づく。
「……お前は変わっているな」
「そうでしょうか」
「この地に来た者は、大抵最初の1月で無表情になる。……お前は未だに笑う」
その言葉に、アデルの胸がまた熱くなった。
「笑っていなければ、きっと心が折れてしまうからです」
「……強いな」
「いえ。そう見えるだけです」
その答えに、ヴァルガスは小さく息を吐いた。
「明日もまた討伐がある。少しでも眠れ」
アデルが頷くと、彼は夜の闇に溶けるように背を向けた。
残されたアデルは、外套の上に毛布を巻き直し、ゆっくりと腰を下ろす。
風が火の粉をさらい、焚き火が静かに消えかける。
その胸の内には、小さな火が確かに灯っていた。
無骨な男の不器用な優しさが、その温もりが、冷たい夜気の中でも消えずに残っていた。
アデルは目を閉じる。
星々が瞬く夜、砦の野営地で、二人の心がほんの少し近づいた。
日が落ちると、遠征隊の野営地は焚き火の光に包まれる。
炎の赤が揺れ、鉄の鍋で煮込まれる薬草の香りが夜気に溶けていく。
アデルは膝をつき、負傷兵の包帯を替えていた。
昼の戦闘で魔獣に爪を引っかかれた兵士たちの傷は深く、感染を防ぐために一人ひとりの傷を洗い、薬を塗り、清潔な布で巻き直していく。
指の感覚はとっくに失われていた。
それでも、手を止めるという選択肢は、アデルにはない。
「次の方、どうぞ」
「おい、アデル、もう夜中だぞ。少し休め」
隣で見ていた副官が呆れたように言うが、アデルは微笑んだ。
「今のうちに処置しておかないと、朝には熱が出てしまいますから」
「真面目すぎるな……」
そのやり取りを、少し離れた焚き火の影から見ていたヴァルガスは、腕を組んだまま黙っていた。
炎の赤が彼の横顔を照らす。
昼間の戦場で見せた鋭さは消え、代わりに何かを確かめるような静かな眼差しだけがあった。
――生き残ることに必死な男たちの中で、アデルだけが不思議に穏やかだ。
血の匂いにも、罵声にも、彼は眉ひとつ動かさない。
震える手で兵の髪を撫で、優しく声をかける。
その柔らかさが、辺境の空気に微かな温度を与えていた。
「医官補佐、少し寝てこい」
低い声が背後から響いた。アデルが振り返ると、ヴァルガスが立っていた。
「辺境伯様……まだ包帯の交換が――」
「それは他の者でもできる。お前の顔色が悪い」
ヴァルガスの視線は、まっすぐだった。
命令のようでいて、どこかに心配の色が滲む。
アデルは唇を噛んだ。
「僕は、皆さんの役に立ちたくて……」
「役に立ちたいなら、倒れるな」
短く言い放つと、ヴァルガスは焚き火のそばから毛布を一枚持ってきて、アデルの肩にかけた。
ごつごつした指が触れた瞬間、全身に電流が走るように熱が広がる。
あまりの不器用さに、思わず笑みが漏れた。
「そんな顔をするな」
「すみません。思ったより、温かかったもので」
アデルの声に、ヴァルガスはわずかに眉を寄せた。
「……寝ろ」
それだけ言って背を向ける。
その背中を見つめながら、アデルの胸が静かに痛んだ。
彼の言葉は荒っぽいのに、優しさが滲んでいる。
砦で最初に会ったとき、冷たいと思った男の中に、こんな温もりがあるとは思わなかった。
――どうして、こんなにも気になるのだろう。
夜半を過ぎると、焚き火の火が弱まっていく。
アデルはどうしても眠れず、少し離れた丘の上に立って夜空を見上げた。
辺境の星々は王都よりもずっと近く、冷たい光が空いっぱいに散らばっている。
その背後で、足音がした。
「……眠れないのか」
声に振り向くと、ヴァルガスが立っていた。
外套の肩には夜露が光っている。
「えぇ。久しぶりに、こんな星を見たものですから」
「王都では見えないだろう」
「ええ。灯りが多すぎるので」
沈黙が落ちた。風が草を撫で、遠くで馬のいななきが響く。
ヴァルガスは視線を空に向けたまま、ぽつりと言った。
「この光の下で眠ると、不思議と夢を見ない」
「……それは、安らぎという意味ですか?」
「いや。疲れが深すぎて、夢すら追いつかんという意味だ」
アデルは苦笑し、ヴァルガスの横顔を見上げた。
焚き火の残り火が、彼の頬に淡く光を落とす。
その光景が、なぜか胸を締めつけた。
「辺境伯様は……いつからこの地に?」
「7年になる」
「7年……」
「まぁ、左遷されたんだ。……お前と似たようなものだな」
自嘲めいた声が、夜気に滲む。
アデルは言葉を失った。
ヴァルガスが、王都から追われた身であることを初めて知る。
「王都は、俺のような人間を嫌う」
「でも、この砦の人たちは、あなたを信じています」
「そう見えるか?」
「はい。皆さん、あなたの命令に従うだけでなく……敬意を持っています」
ヴァルガスはわずかに視線を落とした。
風が外套を揺らし、二人の距離がほんの少し近づく。
「……お前は変わっているな」
「そうでしょうか」
「この地に来た者は、大抵最初の1月で無表情になる。……お前は未だに笑う」
その言葉に、アデルの胸がまた熱くなった。
「笑っていなければ、きっと心が折れてしまうからです」
「……強いな」
「いえ。そう見えるだけです」
その答えに、ヴァルガスは小さく息を吐いた。
「明日もまた討伐がある。少しでも眠れ」
アデルが頷くと、彼は夜の闇に溶けるように背を向けた。
残されたアデルは、外套の上に毛布を巻き直し、ゆっくりと腰を下ろす。
風が火の粉をさらい、焚き火が静かに消えかける。
その胸の内には、小さな火が確かに灯っていた。
無骨な男の不器用な優しさが、その温もりが、冷たい夜気の中でも消えずに残っていた。
アデルは目を閉じる。
星々が瞬く夜、砦の野営地で、二人の心がほんの少し近づいた。
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