浮世の恋華、筆先で濡れる~売れっ子絵師と花魁の秘め事~

どえろん

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第四話:夜明けの光は、残酷なほどに

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 障子を透かす朝の光は、残酷なほどに美しかった。
 それは、夢の終わりと、現実の始まりを告げる合図。

 腕の中で眠る海斗の穏やかな寝顔を見つめながら、わっちはそっと彼の頬に触れた。
 昨夜、あれほど激しくわっちを求めた男とは思えぬ、無防備な顔。
 このまま時が止まってしまえばいいと、何度願ったことか。

 けれど、くるわの朝は早い。
 遠くから、見習いの少女かむろたちの甲高い声や、廊下を忙しなく行き交う足音が聞こえ始める。
 わっちを「薄雲太夫」へと作り上げるための時間が、すぐそこまで迫っていた。

「…海斗」

 名を呼ぶと、彼の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。
 まだ夢の中にいるような、とろんとした瞳がわっちを捉え、すぐに愛おしげな色を宿す。

「…夢では、なかったのですね」
「ああ。悪い夢なら、覚めておやりんすよ」

 わざと、いつもの花魁の口調で返す。
 そうでなければ、泣いてしまいそうだったから。
「行くな」と、その腕にすがりついてしまいそうだったから。

 海斗は、わっちの強がりを見透かしたように、その身体を強く抱きしめた。

「行きたくない」

 子供のような、素直な言葉。
 それが、わっちの心の最後の壁を、またしても溶かしていく。

「…行っておくれ。あんたには、あんたの世界がある。わっちには、この籠の中が世界の全てでありんす」
「俺が、その籠を壊す」

 きっぱりとした口調だった。
 彼はわっちの身体を離すと、真剣な眼差しで言った。

「必ず、迎えに来る。客としてではなく…あなたを、この場所から連れ出すために。だから、待っていてくれますか」

 その言葉は、どんな愛の囁きよりも、わっちの魂を揺さぶった。
 花魁を身請けするなど、大店の主人か、よほどの大名でもなければ叶わぬ夢物語。
 しがない絵師の彼に、それができるはずもない。

 けれど、わっちは頷いていた。
 嘘でもいい。叶わぬ夢でもいい。
 この人のその言葉だけを信じて、これからの地獄を生きていける気がした。

「…あんまり待たせたら、耄碌もうろくしたばばあになっちまうよ」

 そう言って笑うと、海斗はわっちの唇に、最後の口づけを落とした。
 名残惜しむように、何度も角度を変えて。
 そして、夜明け前の闇に紛れるように、彼は部屋を出ていった。

 一人残された部屋に、彼の匂いだけが、生々しく残っていた。

 その日の昼過ぎ。
 いつものように白粉おしろいを塗り、重い打掛を羽織って座敷に座るわっちの前に、この見世の楼主である遣手婆やりてばばあが姿を現した。

「薄雲」
「…はい」
「お前の肌艶、今朝は一段と良いようだね」

 ねっとりとした視線が、わっちの首筋から胸元を舐めるように動く。
 すべてを見透かしているかのような、油断ならぬ目だった。

「昨夜の絵師殿が、よほどお気に召したと見える」
「…さぁ。客人の好みは、それぞれでありんすから」

 しらばっくれても、無駄だった。
 遣手婆は、わっちの目の前に、一枚の画帖を置いた。
 それは、海斗が持っていたものだった。おそらく、慌てて出て行った彼が忘れていったのだろう。

 中には、まだ墨も乾かぬうちに描かれたであろう、わっちの姿があった。
 けれど、それは春画などではなかった。
 描かれていたのは、涙を流しながら、恍惚の表情で絶頂を迎えるわっちの顔。
 そこには、ただの遊女ではない、一人の女としての“魂”が、克明に写し取られていた。

「…これは」
「惚れたね、あの男に」

 遣手婆の言葉は、氷のように冷たかった。

「忘れるんじゃないよ、薄雲。お前は、この見世の商品だ。心を売ることは、楼主が許さない。お前の身体は、次のお前を身請けする旦那様のものなんだからね」

 その言葉は、冷たい刃となってわっちの胸に突き刺さった。
 そうだ。わっちには、もうすぐ身請けの話が持ち上がっている。
 相手は、加賀の裕福な大商人。金さえ払えば、わっちの全てを自由にできると思っている男だ。

 海斗の温もりが、まだ肌に残っているというのに。
 この身体が、また他の男に汚される。
 その事実が、絶望となってわっちにのしかかった。

 その頃、アトリエに戻った海斗は、画帖を忘れてきたことにも気づかず、無我夢中で筆を走らせていた。
 版元から催促されている春画ではない。
 彼が描いていたのは、夜明けの光の中で、泣きながら微笑んだ女神――薄雲の、真の姿だった。

「待っていてくれ、薄雲…」

 呟きは、誰に聞かれるでもなく、墨の匂いが立ち込める部屋に吸い込まれていく。

「この筆で、あんたの自由を描き出してみせる」

 二人の運命は、まだ始まったばかり。
 けれど、その行く手には、あまりにも高く、分厚い壁がそびえ立っていた。

【続く】
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