4 / 7
第四話:夜明けの光は、残酷なほどに
しおりを挟む
障子を透かす朝の光は、残酷なほどに美しかった。
それは、夢の終わりと、現実の始まりを告げる合図。
腕の中で眠る海斗の穏やかな寝顔を見つめながら、わっちはそっと彼の頬に触れた。
昨夜、あれほど激しくわっちを求めた男とは思えぬ、無防備な顔。
このまま時が止まってしまえばいいと、何度願ったことか。
けれど、廓の朝は早い。
遠くから、見習いの少女たちの甲高い声や、廊下を忙しなく行き交う足音が聞こえ始める。
わっちを「薄雲太夫」へと作り上げるための時間が、すぐそこまで迫っていた。
「…海斗」
名を呼ぶと、彼の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。
まだ夢の中にいるような、とろんとした瞳がわっちを捉え、すぐに愛おしげな色を宿す。
「…夢では、なかったのですね」
「ああ。悪い夢なら、覚めておやりんすよ」
わざと、いつもの花魁の口調で返す。
そうでなければ、泣いてしまいそうだったから。
「行くな」と、その腕にすがりついてしまいそうだったから。
海斗は、わっちの強がりを見透かしたように、その身体を強く抱きしめた。
「行きたくない」
子供のような、素直な言葉。
それが、わっちの心の最後の壁を、またしても溶かしていく。
「…行っておくれ。あんたには、あんたの世界がある。わっちには、この籠の中が世界の全てでありんす」
「俺が、その籠を壊す」
きっぱりとした口調だった。
彼はわっちの身体を離すと、真剣な眼差しで言った。
「必ず、迎えに来る。客としてではなく…あなたを、この場所から連れ出すために。だから、待っていてくれますか」
その言葉は、どんな愛の囁きよりも、わっちの魂を揺さぶった。
花魁を身請けするなど、大店の主人か、よほどの大名でもなければ叶わぬ夢物語。
しがない絵師の彼に、それができるはずもない。
けれど、わっちは頷いていた。
嘘でもいい。叶わぬ夢でもいい。
この人のその言葉だけを信じて、これからの地獄を生きていける気がした。
「…あんまり待たせたら、耄碌した婆になっちまうよ」
そう言って笑うと、海斗はわっちの唇に、最後の口づけを落とした。
名残惜しむように、何度も角度を変えて。
そして、夜明け前の闇に紛れるように、彼は部屋を出ていった。
一人残された部屋に、彼の匂いだけが、生々しく残っていた。
その日の昼過ぎ。
いつものように白粉を塗り、重い打掛を羽織って座敷に座るわっちの前に、この見世の楼主である遣手婆が姿を現した。
「薄雲」
「…はい」
「お前の肌艶、今朝は一段と良いようだね」
ねっとりとした視線が、わっちの首筋から胸元を舐めるように動く。
すべてを見透かしているかのような、油断ならぬ目だった。
「昨夜の絵師殿が、よほどお気に召したと見える」
「…さぁ。客人の好みは、それぞれでありんすから」
しらばっくれても、無駄だった。
遣手婆は、わっちの目の前に、一枚の画帖を置いた。
それは、海斗が持っていたものだった。おそらく、慌てて出て行った彼が忘れていったのだろう。
中には、まだ墨も乾かぬうちに描かれたであろう、わっちの姿があった。
けれど、それは春画などではなかった。
描かれていたのは、涙を流しながら、恍惚の表情で絶頂を迎えるわっちの顔。
そこには、ただの遊女ではない、一人の女としての“魂”が、克明に写し取られていた。
「…これは」
「惚れたね、あの男に」
遣手婆の言葉は、氷のように冷たかった。
「忘れるんじゃないよ、薄雲。お前は、この見世の商品だ。心を売ることは、楼主が許さない。お前の身体は、次のお前を身請けする旦那様のものなんだからね」
その言葉は、冷たい刃となってわっちの胸に突き刺さった。
そうだ。わっちには、もうすぐ身請けの話が持ち上がっている。
相手は、加賀の裕福な大商人。金さえ払えば、わっちの全てを自由にできると思っている男だ。
海斗の温もりが、まだ肌に残っているというのに。
この身体が、また他の男に汚される。
その事実が、絶望となってわっちにのしかかった。
その頃、アトリエに戻った海斗は、画帖を忘れてきたことにも気づかず、無我夢中で筆を走らせていた。
版元から催促されている春画ではない。
彼が描いていたのは、夜明けの光の中で、泣きながら微笑んだ女神――薄雲の、真の姿だった。
「待っていてくれ、薄雲…」
呟きは、誰に聞かれるでもなく、墨の匂いが立ち込める部屋に吸い込まれていく。
「この筆で、あんたの自由を描き出してみせる」
二人の運命は、まだ始まったばかり。
けれど、その行く手には、あまりにも高く、分厚い壁がそびえ立っていた。
【続く】
それは、夢の終わりと、現実の始まりを告げる合図。
腕の中で眠る海斗の穏やかな寝顔を見つめながら、わっちはそっと彼の頬に触れた。
昨夜、あれほど激しくわっちを求めた男とは思えぬ、無防備な顔。
このまま時が止まってしまえばいいと、何度願ったことか。
けれど、廓の朝は早い。
遠くから、見習いの少女たちの甲高い声や、廊下を忙しなく行き交う足音が聞こえ始める。
わっちを「薄雲太夫」へと作り上げるための時間が、すぐそこまで迫っていた。
「…海斗」
名を呼ぶと、彼の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。
まだ夢の中にいるような、とろんとした瞳がわっちを捉え、すぐに愛おしげな色を宿す。
「…夢では、なかったのですね」
「ああ。悪い夢なら、覚めておやりんすよ」
わざと、いつもの花魁の口調で返す。
そうでなければ、泣いてしまいそうだったから。
「行くな」と、その腕にすがりついてしまいそうだったから。
海斗は、わっちの強がりを見透かしたように、その身体を強く抱きしめた。
「行きたくない」
子供のような、素直な言葉。
それが、わっちの心の最後の壁を、またしても溶かしていく。
「…行っておくれ。あんたには、あんたの世界がある。わっちには、この籠の中が世界の全てでありんす」
「俺が、その籠を壊す」
きっぱりとした口調だった。
彼はわっちの身体を離すと、真剣な眼差しで言った。
「必ず、迎えに来る。客としてではなく…あなたを、この場所から連れ出すために。だから、待っていてくれますか」
その言葉は、どんな愛の囁きよりも、わっちの魂を揺さぶった。
花魁を身請けするなど、大店の主人か、よほどの大名でもなければ叶わぬ夢物語。
しがない絵師の彼に、それができるはずもない。
けれど、わっちは頷いていた。
嘘でもいい。叶わぬ夢でもいい。
この人のその言葉だけを信じて、これからの地獄を生きていける気がした。
「…あんまり待たせたら、耄碌した婆になっちまうよ」
そう言って笑うと、海斗はわっちの唇に、最後の口づけを落とした。
名残惜しむように、何度も角度を変えて。
そして、夜明け前の闇に紛れるように、彼は部屋を出ていった。
一人残された部屋に、彼の匂いだけが、生々しく残っていた。
その日の昼過ぎ。
いつものように白粉を塗り、重い打掛を羽織って座敷に座るわっちの前に、この見世の楼主である遣手婆が姿を現した。
「薄雲」
「…はい」
「お前の肌艶、今朝は一段と良いようだね」
ねっとりとした視線が、わっちの首筋から胸元を舐めるように動く。
すべてを見透かしているかのような、油断ならぬ目だった。
「昨夜の絵師殿が、よほどお気に召したと見える」
「…さぁ。客人の好みは、それぞれでありんすから」
しらばっくれても、無駄だった。
遣手婆は、わっちの目の前に、一枚の画帖を置いた。
それは、海斗が持っていたものだった。おそらく、慌てて出て行った彼が忘れていったのだろう。
中には、まだ墨も乾かぬうちに描かれたであろう、わっちの姿があった。
けれど、それは春画などではなかった。
描かれていたのは、涙を流しながら、恍惚の表情で絶頂を迎えるわっちの顔。
そこには、ただの遊女ではない、一人の女としての“魂”が、克明に写し取られていた。
「…これは」
「惚れたね、あの男に」
遣手婆の言葉は、氷のように冷たかった。
「忘れるんじゃないよ、薄雲。お前は、この見世の商品だ。心を売ることは、楼主が許さない。お前の身体は、次のお前を身請けする旦那様のものなんだからね」
その言葉は、冷たい刃となってわっちの胸に突き刺さった。
そうだ。わっちには、もうすぐ身請けの話が持ち上がっている。
相手は、加賀の裕福な大商人。金さえ払えば、わっちの全てを自由にできると思っている男だ。
海斗の温もりが、まだ肌に残っているというのに。
この身体が、また他の男に汚される。
その事実が、絶望となってわっちにのしかかった。
その頃、アトリエに戻った海斗は、画帖を忘れてきたことにも気づかず、無我夢中で筆を走らせていた。
版元から催促されている春画ではない。
彼が描いていたのは、夜明けの光の中で、泣きながら微笑んだ女神――薄雲の、真の姿だった。
「待っていてくれ、薄雲…」
呟きは、誰に聞かれるでもなく、墨の匂いが立ち込める部屋に吸い込まれていく。
「この筆で、あんたの自由を描き出してみせる」
二人の運命は、まだ始まったばかり。
けれど、その行く手には、あまりにも高く、分厚い壁がそびえ立っていた。
【続く】
0
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる