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第五話:魂の値段、辱めの指先
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海斗がアトリエの戸を蹴破るようにして飛び込んできたのは、薄雲と別れてから三日後のことだった。
版元の親父は、ろくに眠ってもいないであろう海斗の鬼気迫る形相と、その手に抱えられた一枚の絵を見て、ただ息を呑んだ。
「親父さん! 頼む、これを版木にしてくれ!」
「馬鹿野郎! お前、今までどこでほっつき歩いて…! 催促されてた春画はどうしたんだ!」
怒鳴りつけながらも、親父の視線は絵に釘付けになる。
そこに描かれていたのは、肌も露わな女の絵ではあったが、断じて春画ではなかった。
夜明けの光の中、涙を流しながら、この世の全ての愛を知ったかのように微笑む一人の女。
それは、吉原一の花魁・薄雲太夫の姿だったが、彼女が纏っているのは豪華な打掛ではなく、えもいわれぬ神々しさそのものだった。
絵から放たれる気迫、魂を揺さぶるような美しさに、百戦錬磨の版元は言葉を失った。
「…こいつは、春画じゃねえ。美人画だ。いや…そんな陳腐なもんじゃねえな。…おい海斗、てめえ、この女に何をしやがった」
「俺の魂を、この絵に写しただけだ」
海斗の答えに、親父は深く長い溜息をついた。
「…金になんぞなるか、こんなもん。だが…」
親父はにやりと口の端を吊り上げる。
「俺の版元人生、最後に面白いもんが見られそうだ。いいだろう、彫ってやる。これが吉と出るか凶と出るか、神様にでも祈ってな」
この一枚の絵――後に『黎明の女神』と呼ばれることになる作品が、江戸の世を大きく揺るがすことを、まだ誰も知らなかった。
その頃、薄雲は地獄の釜が開くのを、ただ静かに待っていた。
遣手婆の監視は日増しに厳しくなり、海斗の面影を胸に抱くことすら許されない。
そして、運命の日はやってきた。
身請け相手である加賀の大商人、五十嵐蔵之介が、大名行列さながらの子分を引き連れて見世に現れたのだ。
金糸銀糸をふんだんに使った羽織を着流し、指にはいくつもの玉指輪をつけた、見るからに品性のない男。年の頃は五十をとうに過ぎているだろう。脂ぎった顔に、蛇のようにねちっこい目を浮かべ、値踏みするようにわっちの全身を舐め回した。
「ほう。こいつが、吉原一の薄雲太夫か。噂に違わぬ、見事な品だな」
品、だと?
わっちを、まるで道具か何かのように言うその言葉に、腹の底で何かが煮えくり返る。
だが、わっちは完璧な笑みを顔に貼り付け、深々と頭を下げた。
「これはこれは、蔵之介様。ようこそおいでくださいんした」
「うむ。まあ、座れ」
蔵之介は、わっちの隣にどかりと腰を下ろすと、酒の匂いがする息を吹きかけながら、その無遠慮な手を伸ばしてきた。
太く、節くれだった指が、わっちの太腿を、着物の上からむんずと掴む。
「ひっ…!」
思わず漏れた小さな悲鳴を、男は聞き逃さなかった。
「はっはっは。初心な反応をしおるわ。俺がどれほどの金を積んで、お前という“品”を買い求めようとしているか、分かっているのか?」
その指が、着物の合わせ目から中へと侵入しようとする。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
やめて。
汚らわしい手で、わっちに触れるな。
この身体は、あの人のものだ。あの人の筆だけが、触れることを許された場所なのだ。
心で叫びながらも、わっちは花魁としての技量で、その手をひらりとかわした。
「まぁ、蔵之介様。そのようなお戯れは、わっちが正式にあんた様のものになってからにしておくんなまし。今宵はまず、一献…」
そう言って徳利に手を伸ばしたわっちの腕を、蔵之介は荒々しく掴んだ。
「まだるっこしい!」
男の目が、卑しい欲望に爛れていた。
「今夜、ここで確かめさせてもらうぞ。お前が、俺の払う金に見合うだけの“極上の穴”を持っているのかどうかをな…!」
引き寄せられ、男の脂臭い身体に組み敷かれそうになる。
脳裏に浮かんだのは、海斗の優しい指使いと、慈しむような口づけ。
その記憶が、あまりにも鮮やかで―――目の前の現実が、耐え難いほどの屈辱となって、わっちの心を抉った。
ああ、海斗。
あんたは今、どこにいる。
わっちの魂は、もう、壊れてしまいそうだ。
涙がこぼれ落ちる寸前、わっちの耳に、階下から響く男たちの怒号と、何かが壊れる派手な音が飛び込んできた。
「何奴だ!」
「構うもんか! 薄雲はどこだ!」
聞き覚えのある、焦がれてやまない声。
わっちは、信じられない思いで、勢いよく開け放たれた襖に目を向けた。
そこに立っていたのは、息を切らし、着物を乱した―――海斗、その人だった。
【続く】
版元の親父は、ろくに眠ってもいないであろう海斗の鬼気迫る形相と、その手に抱えられた一枚の絵を見て、ただ息を呑んだ。
「親父さん! 頼む、これを版木にしてくれ!」
「馬鹿野郎! お前、今までどこでほっつき歩いて…! 催促されてた春画はどうしたんだ!」
怒鳴りつけながらも、親父の視線は絵に釘付けになる。
そこに描かれていたのは、肌も露わな女の絵ではあったが、断じて春画ではなかった。
夜明けの光の中、涙を流しながら、この世の全ての愛を知ったかのように微笑む一人の女。
それは、吉原一の花魁・薄雲太夫の姿だったが、彼女が纏っているのは豪華な打掛ではなく、えもいわれぬ神々しさそのものだった。
絵から放たれる気迫、魂を揺さぶるような美しさに、百戦錬磨の版元は言葉を失った。
「…こいつは、春画じゃねえ。美人画だ。いや…そんな陳腐なもんじゃねえな。…おい海斗、てめえ、この女に何をしやがった」
「俺の魂を、この絵に写しただけだ」
海斗の答えに、親父は深く長い溜息をついた。
「…金になんぞなるか、こんなもん。だが…」
親父はにやりと口の端を吊り上げる。
「俺の版元人生、最後に面白いもんが見られそうだ。いいだろう、彫ってやる。これが吉と出るか凶と出るか、神様にでも祈ってな」
この一枚の絵――後に『黎明の女神』と呼ばれることになる作品が、江戸の世を大きく揺るがすことを、まだ誰も知らなかった。
その頃、薄雲は地獄の釜が開くのを、ただ静かに待っていた。
遣手婆の監視は日増しに厳しくなり、海斗の面影を胸に抱くことすら許されない。
そして、運命の日はやってきた。
身請け相手である加賀の大商人、五十嵐蔵之介が、大名行列さながらの子分を引き連れて見世に現れたのだ。
金糸銀糸をふんだんに使った羽織を着流し、指にはいくつもの玉指輪をつけた、見るからに品性のない男。年の頃は五十をとうに過ぎているだろう。脂ぎった顔に、蛇のようにねちっこい目を浮かべ、値踏みするようにわっちの全身を舐め回した。
「ほう。こいつが、吉原一の薄雲太夫か。噂に違わぬ、見事な品だな」
品、だと?
わっちを、まるで道具か何かのように言うその言葉に、腹の底で何かが煮えくり返る。
だが、わっちは完璧な笑みを顔に貼り付け、深々と頭を下げた。
「これはこれは、蔵之介様。ようこそおいでくださいんした」
「うむ。まあ、座れ」
蔵之介は、わっちの隣にどかりと腰を下ろすと、酒の匂いがする息を吹きかけながら、その無遠慮な手を伸ばしてきた。
太く、節くれだった指が、わっちの太腿を、着物の上からむんずと掴む。
「ひっ…!」
思わず漏れた小さな悲鳴を、男は聞き逃さなかった。
「はっはっは。初心な反応をしおるわ。俺がどれほどの金を積んで、お前という“品”を買い求めようとしているか、分かっているのか?」
その指が、着物の合わせ目から中へと侵入しようとする。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
やめて。
汚らわしい手で、わっちに触れるな。
この身体は、あの人のものだ。あの人の筆だけが、触れることを許された場所なのだ。
心で叫びながらも、わっちは花魁としての技量で、その手をひらりとかわした。
「まぁ、蔵之介様。そのようなお戯れは、わっちが正式にあんた様のものになってからにしておくんなまし。今宵はまず、一献…」
そう言って徳利に手を伸ばしたわっちの腕を、蔵之介は荒々しく掴んだ。
「まだるっこしい!」
男の目が、卑しい欲望に爛れていた。
「今夜、ここで確かめさせてもらうぞ。お前が、俺の払う金に見合うだけの“極上の穴”を持っているのかどうかをな…!」
引き寄せられ、男の脂臭い身体に組み敷かれそうになる。
脳裏に浮かんだのは、海斗の優しい指使いと、慈しむような口づけ。
その記憶が、あまりにも鮮やかで―――目の前の現実が、耐え難いほどの屈辱となって、わっちの心を抉った。
ああ、海斗。
あんたは今、どこにいる。
わっちの魂は、もう、壊れてしまいそうだ。
涙がこぼれ落ちる寸前、わっちの耳に、階下から響く男たちの怒号と、何かが壊れる派手な音が飛び込んできた。
「何奴だ!」
「構うもんか! 薄雲はどこだ!」
聞き覚えのある、焦がれてやまない声。
わっちは、信じられない思いで、勢いよく開け放たれた襖に目を向けた。
そこに立っていたのは、息を切らし、着物を乱した―――海斗、その人だった。
【続く】
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