浮世の恋華、筆先で濡れる~売れっ子絵師と花魁の秘め事~

どえろん

文字の大きさ
5 / 7

第五話:魂の値段、辱めの指先

しおりを挟む
 海斗がアトリエの戸を蹴破るようにして飛び込んできたのは、薄雲と別れてから三日後のことだった。
 版元の親父は、ろくに眠ってもいないであろう海斗の鬼気迫る形相と、その手に抱えられた一枚の絵を見て、ただ息を呑んだ。

「親父さん! 頼む、これを版木にしてくれ!」
「馬鹿野郎! お前、今までどこでほっつき歩いて…! 催促されてた春画はどうしたんだ!」

 怒鳴りつけながらも、親父の視線は絵に釘付けになる。
 そこに描かれていたのは、肌も露わな女の絵ではあったが、断じて春画ではなかった。

 夜明けの光の中、涙を流しながら、この世の全ての愛を知ったかのように微笑む一人の女。
 それは、吉原一の花魁・薄雲太夫の姿だったが、彼女が纏っているのは豪華な打掛ではなく、えもいわれぬ神々しさそのものだった。
 絵から放たれる気迫、魂を揺さぶるような美しさに、百戦錬磨の版元は言葉を失った。

「…こいつは、春画じゃねえ。美人画だ。いや…そんな陳腐なもんじゃねえな。…おい海斗、てめえ、この女に何をしやがった」
「俺の魂を、この絵に写しただけだ」

 海斗の答えに、親父は深く長い溜息をついた。
「…金になんぞなるか、こんなもん。だが…」
 親父はにやりと口の端を吊り上げる。
「俺の版元人生、最後に面白いもんが見られそうだ。いいだろう、彫ってやる。これが吉と出るか凶と出るか、神様にでも祈ってな」

 この一枚の絵――後に『黎明れいめいの女神』と呼ばれることになる作品が、江戸の世を大きく揺るがすことを、まだ誰も知らなかった。

 その頃、薄雲は地獄の釜が開くのを、ただ静かに待っていた。
 遣手婆の監視は日増しに厳しくなり、海斗の面影を胸に抱くことすら許されない。

 そして、運命の日はやってきた。
 身請け相手である加賀の大商人、五十嵐蔵之介いがらし くらのすけが、大名行列さながらの子分を引き連れて見世に現れたのだ。

 金糸銀糸をふんだんに使った羽織を着流し、指にはいくつもの玉指輪をつけた、見るからに品性のない男。年の頃は五十をとうに過ぎているだろう。脂ぎった顔に、蛇のようにねちっこい目を浮かべ、値踏みするようにわっちの全身を舐め回した。

「ほう。こいつが、吉原一の薄雲太夫か。噂に違わぬ、見事な品だな」

 品、だと?
 わっちを、まるで道具か何かのように言うその言葉に、腹の底で何かが煮えくり返る。
 だが、わっちは完璧な笑みを顔に貼り付け、深々と頭を下げた。

「これはこれは、蔵之介様。ようこそおいでくださいんした」

「うむ。まあ、座れ」

 蔵之介は、わっちの隣にどかりと腰を下ろすと、酒の匂いがする息を吹きかけながら、その無遠慮な手を伸ばしてきた。
 太く、節くれだった指が、わっちの太腿を、着物の上からむんずと掴む。

「ひっ…!」

 思わず漏れた小さな悲鳴を、男は聞き逃さなかった。
「はっはっは。初心な反応をしおるわ。俺がどれほどの金を積んで、お前という“品”を買い求めようとしているか、分かっているのか?」

 その指が、着物の合わせ目から中へと侵入しようとする。
 ぞわり、と全身の肌が粟立った。

 やめて。
 汚らわしい手で、わっちに触れるな。
 この身体は、あの人のものだ。あの人の筆だけが、触れることを許された場所なのだ。

 心で叫びながらも、わっちは花魁としての技量で、その手をひらりとかわした。

「まぁ、蔵之介様。そのようなお戯れは、わっちが正式にあんた様のものになってからにしておくんなまし。今宵はまず、一献…」

 そう言って徳利に手を伸ばしたわっちの腕を、蔵之介は荒々しく掴んだ。

「まだるっこしい!」

 男の目が、卑しい欲望にただれていた。
「今夜、ここで確かめさせてもらうぞ。お前が、俺の払う金に見合うだけの“極上の穴”を持っているのかどうかをな…!」

 引き寄せられ、男の脂臭い身体に組み敷かれそうになる。
 脳裏に浮かんだのは、海斗の優しい指使いと、慈しむような口づけ。
 その記憶が、あまりにも鮮やかで―――目の前の現実が、耐え難いほどの屈辱となって、わっちの心を抉った。

 ああ、海斗。
 あんたは今、どこにいる。
 わっちの魂は、もう、壊れてしまいそうだ。

 涙がこぼれ落ちる寸前、わっちの耳に、階下から響く男たちの怒号と、何かが壊れる派手な音が飛び込んできた。

「何奴だ!」
「構うもんか! 薄雲はどこだ!」

 聞き覚えのある、焦がれてやまない声。
 わっちは、信じられない思いで、勢いよく開け放たれた襖に目を向けた。

 そこに立っていたのは、息を切らし、着物を乱した―――海斗、その人だった。

【続く】
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...