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第二十八章 変わりゆく関係
イケメン教師、神崎校長から校長室に呼び出される
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夕方の職員室。
他の教員たちはすでに帰り支度を終えていた。教務机の間を通り抜けて、神崎校長がこちらに近づいてくるのが見えた。
「小坂先生」
「はい」
返事をして立ち上がると、校長は静かに言った。
「ちょっと、話があるので、校長室へ」
◆
「失礼します」
小坂が校長室に入ると、校長が応接ソファーを示して言った。
「座ってくれ」
小坂が座って、少ししてから、神崎が言った。
「……妻と、また一緒に暮らすことにした」
ああ、やっぱり……。その話か。小坂は、ショックを隠して言った。
「ええ、聞いてます。奥さん、最近も連絡くれましたよ。“たまには顔を見せなさい”って」
神崎の奥さんから誘いがなくなったのは、そういうことだろうとは、思っていた。はっきりと言われたわけではないけれど、話の中で、なんとなくそんなことを匂わされていた気がする。
「……まだ、会っていたのか」
「ええ。手料理をごちそうになって、お話し相手になって。健康になりました。校長のおかげで。でも、最近、呼ばれなくなったので」
皮肉のようで、まったく皮肉ではなかった。事実を、ただ事実として述べただけだった。
「……そうか」
「ええ。連絡も直接やりとりしてますし」
「……それで?」
神崎が少しだけ眉をひそめる。小坂は軽く笑った。
「奥さんが作ってくれる手料理が体によくて、健康診断の結果もよかったです。主治医にも、ずいぶん、まともになったと言われました」
神崎は黙って、小坂の顔を見つめた。
「ふうん。なるほどね――かつて、妻を抱けなくなっていた男が、欲望だけで頼った若い教師。妻が今では、心を病みかけていたその若い教師の体調管理をしている、と」
「えっ、欲望だけでですか? 酷いですね。そこに愛はなかったんですか? 僕は真剣でしたけど」
「そうかい? それは悪かった」
神崎は、小坂をなだめるように言ってから続けた。
「皮肉なことに、いちばん健全な関係になったのは、男と若い愛人ではなく、妻とその『代役』だった、というわけだ」
「むぅ……」
小坂は少し不満だ。健全だか不健全だか、その区別は知らないが、こっちはいつだって真剣だったのに。
「……息子も、少しずつ大学に通うようになった」
神崎が言った。
「それはよかったですよね。奥さんも、喜んでましたよ。奥さんに、『ありがとう。小坂さんのおかげ』って言ってもらいました」
「……そうか。そうだな。私からも、礼を言うよ。本当にご苦労だった。ここまでこれたのは、君のおかげだ。本当に、ありがとう」
神崎は、言葉を嚙みしめるように、小坂の目を見て言った。
「……小坂先生。君にパワーハラスメントやセクシャルハラスメントをしたこと、今さらだが……すまなかった」
校長が、立ち上がって、頭を下げた。研修の成果だろうか。どうやら自覚を持ったらしい。よいことだ。だが、小坂は、この際、そんな校長をおちょくってやろうと、渋面を作った。
「謝られてもねぇ」
「慰謝料請求とか? 弁護士とか?」
神崎校長は、焦ったように尋ねた。
「そうですねぇ。まあ、奥さんに支払う慰謝料がなくなったわけですしねぇ」
「うっ……」
「退職金、楽しみですねぇ。息子さんも就職されれば……」
神崎校長を慌てさせるのが楽しくて、小坂は、にやにやしながら言った。
「まあ、それは、おいおい。考えておきます。今は、執行猶予付きってところですかねぇ」
「そ、そうか……」
「あ、でも、僕が求めたときは、今までみたいに、してくださっていいんですよ?」
「……わかった。これからは、無理強いはしない」
「なあんてね。これからは、奥さんを大事にしてくださいね」
「そうか……ありがとう」
神崎校長は、ほっと胸をなでおろしたようだった。
「まあ、でも、ほんと僕とするときは、立派に……」
「……あの頃、妻を抱けなかった。だが君を前にすると、不思議と……」
「勃ってましたね」
淡々と、小坂が言った。神崎の喉がひくりと動いた。
「君は……隣室から、見られていても……平気だったな」
「見られるの、慣れてますから。麓戸さんがいたのには、驚きましたけど」
小坂は、たんたんと見えるように答えていたが、心の底には、毒と怒りがあるのかもしれないとぼんやり思った。
「ああ、すまない。言おうと思っていたのだが、どうなるか、わからなかったから。あれを見せられて、我慢も、つらかったんでね」
そう、この人は、いつでも後から言い訳する。言い訳がうまい。嘘じゃないのかもしれないけど。僕は、いつも何かしら我慢していた。我慢するのが、昔から当たり前だったから、我慢するしか、やり方がわからなかった。不満の解消の仕方がわからなかった。ただ肉欲の解消だけで、全ての不満に対するストレスを解消しようとしていたのかもしれないが、よくわからない。
「あの頃の僕は、利用されることに、慣れてたから……」
小坂は振り返った。
「でも……その後、奥さんと過ごす時間の方が、よっぽど“抱かれてる”って感じでした。ちゃんと、優しく僕の心に手を伸ばして、食事も出してくれる人でしたから」
神崎は黙った。それが一番堪えたように、少しだけ目を伏せる。
「……奥さん、僕に手料理を作ってくれました。味噌汁に大根とにんじんの煮物とかっていう家庭料理や、あと小洒落た料理、映えそうな。嬉しかったですよ」
神崎は黙っていた。
「……今の僕は、ちゃんと自分でごはん作って……は、いないけど……食べてるから、大丈夫です。健全ですよ」
小坂は微笑んだ。
「それで、息子さん。大学、行ってるんですね」
「ああ。……引きこもってたのが、嘘みたいだ」
「“あの子にもありがとうって言っといて”って、奥さんから伝言ありましたよ。あの子っていうのは、僕のことらしいです」
「……あの人らしいな」
神崎は、ようやくわずかに笑った。けれど、その顔はどこか痛々しかった。
「たまに遊びに来いとも言え、と言ってましたけど。僕には直接言ってくれますから、校長から気を遣わなくて大丈夫ですよ」
小坂はそう締めた。
「じゃあ、そろそろ失礼します。……校長も、ちゃんとご飯、食べてくださいね」
神崎が何か言いかけたが、その口は結局、閉じられたままだった。
ーーー
作者の新作『君の声しか届かない』公開中。
高校が舞台、無口で毒舌な美形同級生×元女優の母を持つ可愛い演劇部男子。
R18なしですが、心理描写とじれじれ感、切なさはこちらと同様です。こちらより穏やかで癒し系です。
※作品ページ下部のリンク欄から飛べます。
他の教員たちはすでに帰り支度を終えていた。教務机の間を通り抜けて、神崎校長がこちらに近づいてくるのが見えた。
「小坂先生」
「はい」
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「ちょっと、話があるので、校長室へ」
◆
「失礼します」
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「座ってくれ」
小坂が座って、少ししてから、神崎が言った。
「……妻と、また一緒に暮らすことにした」
ああ、やっぱり……。その話か。小坂は、ショックを隠して言った。
「ええ、聞いてます。奥さん、最近も連絡くれましたよ。“たまには顔を見せなさい”って」
神崎の奥さんから誘いがなくなったのは、そういうことだろうとは、思っていた。はっきりと言われたわけではないけれど、話の中で、なんとなくそんなことを匂わされていた気がする。
「……まだ、会っていたのか」
「ええ。手料理をごちそうになって、お話し相手になって。健康になりました。校長のおかげで。でも、最近、呼ばれなくなったので」
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「……それで?」
神崎が少しだけ眉をひそめる。小坂は軽く笑った。
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神崎は黙って、小坂の顔を見つめた。
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神崎は、小坂をなだめるように言ってから続けた。
「皮肉なことに、いちばん健全な関係になったのは、男と若い愛人ではなく、妻とその『代役』だった、というわけだ」
「むぅ……」
小坂は少し不満だ。健全だか不健全だか、その区別は知らないが、こっちはいつだって真剣だったのに。
「……息子も、少しずつ大学に通うようになった」
神崎が言った。
「それはよかったですよね。奥さんも、喜んでましたよ。奥さんに、『ありがとう。小坂さんのおかげ』って言ってもらいました」
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神崎は黙っていた。
「……今の僕は、ちゃんと自分でごはん作って……は、いないけど……食べてるから、大丈夫です。健全ですよ」
小坂は微笑んだ。
「それで、息子さん。大学、行ってるんですね」
「ああ。……引きこもってたのが、嘘みたいだ」
「“あの子にもありがとうって言っといて”って、奥さんから伝言ありましたよ。あの子っていうのは、僕のことらしいです」
「……あの人らしいな」
神崎は、ようやくわずかに笑った。けれど、その顔はどこか痛々しかった。
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