上 下
62 / 72
8章 2021年 十羽が見た現実

8-8

しおりを挟む
 叫んだ直後、ドスンと両足で着地して片膝をついた。
 夜の畑だ。何年前なのかはわからないけれど、まだアパートは建っていない。

 十羽は立ち上がり、商店街に向かって走り出した。外灯の明かりの下を通ったとき、自分の手が半透明になっていることに気づいてギクリとした。顔も透けているのだろうか。こんな姿を誰かに見られて騒ぎにでもなったら大変である。

 幸い人通りはない。パーカーのフードを被って顔を隠し、走って蓮也の家を目指した。

 商店街の奥には古い住宅地が広がっており、さらに足を進めると、すっかり住み慣れた伊桜の家が見えた。家には灯りが灯っている。安堵のあまり十羽の目から涙が零れた。

(蓮也君……!)

 玄関のチャイムを押そうとしたとき、背後から「十羽さん?」と名前を呼ばれた。振り向くと、目を丸くした蓮也が立っていた。

「十羽さん! 帰って来てくれたんだ!」

 即座に抱きしめられ、温かな体温を感じて十羽の体から力が抜けた。泣きながら彼の胸に抱きつく。
「蓮也君! 蓮也君! うう……っ」

 蓮也は十羽をきつく抱き、後頭や背中を何度も撫でた。
「おかえり……!」
「今は、いつ?」
「1999年11月16日だよ。きのうの朝、十羽さんが消えた。また会えてすげえ嬉しい。こんなに早く会えるなんて思ってなかった。もう22年間、会えないと思ってた」

 少し体を離した彼が嬉しげに十羽を見る。だが次の瞬間、端正な顔が険しい表情に変わった。

「首が赤くなってる。これ、指の跡? まさか首を……絞められたのか?」

 誤魔化すべきか、正直に言うべきかわからない。目を逸らすと、蓮也は十羽の体を上から下まで確認した。首以外に怪我はないとわかり息をついたが、表情は険しいままだ。

「牛丸にやられたのか? 他にも何かされた?」
「大丈夫。イチョウの神様のおかげで過去へ逃げられたから」
「とにかく、中へ入ろう」

 促されるまま家に入り、リビングのソファに腰かけた。時刻は午後9時。蓮也は図書館の隣の公園へ行っていたと言う。

「こんな時間に、どうして公園へ?」
「晩飯を食べた後、イチョウの神様にお願いをしに行っていたんだ。未来の十羽さんを守ってくださいって」
「ありがとう、心配してくれて」

 十羽の首に、彼の手が優しく添えられる。
「これ、冷やしたほうがいいな。ちょっと待っててくれ」
 蓮也はキッチンへ向かい、水で湿らせたタオルを持って戻ってきた。そして十羽の体を自身の肩に預けさせ、首にタオルを当てた。

「なあ、未来の俺は何やってんだ? 十羽さんを助けなかったのか?」
「……色々、事情があるんだと思う」
「事情!? どんな事情があるって言うんだよ! 大事な人が首を絞められたのに!」
 彼の声は怒りに満ちている。

「それは……。そ、そう言えば僕の顔、透けてない?」
「大丈夫。また体が透明になったのか?」
「うん……」

 十羽はタイムスリップしたときに、イチョウの神様の声が聞こえたことを話した。過去の世界には一時間しか滞在できない、同じ人間が同じ時間を生きることはできない、と言われたことも。

 蓮也は目を見開いて驚愕した。
「神様の声! すげえ、そんな声が! 神様はほんとにいたんだ! ていうか、一時間!? たったの!?」
「一時間以内に戻らなければ、僕の肉体が消えるって」

 誕生日が近い今、この世界で体を維持できるギリギリの時間なのだろう。過去へのタイムスリップはおそらく今回が最後だ。

「消えるのはダメだ……。そうか、じゃあ、未来へ帰らなきゃな……。寂しいけど」
 蓮也が悲痛な表情で十羽を抱きしめた。
「ごめんね……」

「いや、十羽さんが謝ることじゃないよ。22年後まで俺が耐えればいいだけだ。これが神様の試練なんだと思って耐えるよ。ただ、このまま未来へ帰すのは心配で堪らない。なあ、未来で何があったのか教えてくれないか? 何を聞いても俺は関与しない、歴史を変えないって約束するから。何があったのかわからないまま22年間を過ごすのは、さすがにきつい」

 彼の言い分はもっともだ。恋人が首を絞められるなんてただ事じゃない。もしも逆の立場なら、十羽だって心配で胸が潰れそうになる。
「わかった……。話すよ」
 十羽は心を決め、牛丸からされたことを話した。

 夜、牛丸が謝罪をしたいと言ってアパートに現れた。騙された十羽はドアを開けてしまい、その後、首を絞められてベッドに突き飛ばされ、服を破かれて……。
 思い出しただけでも身震いする。隣人と思われる人が「うるさい」と言ってドアを叩いたおかげで牛丸を外へ追い出せた。その間に押し葉が光り、押し入れからタイムスリップして逃げられた。

 話を聞いた蓮也は唇をきつく噛み「くそっ、くそっ!」と憤った。
「大丈夫、未遂だったから」
「それでもひどい目に遭ってるじゃないか! ほんとに未来の俺は何やってんだよ! なんで十羽さんを守らないんだ!? 事情ってなんなんだよ!」

 2021年の蓮也は結婚して妻と息子がいる。家族を守っている。
 その事実を告げたら、この先の未来はどうなるのだろう。

 一瞬、結婚しないでほしい、ずっと自分を愛していてほしい、と言ってしまおうかと思った。『無理はしてほしくない』なんて遠慮した言い方ではなく、絶対に待っていてと強く釘を刺せば──。

 十羽の言葉で未来は変わるかもしれない。蓮也は結婚せず、あの美しい女性は他の人と結婚して、かわいい息子は生まれてこないかも。
 十羽の唇が震える。

(言えるのは今しかない。でも、ほんとにそんなこと言っていいの? 未来を変えていいの?)

『アトリエ・イザクラ』で見た光景が目の裏に浮かんだ。42歳の蓮也は息子を抱き上げ、幸せそうに微笑んでいた。
 十羽の発する言葉によっては、あの幸せな光景を壊すことになるかもしれず恐ろしくなった。自分の幸せを優先したら、彼らの幸せは消える。

 黙り込む十羽の顔を蓮也が心配そうに見つめる。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「なあ、未来の俺には会ってないのか?」
 十羽はしばらく沈黙し、それから頷いて「会って、ないよ」と言った。
「事情ってのは、言えないんだな?」
「ごめん……」

 蓮也が嘆息した。
「わかった。こうやって逃げられたんだ。無事で良かったと思うことにするよ。まだ納得はできてないけど、そう思うようにする」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ほっといて下さい 従魔とチートライフ楽しみたい!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:3,102pt お気に入り:22,202

【完結】あなたともう一度会えるまで

BL / 完結 24h.ポイント:1,102pt お気に入り:127

あなたが見放されたのは私のせいではありませんよ?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,769pt お気に入り:1,659

幼馴染は俺がくっついてるから誰とも付き合えないらしい

BL / 完結 24h.ポイント:85pt お気に入り:212

魔物のお嫁さん

BL / 完結 24h.ポイント:775pt お気に入り:752

七人の兄たちは末っ子妹を愛してやまない

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:18,097pt お気に入り:7,954

生贄のように嫁いだ敵国で愛する人を見つけました

恋愛 / 完結 24h.ポイント:78pt お気に入り:612

悩む獣の恋乞い綺譚

BL / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:69

俺はすでに振られているから

BL / 完結 24h.ポイント:92pt お気に入り:224

処理中です...