悩める子爵と無垢な花

トウリン

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赤毛の商人と影の男

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 アシュレイ・バートンが手配した馬車が停まったのは、『バートン商会』という看板が掲げられた建物の前だった。三階建てで間口も大きく、その構えからもかなりの収益を上げているだろうことが見て取れる。
 扉を開けると中は『店』というよりも『事務所』という様相で、余計な装飾は排した質素で実際的な造りをしていた。

「やあ、今晩は。ご到着、ですね?」
 中に足を踏み入れたルーカスに、朗らかな声がかけられる。
 そちらに目を遣ると、商談に用いるらしい長椅子から赤毛の男が立ち上がった。
 年の頃は三十に届くかどうか。整っているというよりも、感じが良いという表現の方がしっくりくる顔のつくりだ。浮かべている人当たりの良い笑みのせいで、年齢よりも若く見えるかもしれない。通説で赤毛は短気だと言われるが、彼に限ってはそこから外れていそうだ。

「バートンさん」
「アシュレイでいいですよ」
「では、アシュレイ、今回は助力をいただき――」
 礼の言葉を口にしかけたルーカスに、アシュレイはパタパタと手を振った。
「やだなぁ、そんなまだるっこしいことは置いておいてください。デッカー隊長は友人ですからね。友の友はそれもまた友、人脈というものは何よりも貴重な財産なんですから」
 そう言って、温かな茶色の目をしたアシュレイはニッコリと笑った。やり手の商人だということだが、この屈託のなさは天然なのか、それとも作ったものなのか。

 そんなふうに内心訝りながらアシュレイに勧められて椅子の一つに腰を下ろしたルーカスは、そこで初めて、はす向かいに男が一人座っていることに気がついた。

 一瞬、ぎくりとする。
 まるで、影のような男だ。
 早々にルーカスの視界に入っていたはずの位置にいるにも拘らず、彼の意識にはまったく入っていなかったのだ。

「ああ、驚かせてしまったかな? 影が薄い男でしょう? 彼はクライブといいます」
 軽い口調のアシュレイの紹介で、男が軽く頭を下げた。気配も乏しいが、外見的にも特徴が乏しい男だ。中肉中背にきわめて平凡な容姿。今じっくり見ていても、目を逸らして三つ数えれば、どんな顔だったか忘れてしまいそうだった。
「彼はね、ボクの下でまあ色々なことをこなしてくれているんですが、物凄く有能な男なんですよ。今回のあなたのフィオナ嬢のことも、そのクライブが調べ上げてくれたんです」
「それは……世話になったね」
 ルーカスは握手を求めて手を差し出したが、クライブと呼ばれた男は動かなかった。と、アシュレイが明るい笑い声をあげる。

「ああ、彼はそういうのなしでいいですよ。気を遣わずに使ってやってください。今後、連絡係諸々としてお傍にいさせますので」
 アシュレイは茶を注いだカップをルーカスに渡しながらそう言った。クライブはといえば、主人の言葉にうんともすんとも発しない。ただ静かに背を正しているだけだ。
 まるで機械仕掛けの人形か何かのようだと思いながらカップを口に運ぶルーカスの向かいに、アシュレイが腰を下ろす。

「さて、グランスから遠路はるばるお疲れさまでした。で、どうですか、彼女の家族は?」
 早々に本題に入り始めたアシュレイに、ルーカスは肩をすくめる。
「少なくとも、フィオナをここに残してグランスに帰る羽目にはならなそうだね」
「それは何より。まあ、怠惰で享楽的な生活が好みでなければ、警邏隊に戻った方が遥かに幸せな日々を送れるでしょうね」
 アシュレイの台詞に、ルーカスは眉をひそめる。
「あまり評判が良くないのか、トラントゥール家は?」
「ええ、まあ。もっとも、あの家が、というよりも、フランジナの貴族は、ですけどね」
 答えて、アシュレイは表情を引き締める。

「例の、デリック・スパークという男にフィオナ嬢を攫うように命じたという貴族のことですが、相当、良い身分らしいですね?」
「あの男の話し振りではね」
 ルーカスがそう返すと、アシュレイの顔はひと際渋くなった。
「トラントゥール男爵に限らず、はっきりいって、この国の貴族にはろくな者がいないんですよ。誰が何をやってもおかしくない」
「貴族全般が、か?」
「ええ。中には良い人もいますけどね、明らかにそちらの方が少数派です。グランスは、えぇと、何ていうか、貴族が自負していらっしゃるでしょう? こう、弱きを助けるのが義務、みたいな。税を徴収する代わりに、お前たちを守ってやるぞ、というか」
「まあ、そうだが……フランジナではそうではないと?」
 貴族らしくないルーカスでも、そこばかりは幼いころから叩き込まれて身に滲みついている。ほぼ常識であることを尋ねられて眉をひそめたルーカスに、アシュレイが頷く。

「フランジナでは下々の者は貴族のために身を粉にするのが当たり前、平民は単なる搾取の対象というか」
「では、何の為に貴族が存在する?」
「何ででしょうねぇ」
 かぶりを振って、アシュレイが肩をすくめた。
「まあとにかくそんな感じで、ボクも苦労しているんです。何かというと、ツケにしろとかまけろとか言って、あわよくば踏み倒そうとしてくるので。はっきり言って、ここのお貴族さまとは取引したくないですよ。色々許可をもらったりするのに必要ですから我慢してますけどね。身分が高くなればなるほど、メンドクサイことこの上ないですよ。何をやっても咎められない、わがままし放題なんですから。と、愚痴はここまでにしておきますが」
 恐らく息継ぎをせずにひと息に畳みかけてから、はぁ、と彼はため息をついた。
「ずいぶんと厄介そうだな」
「実際、厄介ですよ。お薦めは、明日にでもフィオナ嬢を連れてグランスに帰ることですね。ただ、トラントゥール家の使用人から彼女のことが漏れ、それが相手の耳にまで届くということは、充分に有り得ます。この国の貴族の使用人で主に対する忠誠心を持っている者はほとんどいませんから。主人の噂し放題です。トラントゥール家の二番目の娘が戻ってきているぞって話は、まあ、そうですね、三日もあれば社交界中に広まっているのではないかと」

 あまり嬉しくない予測を立ててくれたアシュレイに、ルーカスは眉根を寄せた。彼のその見立ては恐らく正しい。そもそも、フィオナがトラントゥール家の娘ではないかということが判明したのも、その使用人の噂話からなのだ。

 ルーカスは考える。
 さっさとフィオナと共にグランスに戻るべきかどうか。
 その場合、来るかどうかも判らない追っ手の影に、少なくとも数年間はビクつくことになるだろう。

 それはあまり、望ましくない。

 では、どうすることが、最適か。

 ルーカスの心の中での自問を聞き取ったかのように、アシュレイが口を開く。
「手っ取り早いのは、フィオナ嬢を囮にすることですよね?」
 彼はそれまでの軽い調子を消し去って、問いかけるというよりも確かめる口調でそう言った。
「それは……」

 できない。

 ほとんど反射で即座に却下しようとしたルーカスを、アシュレイは片手を上げて遮る。
「取り敢えず、考えてみてください。ここに残れば、近いうちにフィオナ嬢も社交の場に駆り出されるでしょう。彼女の姿を相手の目に触れさせれば、きっと、そいつは何か行動を起こします。未だに彼女に執着していればね。そこを捕まえればいい。あるいは、何もしてこなければフィオナ嬢のことは諦めたと判断できる。そうなれば、気を楽にしてグランスに帰れるでしょう?」

 アシュレイの言うとおりだ。
 彼が言う通り、確かに、それが一番手っ取り早いし確実だ。狙われているのがフィオナでなければ、ルーカスもすぐさま賛同した。

 だが、しかし。

 ルーカスは、たとえ毛の先ほどの危険であったとしても、それがフィオナに降りかかるようなことはしたくなかった。
 彼女の過去を探す為にフランジナまで連れては来たが、ここで無闇に人目に晒すようなことをするつもりはなかったのだ。不特定多数の者が出入りするような場所は避け、極力、屋敷の中だけで過ごさせるつもりだった。

「……あの母親はそんなことにしそうにないが。フィオナに対して無駄金を使いそうにない」
「フランジナの貴族は見栄っ張りですから、貧乏だから年頃の娘をお披露目できないんだなんて、口が裂けても言いませんよ」
 さっくりそう返されて、ルーカスは押し黙る。そんな彼をしげしげと見つめ、アシュレイが軽く首を傾げた。
「合理的に考えてください。この手のことは短期決戦が一番ですよ? 二、三日のことであれば、彼女のことを一日中見張っていることもできるでしょう。でも、それが一週間、一ヶ月となったら? 長引けば長引くほど、穴が生まれますよ」

 確かに、アシュレイの言う通りなのだ。
 自分が傍にいさえすれば、何ものからでもフィオナのことは守ってみせよう。だが、この先ずっと、一瞬たりとも目を離さずにいるということは、不可能だ。

 万が一、ほんの一瞬気が抜けた隙に、彼女が奪われるようなことがあったら……
 ルーカスは眉間に深い溝を刻んだ。

 彼の気乗りしない様子が丸々伝わったのだろう。アシュレイが宥めるような笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、このクライブがついていますから。フィオナ嬢の身の安全はばっちりです」
 言われて、ルーカスはクライブに眼を向ける。射貫くような彼の視線を、無口な男は静謐な眼差しで受け止めた。
 実業家としてグランスでは三本の指に入ると言われているアシュレイ・バートンがそうまで推すなら、きっと有能な男なのだろう。
 だが、フィオナを任せてもいいほど、信頼しても良いものなのか。

 渋面のまま頷けずにいるルーカスの背を、アシュレイ・バートンの静かな声が押す。
「多分、これが最良の手ですよ」

 彼のその言葉にすんなり頷くことはできないが、同時に、否定することもまた、ルーカスはできなかった。
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