悩める子爵と無垢な花

トウリン

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SS:愛情の注ぎ方

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 ウィリスサイドの中流階級が集う住宅街にあるその屋敷は、一見ただの邸宅だ。しかし、そこに身を寄せる者は皆難しい事情を抱えている。
 主には、夫や父親などから暴力を受け、家庭から逃げ出してきた女性とその子どもたちで、常時二十人前後が滞在している。
 このような施設はロンディウムの中に数か所あって、それらをまとめているのはアメリア・ハートという女性だ。そして、それを支えているのは、貴族や商人など、経済的に余裕がある家の奥方たちだった。

 フィオナがここの手伝いをするようになったのは、警邏隊に助けられてから半年ほどした頃からか。
 夫の暴力から逃げ出し幼い子どもを抱えて警邏隊詰所に駆け込んできた女性に付き添って訪れたのが、きっかけだった。
 この屋敷に保護された女性は皆傷だらけで、屈強だけれども優しい警邏隊の面々に囲まれていたフィオナは、そんな仕打ちを受ける女性がいることに衝撃を受けたのだ。以来、月に一度はここに足を運んでいる。
 当初は子どもたちに遊ばれるくらいしかできなかったフィオナも、四年もするとずいぶんとできることも増えてきた。今も、彼女と同じように時々ここの手伝いに来ている女性と共に、洗濯した大量の敷布をせっせと干していたところだ。

 フィオナは最後の一枚を竿にかけ、大きく打ち振るってしわを伸ばす。
 ふう、と息をついた時、庭の隅にうずくまる幼い少女が目に入った。
 少女はまだ五つか六つで、数日前に虐待する両親から離されてここに保護されたらしい。この屋敷には他にも同じ年頃の子がいて彼女を遊びに誘ってくれるのだけれども、それには全く応じようとしない。押し黙ったまま、ただひたすら、親が迎えに来てくれるのを待っている。
 ――彼女を愛するどころか、虐げ続けていた、両親を。

 複雑な思いでフィオナが自分と重なる境遇に置かれた少女を見つめていると、一緒に敷布を干していた女性が訝しげに問いかけてきた。
「フィオナ、どうした?」
 彼女はアンジェリカ・ラザフォードという名で、銀糸のような髪と紫水晶のような瞳をした、名前通りにヒトとは思えない麗姿を持つ女性だ。
 フィオナは少女からアンジェリカに視線を移す。アンジェリカはフィオナよりも五つほど年長で、整い過ぎた容姿な上にあまり表情が変わらないから、一見、冷淡な印象を他人に与えがちだ。けれど、少し共に過ごせば、とても思慮深く温かな人だと判る。

 フィオナはもう一度少女に目を向け、そして疑問をこぼす。
「あの子は、どうしてあんなふうに親を待てるのでしょう」
 彼女の言葉に、アンジェリカも少女を見た。
「理解できないか?」
「はい。だって、まだあんなに傷も残っていて……あれは両親から受けたものなのでしょう?」
 口に出すのもつらく、フィオナは唇を噛み締めた。アンジェリカはそんな彼女を見て、微かに頭を傾ける。銀髪がサラリと音を立てて、流れた。
「仕方がない。どれだけ殴る蹴るされようが、あの子にとっては、親なのだから」
「親というものは、そんなふうに無条件に愛せるものですか?」
 問いかけて、フィオナは眼を落とす。
 あるいは、どんな扱いを受けようとも、愛さなければならないものなのだろうか。
 彼女には、少女の想いが解からない。
 フランジナの地でようやく見つけた『親』に対して、フィオナは少しも情を抱けなかった。あんなふうに酷い暴力を受けた子でさえも、他を拒んで親だけを求めているというのに。

(わたしは、ルーカスさんが一緒に帰ろうとおっしゃってくださったとき、すごく嬉しかった)
 フランジナに残されるのではなく、グランスに戻れることを心底から切望していた。血のつながりがなかった母はともかく、肉親である父や兄姉に対しても未練は欠片もなかったし、今も微塵も湧いてこない。
 それはつまり、自分には何かが欠落しているということにはならないのだろうか。
 グランスに帰って落ち着いた日々を取り戻し、振り返る余裕ができてきた。そして、考えれば考えるほど、そんな不安が込み上げてきたのだ。
 親を愛せなかった自分は、どこかがおかしいのではないか――彼らと同じように、自分もまた、愛さなければならない相手を愛せないのではないだろうか、と。
 そんな後ろめたさが、フランジナから戻ったフィオナには常に付きまとっていた。

 うつむくフィオナを静かに見つめていたアンジェリカが、ややして、口を開く。
「あれは、愛情とは違う」
「え?」
 パッと顔を上げると、アンジェリカの深い菫色の眼差しが真っ直ぐにフィオナに注がれていた。
「幼い子どもにとっては、親は世界の全てだから。他を知らないから、彼らにすがるしかない。それは、愛情とは別のものだ」
「でも……」
 口ごもったフィオナだったが、不意に背後から温かなものに包み込まれて息を呑む。
「この先は私が引き継ぐよ」
 続いて背後から響いた声に、彼女は身を強張らせた。
 フィオナの頭上を見たアンジェリカが硬質な美しさを微かに和らげる。
「そうだな。これは本来あなたの役割だ、アシュクロフト子爵」
 アンジェリカは空になった洗濯籠を抱え上げ、フィオナに微かな笑みを向けた。
「フィオナ、あなたは自分が考えることよりも、皆から与えられるものを信じたほうがいい。それは信じるに値するものだから」
 そう残し、彼女はフィオナの応えを待たずに行ってしまった。

「さて」
 また頭の上から声がして、フィオナは力強い腕の中でクルリとその身を回される。さりげなく距離を取ろうとしたけれど、彼女の腰を包み込むように置かれた手が、それを許してくれなかった。
 おずおずと見上げると、銀灰色の瞳がフィオナを捕らえて煌いている。
「君を惑わせているものは何なのだろうと考えていたのだけれどね、ようやく見つけたみたいだ」
「ルーカスさん……」
 返す言葉が見つからずに彼の名前だけを口にしたフィオナの頬に、ルーカスの大きな手が触れた。
「つまり君は、あの親を愛せない自分がおかしいと思っていたわけだ?」
「……」
 的を射たルーカスの指摘に、フィオナは唇を噛んだ。そんな彼女に、ルーカスが微笑む。少しばかりの呆れを含んで。

「まったく。むしろ、彼らを愛していると言われた方が、余程正気を疑うよ。いいかい? ただ身体を大きくしてもらったから敬わなければならない、愛さなければならないというわけではないんだよ?」
「でも、ここに来る子は――」
「皆、幼い。そして、親の他に世界を知らない。選択の余地がないんだ。アンジェリカもそう言っていただろう? 彼らはまだそれ以外を知らず、それを愛するしかない。だからここに連れてくるんだ。より良い世界があることを教えるために。君もそのうちの一つだよ」
「わたし、ですか?」
 目をしばたたかせたフィオナに、ルーカスが頷く。
「そう。君を含めてここにいる者たちが、あの子たちに親が与えるものよりも幸せな世界があるということを教えてあげるんだ」
「わたしにそんなことは無理です」
 かぶりを振ったフィオナに、ルーカスが首を傾げた。
「そうかい? じゃあ、君は、警邏隊に来て幸せじゃなかった?」
「いいえ!」
 フィオナは思わず声を上げた。ルーカスはうろたえる彼女を宥めるように微笑む。
「私たちも、君に対して特別な何かをしたわけじゃない。ただ、君を大事に想う気持ちを行動で表しただけだ」
「それだけだなんて――そんなこと、ないです」
 この四年間で、フィオナはたくさんのものを与えてもらったのに。
 髪を揺らしてかぶりを振るフィオナの動きを、ルーカスは彼女の頭の天辺に口づけて止める。そうしてピシリと固まったフィオナの顎に指をかけて持ち上げた。

「本当に、それだけ、だったんだよ。だから君もここでそうしてあげたらいい。それで、きっとあの子の世界は開かれるから」
「世界、が?」
 大きく目を見開いてルーカスを見上げるフィオナを、彼は真っ直ぐに見つめ返してくる。
「君の世界も、もう開かれているんだ。いつまでも、古いものに囚われたままではいけないよ」
 囁いて、ルーカスはまたフィオナの頬を優しく包み込んだ。
「確かにね、親は子どもを愛する義務があるかもしれない。できない親も多いけどね。でも、子どもの方には、その義務はないよ。親は子どもを産むかどうかを選択できるけれども、子どもにはそれはできないのだから。君も、彼らを愛せないことに罪悪感など抱く必要はないんだよ」
 ルーカスの親指がフィオナの頬をそっと撫でた。そこから伝わる優しさに、彼女の胸が締め付けられる。
 彼はいつも言葉で想いを伝えてくれるけれども、今はその眼差しだけで充分だった。

 その眼差しに守られて、フィオナは彼の言葉を胸の内で繰り返す。
(わたしは、あの人たちを愛さなくてもいい)
 ふわりと、彼女の中で何かが解けたような気がした。

 ほ、と小さく吐息をこぼしたフィオナの肌を愛おしげに辿りながら、ルーカスが続ける。
「君の生はこのグランスに来てから始まったんだ。君の家族は彼らではない――私たちなんだ。そして私は、君にとって特別な家族になりたい」
 そう言って、ルーカスはフィオナの左手を持ち上げ口づける。左手の、薬指に。そして無言のまま取り出した物を、同じ場所にスルリと滑らせた。
 フィオナの為にあつらえたように納まったそれは、彼女の瞳の色と同じ青い煌きを放っている。
「あ、の、これは……」
「前に約束したものだよ」
 約束――しただろうか。

 困惑の面持ちで見上げたフィオナを、ルーカスの笑みが迎えた。
「ケイティにも釘を刺されたし、君が受け入れるのを待とうと思っていたのだけどね、君の気持ちはもう私にあるだろう?」
 それを確信した口調で言われ、フィオナの頬が熱くなった。と、ルーカスが満足そうに笑みを深くする。
「僕のことを想っているからこそ、君は迷うんだ。自分でいいのだろうか、とね。どうしても、君は理詰めで僕に相応しくない理由を探してしまうようだから、僕は理屈を脇に置いて行動で君を愛していることを伝えることにするよ」
 そう宣言し、ルーカスは恭しい手つきでフィオナの指先を持ち上げ、指輪のすぐ上に唇を寄せる。

「ケイティには蓋を開けなければ内側には届かないと言われたけれど、いっそ、器ごと溺れさせてしまえばいいんだよね」
「なんの、お話ですか……?」
「ん? ああ、愛情の注ぎ方の話だよ」
 眉根を寄せて問うたフィオナに答え、ルーカスが艶やかに笑った。
 台詞の意味はやっぱり解らないままだったけれども、屈託のないその笑顔に釣られてフィオナは笑みを返してしまう。ルーカスはそんなフィオナの額に口づけを一つ落とし、スルリと彼女の背中に腕を回した。
「あ、の、ルーカスさん?」
 広い胸の中に引き寄せられて、力強い鼓動を胸に感じて、フィオナはどぎまぎする。けれども、そこから逃れたいとは、思えなかった。
 温かな胸にそっと頬を寄せたフィオナの耳に、小さな笑い声が届く。
 そうして、フィオナの全てを包み込もうとするように、確かな力がふわりと彼女を抱き締めた。
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