捨て猫を拾った日

トウリン

文字の大きさ
27 / 70
愛猫日記

彼と彼女と彼①

しおりを挟む
「はいどうぞ」
 差し出されたのは白い皿。その上のベーコンエッグには、レタスとプチトマト、皮まで切り取ってあるオレンジが添えられている。イイ感じにこんがりと焼けているベーコンの香ばしい匂いが、孝一こういちの食欲をそそった。
「ああ、ありがとう」
 バターとイチゴジャムが塗られたトーストを齧りながら、彼はそれを引き寄せる。

 真白ましろが来るまで朝食はコーヒーだけだった彼だが、今はすっかり毎食一汁三菜が習慣付いていた。昼ですら、彼女が作ってくれる弁当を持っていくことが殆どだ。
 ニコッと笑った真白は、すぐに身を翻してキッチンへと戻っていく。一度少し高い位置で一つにくくってから三つ編みにした長い髪が、まるで猫の尻尾のようにゆるりと揺れた。
 水音に硬い物が触れ合う音――どうやら、彼女は使った調理器具を洗っているらしい。

 孝一は素早く食事を平らげると、ズボンのポケットに手を入れ、そこにある物を取り出した。
「シロ、ちょっとおいで」
 呼ばれて、ピョンと彼女が顔を上げる。
「何?」
「いいから」
 真白は少し首を傾げながらも水を止めると、布巾で手を拭き孝一の元へやってくる。
「ここに座って」
 椅子を引いてやると、言われるままに彼女はそこに腰を下ろした。
 その後ろに立って、孝一は長い三つ編みをすくい取る。元々髪が柔らかいうえに緩めに編んでいるから、三つ編みにしてあってもしなやかだった。
 それをほんの少しの間もてあそんでから、クルクルとポニーテールの根元に巻き付ける。そうしておいて、ポケットから出した物――透明なピンクのプラスチックの飾りがぶら下がった小さなクリップのような代物を、三か所ほどくっ付けた。

「……これは?」
 真白が首を捻って孝一を見上げながら両手で頭に触れる。
「髪をまとめる方法を、職場のヤツに教わったんだ」
「職場の?」
「ああ」
 指先でプラスチックの飾りに触れながら訊いてくる彼女に、孝一は生返事で頷いた。
 あまり突っ込んで欲しくない。
 職場の女性が髪をキレイにまとめているのを見て、真白も同じようにしたらどうかと思ったのだ――今日から、バイトが始まるから。

 はっきり言って、孝一は真白にバイトをして欲しくない。
 というより、この部屋から出したくない。
 彼女のバイトが始まる日が近付くにつれてどうしても強まってしまったそんな彼の気持ちは、真白にも伝わってしまっているだろう――真白の変化を喜びつつ、彼女を独占できている状況は変えたくないという、孝一の子どもじみたワガママは。
 お互いの為に、それは良くないことだとは彼も解かっている。
 これは、真白のバイトを――彼女が変わっていくことを孝一が受け入れているという、彼なりの無言の意思表示でもあるのだ。
 いつからだとか、どこでするとか、詳細が決まってから、真白はバイトについてあまり口にしなくなった。多分、孝一が良い反応を見せなかったからだ。
 全く経験のないことを始めるのだから彼女も不安や期待があっただろうに、真白は孝一の前ではバイトのバの字も出さなくなった。

(本当なら、何かアドバイスをしてやるべきだったんだ)
 孝一の中で折り合いがついた頃にはもう遅く、彼も何となく口にしづらくなってしまった。

 さりげなく、真白のバイトを応援してやりたい。
 そう思いつつも時間は着々と流れ、バイトを始める四月一日は刻々と近付いた。
 職場の女性の髪形に目が留まったのは、そんな折だった。
 きれいに丸められた髪を見て、真白の長い髪も同じようにしたらどうかと思ったのだ。
 昼休み、何気なくまとめ髪のやり方を尋ねた孝一と尋ねられた女性の周りには、あっという間に他の女性社員が集まってきた。

 孝一は会社の女性とは付き合わない。だいぶ前にそうしたこともあったが、毎日顔を合わせる相手と交際することのわずらわしさに懲りて、一人でやめた。
 愛想を振って変に好かれても困るから、今の職場での彼は仕事一辺倒だ。他の社員と言葉を交わすのは、事務的なものに留めていた。
 そんな彼が「髪のまとめ方を教えて欲しい」などと言い出したら、女性陣が食い付かない筈がない。
 彼女たちは、どうやら孝一が親戚の子の世話でもすると思ったらしい。懇切丁寧にやり方を教えてくれたばかりか、その為に必要なアクセサリーを売っている店まで教えてくれた。

 プラスティックでできたファンシーな諸々が並ぶ店の中に立ち、まさか自分がこんな所で買い物をする羽目になろうとは、と苦笑したのは三日ほど前のことだ。

「わたし、ちょっと見てくる」
 真白はそう言って立ち上がると、パタパタと小走りで洗面所の方へ向かう。
 やがて戻ってきた彼女の頬は、ほんのりと色付いていた。
「ありがとう」
 はにかみながら微笑んで、真白は孝一を見上げてくる。この上なく嬉しそうなその顔を見られただけでも、女子高生に混じってアクセサリを選んだ甲斐があったというものだ。
 彼しか映していないその瞳を、孝一は見つめ返す。そうして、少し身体を屈めた――若干の悪戯心を含んで。

「行動で示して欲しいな」
「え?」
「どうすれば俺が喜ぶかは判っているだろう?」
 彼のその言葉に、真白はパッと赤くなった。
 予想通りの反応に口元が緩みそうになるのを、引き締める。
「真白?」
「……仕事、遅れるよ?」
「ああ、だから早くしてくれよ」
 彼女が届くように身を低くしただけで、孝一の方からは動かない。

 真白は一度チラリと時計に目を走らせて、意を決したように彼の肩に手を置いた。少し背伸びした彼女がそっと唇を重ねてくる。柔らかさと温かさを感じたのはほんの一瞬で、彼女にはそれが精一杯なのだろうとは判っているが、はっきり言って物足りない。
 真白の踵が床に着くよりも早く孝一は手を伸ばし、彼女の細い首を包み込む。親指を頤《おとがい》にあてがって顔を上げさせると、覆い被さるようにして口付けた。
 真白はハッと目を見開いたが、孝一が舌の先で促すと、すっかり慣らされた彼女の唇は当然のように開かれる。滑らかな彼女の舌を一瞬だけくすぐって、彼はさっと身体を起こした。

 孝一にしてはあっさりとした触れ合いに、真白が物問いたげな眼差しを向けてくる。それが無意識に彼を誘っていることになるのだとは、気付かずに。
「本気で仕事を休みたくなっちまうだろ」
 笑いかけて額にキスを落とし、手を放す。名残惜しいが仕方がなかった。
 大きな目を逸らすことなく真っ直ぐに向けてくる真白からは、別に色香が漂ってくるわけではない。
 ただ、そうやって見つめられていると、別れ難くなる――触れていたくなる。

(頼むから、そう思うのは俺だけであってくれよ)
 ため息混じりに彼は胸の内でそう呟いた。惚れた欲目で孝一だけがそう感じているのなら、安心なのだが。
 できるなら、今からでもバイト禁止を言い渡してしまいたい。
 往生際悪くそう思ってしまう自分に、彼は苦笑した。

 真白のバイトを許可するにあたって彼女に三つの条件を課しただけでも大概だろうに、これ以上見苦しいところを晒したくはない。

 三つの条件――いやそれは、条件という名のわがままに過ぎなかったが。
 昼間だけのシフトにすること。
 二つの指輪のうち、必ずどちらかは左手の薬指に着けておくこと。
 そして何かトラブルがあったらすぐに辞めること。
 ――婚姻届にサインをすること、というのも付け足してしまいたい誘惑に駆られたが、さすがにそれは止めておいた。

「新年度早々遅刻するわけにもいかないからな。行ってくる」
「あ、うん」
 マシュマロのような真白の頬を一撫でして、孝一はソファの背にかけておいた背広を取る。鞄は彼が手を伸ばすよりも早く、小さな手が取り上げた。
 歩き出した孝一の後を、鞄を抱き締めた真白が付いてくる。玄関で差し出された鞄を受け取りながら、まさか自分がこんな朝を送ることになるとはな、と彼は小さな笑みを漏らした。
「何?」
「いや……バイト頑張れよ?」
「うん」
 頷いた彼女の、嬉しそうな笑顔。

(コレを送り出すのか)
 柔らかな表情をするようになった真白は、可愛い。多分、第三者の目から見ても、可愛い。『他人』の存在を意識していない為なのか、警戒心の欠片もないような風情がまた、妙にそそるのだ。
 馴れ馴れしくはしないのに、警戒している気配は皆無。無邪気な表情を見せるのに、触れさせはしない――そんな独特の雰囲気は、きっと野郎どもの気を引くだろう。

 思わず、ため息が漏れた。

「コウ?」
「何でもない。くれぐれも、気を付けろよ?」
「別に、危ないことなんてないよ。いつも行くファミレスだし」
 孝一の気など全く知らない真白の呑気な返事に苦笑しながら、彼は扉を押し開けた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

処理中です...