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愛猫日記
彼女のコウゲキ彼のロウバイ①
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二台の車がようやくすれ違えるかどうか、という幅の道の両側に並んでいる店の軒先を右、左と忙しなく覗き込む真白の長い三つ編みが、ふわりふわりと揺れている。ごった返しというほどではないが、まるきり誰にも触れずに歩くのは難しいほどの人出だ。そんな中を、真白は器用に擦り抜けていく。
そんな彼女を見失わないようにするにはその背中から目を離すことはできなくて、孝一はおちおち観光客気分に浸ることもできない。
(普通は、腕を組んだりして『わあ、あれ見て』とか言ってきたりするんじゃないのか?)
ここに来てから何度となくそんな『普通』のカップルとすれ違っていて、孝一は空きっ放しの自分の腕にため息をつく。
二人は今、硫黄臭が漂う温泉街を訪れていた。
六月という時期外れにも拘らず、日本でも有数の温泉名所は浴衣姿の旅行客がひっきりなしに行き交っている。孝一と真白も一度宿に落ち着いてからの散歩なので、旅館が貸してくれた浴衣に着替えていた。
真白はよそ見しながら歩いているので、孝一の足取りもゆっくりだ。子どものようにウロウロと歩き回る彼女の浴衣姿は新鮮で、長い裾からチラチラと覗く細い足首が、何となく可愛らしい。
時折、真白は小物を売っている店先で足を止めてしげしげとそれを見つめている。と思えばクルリと身を翻して、また別の店へと小走りで移動する。
自分の記念の為に何か買おうとしているのか、それとも、バイト先の連中に土産でも探しているのか。
最初は渋々許した真白のバイトだったけれど、夕食の席などで誰がどうした、こんなことがあったと楽しげに話す彼女の笑顔を見ると、孝一は、まあ良かったかなとも思ったりもする。
当初はつんけんされていた篠原《しのはら》ともすっかり仲良くなって、たまに一緒に遊びに行ったりするらしい――その時にはもれなく五十嵐《いがらし》が付いてくるのは、腹立たしいが。
(そのうち、奴らと泊まりで出かけたいとか、言い出すんだろうか)
真白はまだ十八歳で、大学生であっても社会人であっても、普通なら自由に遊び回っている年頃だ。彼女がそうしたいと言ったら、夫でもない孝一には拒むことはできない。
――真白がいない、生活。
孝一はそれを想像しようとして、眉をしかめる。
高校を卒業してからおよそ十五年。ほぼ人生の半分を、独り暮らししてきたことになる。それは気楽で彼自身気に入っていた生活だった。
それなのに、今は、独りで夕食を摂る場面すら思い浮かべることができない。
金銭的な面では、孝一は真白を養っている。
けれど、それ以外の面では、孝一は完全に真白に依存している。たとえたった一晩のことでも、彼女がいない生活など、もう想像すらできないのだ。
自分がこんなふうになるとは、孝一は夢にも思わなかった。
けれど、実際になってしまった。
「やれやれだ」
ため息混じりに、孝一は呟く。
と、唐突に、目の前に真白の顔が現れた。
その距離三十センチほどか。
てっきり孝一のことなど気にも留めずにフラフラ好き勝手にうろついていると思っていた彼女の行動に、思わず顎を引く。
「なんだ?」
欲しい物が見つかったのか、何か食べたい物でもあるのか。
とにかく、何か具体的な要求があるのだろう。
そうでなければ、戻って来やしない。
そう思って袂に手を突っ込んで財布を取り出そうとした孝一のその手は、真白に止められた。
「コウ、遅い」
「え?」
「はぐれたかと思った」
心持ち唇を尖らせた真白が、言いながら、彼と手のひらを重ね合わせてきた。
子ども同士が手をつなぐ時のように、触れ合っているのは、その手のひらだけ。
ただそれだけだというのに、孝一の胸が詰まった。
「コウ、どうかした?」
まじまじとつないだ手を見つめている孝一に、真白が怪訝そうに首をかしげる。
真白自身は、自分がどれほど変わってきているのか、気付いていないのだろう。
彼は指を組み合わせるように手をつなぎ直す。
少し前の真白なら、離れてしまった彼女が自分から孝一の所に戻ってくるなど、しなかった。
少し前の真白なら、こんなふうに自然に彼女の方から手をつないでくるなど、できなかった。
それらは、些細な変化だ。
けれど、貴重な変化だった。
確実に、真白の中では孝一が『特別』な存在になってきている。
それは、孝一が真白を特別に想っている気持ちの強さほどではないのだろうけれど。
立ち止まったままの彼を見上げてくる真白の眼差しには、打算も駆け引きもおもねる色も無い。
時たま、もっと媚びてくれないかと思うことがある。
もっとわたしを好きになって、とか、孝一の気持ちをねだるような態度を取ってくれないだろうかと。
彼の方は、常にもっと真白の気持ちが欲しいと思ってしまっているのに、全然釣り合いが取れていない。想いの重さを天秤にかけたら、余裕で孝一の方が勝ってしまうに違いない。
(頼むから、早いとこ追い付いてきてくれ)
「……疲れてる? 宿に戻る?」
思わずため息をこぼした孝一に、真白の目が心配そうに曇った。
「宿には戻りたいが、疲れちゃいない」
「人、多いもんね」
常日頃、人混みが嫌いだと公言している孝一に気遣って、真白が首をかしげて辺りを見回した。
「もう帰ろっか」
「……いいよ。お前はまだ見て回りたいんだろ?」
戻って二人きりになったら何をしたいと彼が思っているのか、真白には全然解かっていないに違いない。
孝一はふとつないだ手を持ち上げ、彼の指の付け根から覗いている小さな桜色の爪の一つにキスをした。最後に触れた小指には、ちょっと舌の先を這わせる。
「コウ!」
一瞬にして真っ赤になった頬に同じことをするのは、やめておいてやった。
そんな彼女を見失わないようにするにはその背中から目を離すことはできなくて、孝一はおちおち観光客気分に浸ることもできない。
(普通は、腕を組んだりして『わあ、あれ見て』とか言ってきたりするんじゃないのか?)
ここに来てから何度となくそんな『普通』のカップルとすれ違っていて、孝一は空きっ放しの自分の腕にため息をつく。
二人は今、硫黄臭が漂う温泉街を訪れていた。
六月という時期外れにも拘らず、日本でも有数の温泉名所は浴衣姿の旅行客がひっきりなしに行き交っている。孝一と真白も一度宿に落ち着いてからの散歩なので、旅館が貸してくれた浴衣に着替えていた。
真白はよそ見しながら歩いているので、孝一の足取りもゆっくりだ。子どものようにウロウロと歩き回る彼女の浴衣姿は新鮮で、長い裾からチラチラと覗く細い足首が、何となく可愛らしい。
時折、真白は小物を売っている店先で足を止めてしげしげとそれを見つめている。と思えばクルリと身を翻して、また別の店へと小走りで移動する。
自分の記念の為に何か買おうとしているのか、それとも、バイト先の連中に土産でも探しているのか。
最初は渋々許した真白のバイトだったけれど、夕食の席などで誰がどうした、こんなことがあったと楽しげに話す彼女の笑顔を見ると、孝一は、まあ良かったかなとも思ったりもする。
当初はつんけんされていた篠原《しのはら》ともすっかり仲良くなって、たまに一緒に遊びに行ったりするらしい――その時にはもれなく五十嵐《いがらし》が付いてくるのは、腹立たしいが。
(そのうち、奴らと泊まりで出かけたいとか、言い出すんだろうか)
真白はまだ十八歳で、大学生であっても社会人であっても、普通なら自由に遊び回っている年頃だ。彼女がそうしたいと言ったら、夫でもない孝一には拒むことはできない。
――真白がいない、生活。
孝一はそれを想像しようとして、眉をしかめる。
高校を卒業してからおよそ十五年。ほぼ人生の半分を、独り暮らししてきたことになる。それは気楽で彼自身気に入っていた生活だった。
それなのに、今は、独りで夕食を摂る場面すら思い浮かべることができない。
金銭的な面では、孝一は真白を養っている。
けれど、それ以外の面では、孝一は完全に真白に依存している。たとえたった一晩のことでも、彼女がいない生活など、もう想像すらできないのだ。
自分がこんなふうになるとは、孝一は夢にも思わなかった。
けれど、実際になってしまった。
「やれやれだ」
ため息混じりに、孝一は呟く。
と、唐突に、目の前に真白の顔が現れた。
その距離三十センチほどか。
てっきり孝一のことなど気にも留めずにフラフラ好き勝手にうろついていると思っていた彼女の行動に、思わず顎を引く。
「なんだ?」
欲しい物が見つかったのか、何か食べたい物でもあるのか。
とにかく、何か具体的な要求があるのだろう。
そうでなければ、戻って来やしない。
そう思って袂に手を突っ込んで財布を取り出そうとした孝一のその手は、真白に止められた。
「コウ、遅い」
「え?」
「はぐれたかと思った」
心持ち唇を尖らせた真白が、言いながら、彼と手のひらを重ね合わせてきた。
子ども同士が手をつなぐ時のように、触れ合っているのは、その手のひらだけ。
ただそれだけだというのに、孝一の胸が詰まった。
「コウ、どうかした?」
まじまじとつないだ手を見つめている孝一に、真白が怪訝そうに首をかしげる。
真白自身は、自分がどれほど変わってきているのか、気付いていないのだろう。
彼は指を組み合わせるように手をつなぎ直す。
少し前の真白なら、離れてしまった彼女が自分から孝一の所に戻ってくるなど、しなかった。
少し前の真白なら、こんなふうに自然に彼女の方から手をつないでくるなど、できなかった。
それらは、些細な変化だ。
けれど、貴重な変化だった。
確実に、真白の中では孝一が『特別』な存在になってきている。
それは、孝一が真白を特別に想っている気持ちの強さほどではないのだろうけれど。
立ち止まったままの彼を見上げてくる真白の眼差しには、打算も駆け引きもおもねる色も無い。
時たま、もっと媚びてくれないかと思うことがある。
もっとわたしを好きになって、とか、孝一の気持ちをねだるような態度を取ってくれないだろうかと。
彼の方は、常にもっと真白の気持ちが欲しいと思ってしまっているのに、全然釣り合いが取れていない。想いの重さを天秤にかけたら、余裕で孝一の方が勝ってしまうに違いない。
(頼むから、早いとこ追い付いてきてくれ)
「……疲れてる? 宿に戻る?」
思わずため息をこぼした孝一に、真白の目が心配そうに曇った。
「宿には戻りたいが、疲れちゃいない」
「人、多いもんね」
常日頃、人混みが嫌いだと公言している孝一に気遣って、真白が首をかしげて辺りを見回した。
「もう帰ろっか」
「……いいよ。お前はまだ見て回りたいんだろ?」
戻って二人きりになったら何をしたいと彼が思っているのか、真白には全然解かっていないに違いない。
孝一はふとつないだ手を持ち上げ、彼の指の付け根から覗いている小さな桜色の爪の一つにキスをした。最後に触れた小指には、ちょっと舌の先を這わせる。
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