捨て猫を拾った日

トウリン

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愛猫日記

彼女のコウゲキ彼のロウバイ②

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 しばらく散策を続けてから宿に戻った二人を待っていたのは、海の幸山の幸をふんだんに使った料理だった。
 普段、『作る側』の真白ましろは豪勢なコース料理に感心しきりで、孝一こういちは何度彼女の「おいしい」を耳にしたか、覚えていない。
 取り敢えず彼女には大満足だったようで、宿代はそれなりにかかったが、その甲斐があったというものだ。

 食事の膳も片付けられ、そろそろ腹も少しこなれてきた感じだ。

「風呂、入るか?」
 縁側に置かれた椅子に座って中庭を眺めていた真白に、孝一は声をかける。

 部屋には内湯があって、温泉が引き込まれている。家の風呂よりも倍以上広くて、二人で入ってもゆったりと身体を伸ばせるほどだ。
 この温泉街には七つの外湯があって、宿泊客はどの湯にも自由に入ることができる。散歩の途中でそのいくつかは楽しんできたが、まだ内湯は入っていない。
 露天風呂でそれぞれ趣向の違う外湯も気持ちは良かったが、当然、真白とは別々で、湯に浸かりながらも彼女を腕の中に感じたくて孝一は気もそぞろだった。

「もう腹も苦しくないだろ?」
「そうだね。入りたい」
 真白は頷いていそいそと旅行鞄の方へと向かう。
 彼女には、髪を上げたりなんだりと準備があるだろう。
「先に行ってるから」
「わかった」
 肩越しに振り返った真白に小さな笑みを返し、孝一は浴衣の帯を解きながら浴室に向かう。

 中は結構広い。
 ヒノキの湯船には湯が満ちていて、孝一が何度か掛け湯で使っても、彼が身体を沈めるとザバリと勢いよく溢れ出した。

 湯船の縁に両肘を置いて背中を預けた孝一は、深く息を吸いながら天井を仰ぐ。
「そう言えば、旅行らしい旅行は初めてか」
 改めてそのことに気付いて、彼は呟いた。

 両親ともに多忙な彼は、家族旅行というものは経験したことが無い。友人がいないわけではないが、丸一日以上一緒にいたいと思えるほどの者はいない。だからと言って一人旅をしたいと思った事もないし、旅行といえば、修学旅行か社員旅行くらいだった。
 社員旅行も、確か温泉だった。けれど、孝一は楽しいと思った記憶はない。仕事の一環、義務として参加しただけだ。むしろ、めんどくさいとか、うっとうしいとか。温泉でも大浴場に入るのは嫌で、部屋の中のシャワーを使っただけだった。
 今回の旅行も、孝一が来たかったというよりも、真白を連れてきたかったという気持ちからだったのだが、予想外に寛ぎ、楽しんでいる自分がいることは否定できない。

 人間、変われば変わるものだ。
 そんなふうに胸の中で呟いて小さく笑ったところで、浴室の引き戸が静かに開けられた。

 現れた真白は、タオルを巻いている。旅館が用意してくれたもので、湯船にも入れていいと言われているものだが。

 タオルが落ちないように押さえてどことなく恥ずかしげにしている彼女に、孝一は眉をひそめた。
「そんなの要らないだろ」
 家でだって、風呂にはしょっちゅう一緒に入っている。リビングで孝一が彼女の服を剥いでそのまま抱き上げて連れて行くことだってある。

 今更隠す必要なんて、みじんもあるまいに。

 真白は浴室の熱さのせいだけではないだろう理由で顔を赤くする。
「いいの。……見てないで」
 唇を尖らせてそんなことを言われたらイジッてやりたくなる。
「なんで」
「なんでって……」
「お前の身体なんて、お前が自分じゃ見えないような所まで、俺はもう見ちまってるんだぜ? そりゃもう、隅から隅まで。今更隠したって意味ないだろうが」
 期待した通り、気を失うほどのぼせてもそれほど赤くならないだろう、というほどに真白の白い身体が真っ赤になる。

「意味なくないの!」

 そう言いつつも、湯船の傍にしゃがみこんだ真白はタオルを外し、少しでも孝一の目から逃れようとしているのか、横を向いたまま身体に湯をかけ始めた。彼は、その一挙手一投足を、ニヤニヤしながら眺め続ける。
 真白はそんな彼をキッと睨み、やっぱり横向きのまま湯船に入った。

 そうしてその場から動こうとしない彼女に、孝一は手招きする。
「こっち来いよ」
 少し上目遣いの、警戒するような真白の眼差し。
 だが、恥ずかしがろうが拗ねていようが、結局彼女も孝一の傍にいたいのだ。

 波すら立たないほどにそろそろと隣にやってきた真白を、孝一は自分の脚の間に引き入れた。平らな腹に両手を置いて引き寄せると、彼女は一瞬身体を強張らせてから彼に背中を預けてくる。
 視線を下げれば、髪を上げて剥き出しになっている細くて白い首筋が目に入った。孝一は首をかしげてそこに軽く歯を立てる。同時に、彼女の腹にあった右手を下の方に、左手を上の方に、這わせていく。

 が。

「うわっ!」

 バシャンと勢いよく顔にはねかかってきた湯に、孝一は思わず頭を振る。
 一瞬後には孝一の腕の中から真白の身体は消えていて、彼が片手で顔の湯を拭った時には、彼女は湯船の反対側の縁に背中をピタリと押し付けていた。

「何するの」
 真白の目にあるのは、咎める色だ。
「何って……」

(ナニに決まってるだろうが)

 恋人同士が温泉に来て部屋に風呂があったらやることは決まっているではないか。
 と、彼のその心の声が聞こえたかのように、真白が言う。

「ここは外でしょ」
「え?」
 真白の台詞に、孝一は眉をひそめる。
 いや、ちゃんと屋内だ。そこら辺は真白の事を考えて、露天風呂ではない方にしたのだ。
「何で外なんだよ、屋根も壁もあるだろ?」
 孝一が眉間にしわを寄せてそう答えると、真白はふるふると首を振る。
「ここは外だもの。ウチじゃないからイヤ」
「ウチって……」
 そう言われて、彼はようやく「ああ」と思い至る。そして、つい、口が緩んでしまった。

「何で笑うの」
 にやにやと、多分締まらない顔をしているであろう孝一に、真白がムッと顔をしかめる。
「嬉しいからに決まってるだろ」
「……なんで?」
 憤懣に代わって真白の顔に浮かんだのは、困惑だ。
 本人に自覚がないということが、何となくまた彼を嬉しくさせる。

 意識する必要がないほど自然に、真白にとって、あの部屋が『家』であり、寛げる場所になっているのだ。

 孝一に抱かれると、真白は我を失って全てを曝け出してしまう。
 甘えて、ねだって、懇願して。
 外では決して見せない姿を、彼と暮らしているあの部屋の中でなら、見せてくれる――あの部屋の中でだけ、彼にだけ、見せてくれる。

「まったく、お前は……」
 クスクスと笑う孝一をいぶかしげな眼差しで見つめている真白は、無防備だった。

 孝一はヒョイと手を伸ばして彼女の二の腕を掴むと、再び自分の胸へと引き寄せた。そうして、逃げられないように彼女のウェストに腕をまわす。
「コウ!」
「何もしないから、おとなしくしてろよ」
「でも……」
 気まずげにつぶやいて、真白が腰をずらそうとする。彼女が何から逃れようとしているのかは、彼も充分に承知していた。

「コレは仕方がないだろ。裸のお前を見て反応するなってのが無理な話なんだから。勘弁してくれ」
 そう言って、いっそうきつく真白を引き寄せた。彼女の背中が孝一の胸にピタリと重なって、体温が混じる。

 小指一つ動かすことなくしばらくそうしていると、孝一が何もしようとしないのが判ってきたのか、ふと真白の身体から力が抜けた。完全に彼の胸に寄り掛かってきている。

 それは、真白の、孝一に対する信頼の証のようなものだ。

 真白に対する欲望を露わにしていても、彼女がイヤと言えば孝一は手を出さないと答える。彼女はその返事を疑わない。それは、孝一のことを信じてくれているからなのだ。

 人生の初っ端に親という絶対の庇護者から見放されてしまった真白にとって、誰かを信じるということはどれほど難しいことだろう。
 多分、まだ、彼女の心の奥底には硬い殻を被ったままの場所がある。
 いつか、それも取り払われた時、本当の意味で真白の全てを手に入れたことになるのだ。
 一人の人間を、ほんのわずかな陰りも残さず隅から隅まで自分のものにしたいというのは、無茶な話なのかもしれない。

 真白の腹の上に置いていた手を少し上にずらすと、トクトクと一定のリズムを刻む鼓動が手のひらに伝わってきた。
 それを感じながら、孝一は彼女が今こうして彼の腕の中にいることに幸せを感じる。

 真白が彼といるのは、詰まるところ、彼女が親に捨てられた結果だ。
 当然のように得られたはずの平凡で幸せな生活を真白に与えようとしなかった彼女の親には、今でも強い憤りを覚える。
 けれど、真白がごく普通の家庭で育っていれば、孝一と出会うことはなかったのだ。もしもたまたま道ですれ違うことがあったとしても、真白は孝一のことなどなんとも思わずにそのまま別々に生きていったことだろう。

「コウ?」
 湯に入っているにも拘らず、底冷えする思いから身震いをした孝一に、真白が肩越しに振り返った。
「どうしたの?」
 彼の腕の中で向きを変えようとした真白をきつく抱き締めて、孝一は彼女の肩に額を押し付けた。

 真白といると、孝一は愛おしいと感じる。愛おしくて、自分だけのものにしたくてたまらない。真白の世界に住む者が、彼一人であって欲しいと思う。
 いつも、これ以上強い想いを抱くことはないだろうなと思うのに、そう想う度、それは一層強まっていく。

(この気持ちに天井はあるのだろうか)

 このまま強くなり続けていたら、いつか本当に、彼女のことを頭からバリバリと食べてしまいたくなってしまいそうだ。
 そんな自分が、孝一は怖くなる。
 と、ふと、彼は自分の身体に起きている変化に気が付いた。
 いつもなら、こんなふうに真白に触れていれば孝一の身体の興奮は高まる一方だ。放っておいて鎮まることなど、まず有り得ない。しかし、不思議なもので、彼女が本心から拒んでいるのを彼の身体が感じ取っているのか、硬くなっていたその部分は、いつの間にかほぐれていた。

 真白に対してだけは、孝一も聖人になれるのかもしれない。
 どんなに愛おしくて大事にしたくて独占したくても、彼女を傷付けるようなことは、しない――絶対にできないのかもしれない。

 それは、半ば本能のようなもので。

 真白を奪い尽くしたいという本能と相反する、彼女を何モノからも守りたいという、本能。

(そうだと、いい)

 孝一は小さくため息をつき、真白にしっかりと巻き付けていた腕を緩め、両手のひらを広げて彼女の腹の辺りに押し当てた。そうして、愛撫するのではなく慈しむように、そっと滑らかな肌を辿る。

 抵抗は、ない。
 もしかして眠ってしまったのかと思うほど、真白はリラックスしている。「何もしない」という孝一の言葉を、完全に信じきっているのだ。
 信頼されているのは嬉しいが――この状況でそこまで安心されるのも、何となく癪に障った。

 孝一は顔を上げて、そっと彼女の耳の後ろに口付けた。身じろぎをしたところを見ると、眠ってはいないらしい。
「ここでは何もしないが、家に帰ったらその分発散させてもらうからな」
 すぐ傍にある柔らかな耳朶に、噛んだらきっとまた逃げられるだろうから、触れるだけのキスをする。

「覚えてろよ?」

 紅色に染まった耳に向かってそう囁くと、彼の顎の下にある肩が、ビクンと跳ねた。
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