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2巻

2-3

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 教会に辿り着いて数時間で、保護認定を受けたマグナは、翌日には神殿長と男爵領の問題についての話をするための面談をしていた。この場には、不安そうにしていたマグナのため、仕方なくやって来たフィルズもいる。副神官長であるジラルも同席していた。
 早速、マグナが持ち出して来たという彼の父の不正の証拠となる書類や、彼の母や男爵家に付き合いのあった者達の横暴な行いについての証言や念書を、神殿長が確認する。

「なるほど……これは確かに、確実な証拠となるのが揃っていますね。よく集めたものです」
「っ……」

 神殿長が証拠と認めた。それを見て、マグナはほっとしたようだ。まさに命懸けで持ち出して来たものなのだから、当然だろう。そして、思い出したというように、マグナは顔を上げる。

「あ、そ、それともう一つ。家から出てくる時に、父が執務室で怒鳴っているのを聞いたんです。謝礼が少ないと……その、魔寄まよせまで用意したのに、といったことを」
「「「っ‼」」」

 これには神殿長だけでなく、ジラルやフィルズも身を乗り出すようにしてはっとする。
 神殿長は少し考えた後、フィルズへ目を向けた。

「魔寄せ……彼が出てきたのは五日ほど前でしたか。それなら……」
「ああ。それも、あれは男爵領から来たものだったと考えれば……」

 思い当たったのは、第三王子リュブランの騎士団との出会いの一件。二人で頷き合う。
 魔寄せとは、魔獣の好むにおいを出すこうのこと。五日前、何者かが仕掛けた魔寄せにより、公爵領にはオーガの群れが襲来した。その時最初に対処したのが、偶然近くにいた第三王子リュブランがひきいる騎士団であった。
 応援に駆けつけたフィルズや冒険者達の活躍によって事なきを得たが、かなりの大事件である。

「あ、あの……?」

 不安そうなマグナに、心配ないと神殿長はニコリと微笑んで見せた。

「ありがとうございます。これで狙いが定まりました。ただ……これによって君の家は恐らく……」
「構いません! あんな家はなくなるべきです。私も……もう貴族には戻りたくないです」

 昨日マグナは、この安全な教会で一晩を過ごした。その時に、同じく教会に保護されたリュブラン達とも会っている。彼らとも話し、それを決意した。覚悟は既に決まっている。

「分かりました。教会は君の望む道を応援します。ただし、一度この国の上の方とは話をしなくてはなりません。貴族家がなくなるというのは、そこに住む者達にとっても、大なり小なり変化をもたらします。ただの代替わりとは違いますからね」

 世代が替わるだけならば、それまでやってきた政策などの引き継ぎがなされやすい。だが、今回は恐らく、男爵家自体がなくなるのだ。領地の全てがゼロになるようなもの。これには、住民達も無関係ではいられないだろう。

「君の貴族という身分は凍結とうけつです。もちろん、無理に国へ引き渡すことはしません。あくまで、道を残しておくだけです」
「……はい……ありがとうございます。それと、男爵領のこと……お願いいたしますっ」
「もちろんです」

 深々と頭を下げたマグナが、ジラルと共に部屋を出て行くのを見送る。しかし、フィルズは残された。理由は分かっている。

「さて、フィル君。すぐに冒険者ギルドへ男爵領調査の依頼を出します。依頼書を持って行ってもらえますか?」

 フィルズもそのつもりだったので、ソファに片膝を行儀悪く乗せて座り、背もたれに片肘を突いて、執務机に紙を用意する神殿長を見る。

「ああ。すぐに動いた方が良さそうだしな。そのまま、男爵領の冒険者ギルドにも飛んでやるよ」

 フィルズは上級冒険者となったとはいえ、今回の調査依頼には参加できない。経験も実績もないのだから当然だ。だが、心配はいらない。男爵領のギルドにはその時を待っているのだろう、もっと上の冒険者が詰めていたのを確認している。すぐに動いてくれるはずだ。

「助かります」
「気にすんな。あそこの状態をどうにかしないと、また子どもを拾ってくることになりそうだからな」

 フィルズが動く理由もある。あのままでは、エン達にも影響があるのだ。
 神殿長は依頼書を書きながら、話を続ける。

「男爵を押さえるとなると、あの領はこの公爵領へ取り込まれるでしょうね」

 男爵領は辺境伯領にも接しているが、そちらに取り込まれるとは神殿長は思っていないらしい。
 フィルズもその見立てには同感だった。

「ああ……辺境伯は頼まれても断るだろうからな。ところで、あの領境のある森も嫌々受け取ったって聞いたけど、本当なのか」
「まともに運営している方ほど、多くの領地は望まないものです。辺境伯はただでさえ国境の守りという使命がありますからね。領地が増えても目が届かないと言って嫌がるでしょう」

 辺境伯の治める領地の広さは、この公爵領とそれほど変わらない。辺境と呼ぶに相応ふさわしく、他国の国境と同じく、広大な森とも面している。その森は『不可侵ふかしんの森』との名を持つ未開の地。何年かに一度は、そこから魔獣や魔物が溢れる。
 隣り合う国は軍事大国で『不可侵の森』の所有権を主張し続け、開拓かいたくしようとしているらしい。その度に魔獣達の返り討ちに遭っており、それが外には知られていないと思っているという。
 これにより、森から魔獣達が辺境伯領の方へやってくることもあった。はたから見れば『頭おかしいんじゃない?』と言いたくなる。そんな国だからこそ、少しでも隙を見せれば、この国にも侵攻してくる。
 そんな領を治めているのだ。男爵のせいで荒れた旨味も何もない土地を押し付けられるなんてことになれば黙っていないだろう。辺境伯は、はっきりとモノを言う人だという。実際に攻めてきた隣国に直接『お前ら頭おかしいだろ』と言い、『土地より金をくれ』と国王に言うような人らしい。
 神殿長の、男爵領が辺境伯領ではなく公爵領に取り込まれるだろうという予想は、こんな事情も知っているからこそのものだった。

「国としても、辺境伯に愛想あいそを尽かされたら困るでしょうしね」
「評判良いもんな。辺境伯」

 フィルズは、冒険者として活動する中で、何度か辺境伯領にも行っている。そのため、住民や冒険者からの辺境伯の人気は高いと知っていた。

「おや。会ったことありませんか?」
「いや、辺境伯だろ? 会えるわけねえじゃん」

 神殿長はなぜか、逆に何で会ったことないんだと言わんばかりの顔をしていた。

「そうでもないですよ? あの問題児は耳聡みみざといですから、フィル君のことを気に入りそうですし、食事だなんだと理由をつけて会いに来てると思っていたんですけどねえ」
「……会いに……まさか……」

 思い当たる人物が一人いることに、フィルズは気付く。

「……めんどくせえオヤジが一人……左右の瞳の色の濃さが違う……大剣二本使う奴」
「それです」
「……マジか……」

 特定された。

「ふふふっ。その感じだと、相変わらず元気そうですね」
「ああ……」

 森の方で何かあれば、冒険者達を引き連れて、飛び出していくような人だった。冒険者達と食事し、酒を飲んで騒ぐ。面倒見も良く、どちからと言えばお節介。どこからどう見ても気のいい冒険者にしか見えなかった。それが領主などと予想できるはずがない。その上、明らかに領主ではあり得ないと思うこともあった。

「あ? けど、あいつ、夫婦で冒険者みたいだったが?」
「それは当然ですよ。彼は婿養子むこようしですし、その力を認められて結婚しましたから」
「どんな夫婦だよ……」

 領主が夫婦揃って、戦場に飛び出していくというのは普通ではない。

「まあまあ。そういう夫婦もいますよ」
「……そういうもんなのか……?」

 夫婦というものがよく分からなくなった。

「それより、忙しくなりますよフィル君。とりあえず、商会を早くつくってくださいね」
「……分かった……」

 男爵領の者達も受け入れることになれば、はっきり言って、共倒れになってもおかしくない。この公爵領には、今の男爵領の人々をやしなえるほどの余力はないだろう。
 やることが沢山ありそうだとため息を吐くフィルズ。一方、神殿長は書類に最後のサインを入れながらつぶやいた。

「……そろそろ公爵にもきちんと向き合ってもらわないといけませんしね……」

 男爵の処分が決まる頃には、この領の状況も変わっているだろう。神に愛されるフィルズやクラルスによって、変化は既に始まっている。
 フィルズにとってはただの趣味で、欲しい物を作っているだけ。物作りしているのも、その儲けによって、母のクラルスも連れて家から出て行くための準備の一環でしかなかったはずだ。
 しかし、幸運にもそれらは神の思惑おもわく通り、ゆっくりと確実に世界に広まり、変化をもたらしていくことになるのだ。



 ミッション② 新しい家への引っ越し



 ここは、王都にある王宮に用意された宰相さいしょうの執務室。そこで書類にまみれながら、部屋の主はわずかな仮眠から目を覚ます。

「っ……じかん……っ」

 金色の髪はしばらく切っていないため長く、適当にひもくくっている。切れ長の目は翡翠色ひすいいろだ。昔から美男子と有名だが、仕事や勉強以外、本人はどうでも良く、モテるモテないというのは意識していない。表情もあまり変わることがないことと、口数が少ないことで、友人や知人には様々な誤解を受けることが多々ある。
 ノビをしながら真っ先に確認するのは、部屋の壁にかかる大きな時計。王宮にあるのは、振り子時計だ。音が気になる時もある。時折止まったりズレたりするため手はかかるが、それが当たり前なので面倒だと思う者もいなかった。
 時間は昼の一時。一時間は眠れたようだと息を吐く。ここ数日は特に忙しくしていたため、仮眠、仮眠で何とか耐えてきた。その原因は、ケルミート男爵家だ。

「……早くこちらの処理を終えないと……」

 教会から警告が入り、調査の入った男爵家の内情は酷いものだった。問題ありと確信を持った教会は、徹底的に調査する。どれだけ巧妙こうみょうに隠したとしても、その背後関係も繋がりも明らかにされてしまうのだ。
 だから、本来、国は教会の手が入る前に気付かなくてはならない。そうでなくては、今回のように不正をしていた貴族達がいもづる式に捕まってしまう。これにより、各所で仕事がとどこおることになる。
 最もそのあおりを受けるのが、宰相というわけだ。宰相府と呼ぶ国政の中枢ちゅうすうを担う機関は、ここ数日、前にも増して多忙を極めていた。
 ジンジンと頭に血がめぐる感覚をやり過ごしながら、横になっていたソファから上体を起こすと、それを見計らったように、軽いノックの音と同時に部屋へ入って来る者があった。

「リゼン、入るわよ~。おはよって、今昼過ぎだけど、生きてる?」
「……ラスタ……」

 宰相位にいているリゼンフィア・ラト・エントラールは、迷惑だという思いを込めて、この男をにらんだ。
 リゼンフィアがラスタと呼んだのは、細身の男性。だが、声も高めで言葉遣いも女性のようなものが常だ。年齢はリゼンフィアと同じ四十。
 ラスタリュート・ハルディアは、王都にある一つの騎士団の団長をつとめている。現在のエントラール領都の騎士団長であるヴィランズの後任だ。
 ハルディア伯爵家はくしゃくけの次男で、薄茶色の長い髪をみにし、一見して女性のように見える。顔も小さく、濃い青の瞳はいつでも好奇心いっぱいに輝いている。
 学園入学当初は、気持ち悪いとか男なのに情けないとか散々言われていたが、剣の腕で全てを蹴散けちらした。これにより、親でも何も言えなくなってしまったらしい。騎士団長になったことで、更に陰口も減ったと笑っていた。誰にでも人当たりが良く、男性にも女性にも人気がある。そして、面倒見が良かった。

「ほら、昼ごはん。またアレでしょ? 食事より寝る方を取ったんでしょう?」
「……いらん……」

 二人は学生の頃からの腐れ縁だ。相手のことをよく分かっている。

「あんたはホント、勉強はできるのにおバカよねえ。ご飯食べないと、寝たとしても上手く頭回らなくなるのよ? これ、お祖父じい様の言葉」
「っ……スラザ殿の言葉なら確かか……」
「なんでそんな悔しそうなのよっ」

 常に刻まれてしまった眉間みけんしわが、更に深く多くなる。このお気楽な男の言葉ならば鼻で笑って聞いた振りで流してやるが、古代から続く医学研究者の権威けんいである彼の祖父の言葉ならば、素直に聞くしかない。
 重い頭を支えながら起き上がるリゼンフィアを見て、良しと頷いたラスタリュートは、腰に付けたマジックバッグから、水筒のようなものと、小さなバスケットを取り出した。バスケットの中身は布に包まれて分からないが、ほのかにこうばしい良い匂いがする。
 ラスタリュートは、勝手知ったる様子で、部屋の隅に追いやられていた小さなテーブルの上にそれらを置き、そのまま引っ張ってくる。

「これ、男爵領からの帰り道で買ってきたのよ」

 男爵領の教会へ、ラスタリュートが親書しんしょを届けに行っていたのは、リゼンフィアも知っている。
 彼がニヤニヤと笑いながらバスケットにかかった布を取ると、中にはふっくらした見た目の何かがあった。

「……なんだこれ……」
「ふふっ。パンよ。食べてみなさいな」
「……」

 匂いのせいか、急に空腹を感じて思わずソレを手に取るリゼンフィア。朝食も、硬いパンを一欠片かけら、スープと共に流し込んだだけだったのだから、お腹が空いているのは当たり前だ。
 パンと言われて手に持ったが、驚くほど柔らかい。そして、まんで千切ちぎれば、ねばりもあり、くるりと外側の茶色い部分がめくれた。

「っ、なんだこれ……」
「あはっ。そればっかりっ。いいから、食べてみなさいって。また同じこと言っちゃうから」
「……っ」

 口に入れると、甘味を感じた。そして、今までのパンとは違い、食べ応えがある。この世界のパンは硬く、スープにひたして食べるのが常識だ。だから、思わず二口目、三口目と食べて、ゆっくりと口の中に広がった香りを吐き出すように呟く。


「っ……なんだこれ……」
「ねっ? ホント、なんだこれでしょ? そっちのパンも普通と違うのよ」
「……どこの店の……」
「あんたんとこの領のパン屋」
「……は?」

 寝不足のためか、疲れからか、リゼンフィアには、今の言葉が認識できなかった。

「あなたのとこの領都にあるパン屋よ。一部みたいだけど。それと、なんか凄いの建ててたわよ? 新しい商会の建物だって聞いたけど、あなたの屋敷より立派かも」
「……なんだって……?」

 全く頭に入ってこない。頭を抱えるリゼンフィア。そんな話は今まで聞いたことがなかったのだ。商会ならば、商会長が顔繋ぎのためにも挨拶あいさつに来るはず。しかし、そんな連絡も来ていない。
 この反応に、ラスタリュートは呆れた顔を見せる。

「思ったけど、やっぱあなたのとこの代官、変じゃない? 今回、せっかくだしヴィランズ団長に会って聞いたんだけど、あなた、騎士にも評判悪いわよ?」
「……何の話だ……」
「まず、確認っ。この前、第三王子の一件の時に、第一夫人のあのワガママ女には会った?」
「……会ったが?」

 グッと眉根が寄るのは仕方がない。話がほとんど通じない妻に、リゼンフィアは苦手意識を持っている。それは婚約者として紹介された当初から変わらない。
 第一夫人のミリアリアは、侯爵令嬢こうしゃくれいじょうだ。自分の要求が通らないことはないと思って生きてきた人種。そのため、夫であるリゼンフィアも、自分に尽くして当たり前だと思っている。自分が彼を好きなのだから、リゼンフィアも自分を好きなのだと当たり前のように思っているらしい。
 だから、第二夫人としてクラルスを迎えた時、彼女の怒りが爆発した。貴族家の当主に、妻一人だけということの方がまれだ。その時は何とかなだめたが、彼女の気に入らないという顔は、今でもありありと思い出せる。あまりにもその顔が不快で、領に戻っても、義務のように一目だけ見て、すぐに執務室に引っ込むことにしていた。

「じゃあ、息子には?」
「……セルジュには会った……」

 以前、娘のエルセリアを見た時、出会った頃のミリアリアそっくりだと思った。まだ十にもならない子どもが、自分の要求は通って当たり前という顔をしていたのだ。驚愕きょうがくと共にゾッとした。この間戻った時も、ミリアリアと並んでいるのを見て、すぐに仕事に集中することに決めたほどだ。
 そんな事情も見透みすかすように、ラスタリュートは半笑いで頬杖ほおづえを突く。

「それなら、第二夫人やその息子は?」
「……クラルスとフィルズなら、ずっとせっていると報告が……だから近付いていない」

 この世界では、医療いりょうに関する知識がかたよっている面がある。『病に倒れた者の側にいると、同じ症状が出るから、近付いてはいけない』ことになっているし、『看病かんびょうのための世話係しか部屋に入ってはいけない』というのが常識だ。特に、『当主や跡取りは、近付いてはいけない』と言われていた。

「それ、ずっとよね? 世話してる奴らも、同じように寝込んでる?」
「かなり交代が激しいと報告がある」
「その理由、病気が感染うつったから?」
「……それは……」

 メイドの解任の報告が何度も来ていたため、そこに疑問を抱いたことがなかった。

「確認はしてないと?」
「……」
「はあ……あなたねえ。昔からそういうとこあるわよね……仕事ではどこまでも確認作業欠かさないのに、なんで身内とかはそうなの?」
「っ、信頼しているんだ……」
「甘えてんのよっ。その信頼する相手もね……」

 信じられないと、更に呆れた表情になるラスタリュートから、気まずげにリゼンフィアは目をらした。自覚はあるのだ。代官や執事しつじであるカナルに任せ切りにし過ぎだと。

「リゼン。あなた、次男が七歳の時に祝福の儀を受けてないこと、知らないでしょう」
「っ、え……祝福の……なに……っ?」
「神殿長がこの前やっと無理やり受けさせたって言ってたわ。カナルに確認したら、あなたが戦争の処理で帰れなかったところに、第一夫人がクラルスちゃんに薬を盛って動けなくしたんですって。それで、フィルズ君はねて受けなかったらしいわ」
「……なっ……そ、そんなこと……っ、カナルに……っ」

 執事であるカナルから報告を受けていない。そう口にしたくても、上手く口が回らない。体が一気に冷えていく感覚がリゼンフィアを襲っていた。そんなことには構わず、ラスタリュートは、もう一つ出した水筒を開けて続けた。お茶のいい匂いがただよう。

「フィルズ君に口止めされたみたいね。あなたへのせめてもの抗議だわ。『自立できたら、母さんと出てく』って、ヴィランズ団長に言ってるらしいわよ。家も買ったんですって」
「……か、買った?」

 ここでまた思考がついていけなくなっていた。

 ◆ ◆ ◆

 先日、エントラール公爵の第一子である息子のセルジュから贈られた枕カバーを使用した第一夫人のミリアリアは、その日から三日間眠り続けた。その枕カバーには、クラルスの加護刺繍が施されていたのだ。
 ヒステリックなミリアリアにと、クラルスは【精神安定】の加護刺繍をノリノリで施した。息子のセルジュも、彼女のヒステリーにはうんざりしていたのだ。目を覚ました彼女は、それからぼうっとする時間が増えた。一部の使用人達は、穏やかになったと喜んでいる。
 これを心配したのは、公爵領の代官であるジェスだ。彼はかつて、ミリアリアの従僕じゅうぼくだった。しかし、ミリアリアの父にその能力を買われ、彼女の従僕でありながらも学園に所属し、その後も十分な教育を受けたことで、ミリアリアが結婚して数年後、代官として任命されたのだ。

「お嬢様っ……これは、まさかっ、毒なのではっ……」

 ジェスにとっては、ミリアリアの気性が荒いことの方が当たり前だった。彼にとっては、気高い貴族令嬢の模範もはんが彼女だったのだ。ままで当たり前。それこそが、貴族令嬢にだけは許されたものだと思ってきた。

「あら、ジェスではないの。どうかしたの?」
「え、あ……いえ……ご、ご気分はお悪くありませんか?」
「ええ。問題ないわよ?」

 かつて、こんなにも穏やかな様子のミリアリアを見たことはない。窓辺に座り、本を読むなんて、願っても見られる光景ではなかった。

「そ、そうですか……いえ、それならば良いのです。何かありましたら、どうぞ、いつでもお呼びください」
「ええ。あなたにはいつも感謝しているわ」
「っ、はいっ」

 感謝するなど、今まで一度も言われたこともないし、誰かに言っているところも見たことがない。喜びと戸惑とまどい。高鳴る鼓動を感じながらも、ゆっくりと部屋をする。
 彼女が結婚し、子どもを産んだ後も気高い貴族令嬢の気性のままであることが、ジェスの目には更にとうとく、美しく映っていた。それは信仰しんこうにも似た想いだ。そこにあるのは決して、恋愛感情ではない。
 何かの病気であったら問題だと、ほとんどの者は今のミリアリアに近付かない。よって、部屋に控えている侍女の数も、普段よりはるかに少なかった。
 そんな中、原因が分かっているセルジュは別だ。この時もミリアリアの様子を見に、セルジュが部屋を訪れる。そこで、部屋を出ようとしていたジェスと鉢合はちあわせしたのだ。

「ジェス殿か」
「セルジュ坊ちゃま……」

 ジェスはミリアリアの子であるセルジュも嫌ってはいない。しかし、学園の頃一度もテストや実力で勝てなかったリゼンフィアの優秀さを受け継いでいるセルジュを見ると、少しばかり腰が引けるようだ。

「丁度良かった。父上へ手紙を送りたいのだ。頼めるか?」

 リゼンフィアは、ほとんど王宮に泊まり込んでいるため、王都別邸に手紙を送るより、代官からの報告書と共に送った方が確実に届く。よって、この家からリゼンフィアに送られる手紙は、全て代官であるジェスがまとめて送っていた。

「あ、はい……あの……お嬢っ、ミリアリア様は……」
「ああ、心配は要らない。神殿長にもていただいた。特に体におかしなところはないそうだ」
「神殿長が……ですがっ」
「信用ならないとでも?」
「い、いいえっ。分かりました。ただ、こちらからも公爵様にミリアリア様のことをご報告いたしますっ」
「ああ、それは構わない。もう帰るか? できれば手紙を持って行って欲しい。下でお茶でもして待っていてくれ」
「承知しました」

 その後、ジェスはセルジュからリゼンフィアへの手紙を受け取り、代官屋敷へと戻った。そして、ミリアリアの様子を書いた報告書と一緒に、王宮へと送ったのだ。そのセルジュの手紙に、いつもはジェスが抜き取るフィルズの手紙が入っているとも知らずに。


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