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第6話 たった一つの彼女
たった一つの彼女 その2
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研究室にいるみんなは、それぞれ心にちょっとした傷跡を持っています。子どもの時に付いた傷が、カサブタになって剥がれても消えずに残ってしまっているのでしょう。
たとえば、江村さんは背が小さくて幼い顔つきのせいで、周囲からからかわれて育ったそうです。鹿間さんは女性が好きで、その事で一時期大いに悩んだと言っていました。水島さんは昔からかわいいものが大好きですが、「男らしく」と育てようとした親からずいぶん責められたそうです。大藪さんは生まれつき身体が弱く、高校生になるまでは人生の大半をベッドの上で過ごしたと語ってくれました。
私も、小学生のころはちょっと虐められていました。引っ込み思案で、根が暗くて、本ばかり読んでいて、あまり笑わない子だったからでしょう。右頬の傷もその時のものです。男子が振り回した大きな三角定規の先端が、たまたまぶつかりました。熱くて、痛くて、ぬるぬるとしたものが頬から流れたことをよく覚えています。頬の傷のおかげでいじめは無くなりましたが、代わりに人から避けられるようになりました。
そんな私達だからこそ、『ISY』という発想に至ったんだと思います。患者のトラウマに対して与えた別のストーリーを共に追体験して、自分の過去を肯定的に受け入れる手助けをしてくれる〝素敵な友達〟という発想に。
『ISY』は、心に傷跡のある人達のために作りました。でも、いま私が伊瀬冬くんを助けたいと思っているのは、申し訳ないのですが『ISY』を必要としている人達のためではないのです。つまりは、ただのわがままなのです。
大切な人を助けたいという、身勝手な願いのせいなのです。
〇
翌日。研究室へ行くと水島さんと大藪さんがパソコンに向かって作業していました。部屋に入った時にちらりと見えてしまったのですが、どうやらふたりは架空環境をデザインしていたようです。私が「おはようございます」と声をかけると、ふたりは作業を止めて「おはよう」と挨拶を返してくれました。
「少しは眠れたかい?」と大藪さんは心配そうに言ってくれました。「はい、なんとか」と答えた私は自分の席に着きます。
「おふたり共。伊瀬冬くんの件、協力してくれそうな方は見つかりそうですか?」
「実は、さっぱりでね。話すらまともに聞いてくれない人が多いくらいだよ」
「私も。ツテを色々辿ってるんだけど全部撃沈。あのイヤミ課長、ずいぶん入念に手を回してるみたいね」
「……そうですか」
やはりと言ってしまうべきなのか、芳しい成果はないようです。明確なタイムリミットが設定されてしまった今となると、一分一秒が経つたびに、地面から生えてきた黒い指が私の首筋を目指してゆっくりとよじ登ってきているようで、とても息苦しくなります。
私が思わずため息を吐くと、水島さんがコーヒーを注いだカップを私のテーブルに「どうぞ」と置いてくれました。水島さんと大藪さんは、豆を挽くところからコーヒーを作ります。昔、私はコーヒーがあまり得意ではなかったのですが、ふたりのおかげで好きになれました。
水島さんが私の対面に椅子を引いてきて、そこに「よいしょ」と腰掛けました。それから自分で淹れたコーヒーを美味しそうにすすり、何かを懐かしむように斜め上に目をやります。
「なんだか、こうして三人でここにいるとちょっと前を思い出すわ」
「昔話は歳を取った証拠ですよ」と大藪さんが言うと、水島さんは「うるさい」と鋭くはねつけます。「冗談だよ」と笑う彼を見て、私も思わず笑ってしまいました。
水島さんは仕切り直しとばかりにコーヒーを一口飲み、それから続けました。
「はじめは大藪さんと私がいて、そこに大学院をハタチで卒業した天才少女、あいちゃんが来て、『ISY』を作ろうってなって……ここで泊まったことも、一度や二度じゃないわよね」
「ちょ、ちょっと。その天才少女って呼び方、どうにかならないんですか? 私、もう四捨五入したら三十歳ですよ?」
「そんなこと言ったら私は四捨五入しなくたって四十よ。十五も差があれば相対的に少女でしょ?」
……水島さんは人をからかうのが好きです。伊瀬冬くんがそういう性格なのも、この人と仲がいいことが理由のひとつでしょう。「今後は絶対的に少女じゃない人を少女と呼ばないでください」とはっきり断った私は、用意してくれたコーヒーを飲みました。ふたりの性格を表すような優しい味がします。
「でも、本当に懐かしいわ。覚えてる? 源尾さんがここに来て二日目。大藪さんがあいちゃんの眼鏡を割っちゃった時のこと」
「覚えてます。あの時は大変でしたね、大藪さんが」
「そうそう。眼鏡を割られたあいちゃんじゃなくて、あなたが、大変だった」
「そうかな。覚えてないな」と大藪さんはとぼけます。
「あら。だったら思い出させてあげましょうか? テーブルの上に置いてあった眼鏡をあいちゃんがうっかり落としたところに、大藪さんがちょうど歩いてきた。そしてそれを運悪く踏んづけた……まではよくある話だけど――」
「わかってる。眼鏡を割ったことにショックを受けた僕が青ざめて、危うく卒倒しかけた」
「でも、あれで優しい人なんだなって、大藪さんのことよくわかった気がしますよ」
「優しいっていうより、情けない人じゃない? まあ、そんなの抜きに優しいのは確かだと思うけど」
「もう勘弁してくれないかい。思い出しただけで恥ずかしいんだ」
両手を挙げた大藪さんは降参の微笑みを浮かべました。私も、水島さんも、釣られて笑ってしまいます。そこでふと、彼の分の笑い声がこの部屋に無いという事実に改めて気が付いて、心に冷たい風が吹きました。
「……伊瀬冬くん、どうしちゃったんでしょうか。どうして、突然あんなこと言ったんでしょうか」
「……あいちゃん、伊瀬冬くんだってなにも考えたくない時があるの。理解してあげなくちゃ」
水島さんが励ますように私の肩にそっと手を置きました。
「とにかく、私達にできるのは後ろを振り向かずに突き進むことだけ。でしょ?」
たとえば、江村さんは背が小さくて幼い顔つきのせいで、周囲からからかわれて育ったそうです。鹿間さんは女性が好きで、その事で一時期大いに悩んだと言っていました。水島さんは昔からかわいいものが大好きですが、「男らしく」と育てようとした親からずいぶん責められたそうです。大藪さんは生まれつき身体が弱く、高校生になるまでは人生の大半をベッドの上で過ごしたと語ってくれました。
私も、小学生のころはちょっと虐められていました。引っ込み思案で、根が暗くて、本ばかり読んでいて、あまり笑わない子だったからでしょう。右頬の傷もその時のものです。男子が振り回した大きな三角定規の先端が、たまたまぶつかりました。熱くて、痛くて、ぬるぬるとしたものが頬から流れたことをよく覚えています。頬の傷のおかげでいじめは無くなりましたが、代わりに人から避けられるようになりました。
そんな私達だからこそ、『ISY』という発想に至ったんだと思います。患者のトラウマに対して与えた別のストーリーを共に追体験して、自分の過去を肯定的に受け入れる手助けをしてくれる〝素敵な友達〟という発想に。
『ISY』は、心に傷跡のある人達のために作りました。でも、いま私が伊瀬冬くんを助けたいと思っているのは、申し訳ないのですが『ISY』を必要としている人達のためではないのです。つまりは、ただのわがままなのです。
大切な人を助けたいという、身勝手な願いのせいなのです。
〇
翌日。研究室へ行くと水島さんと大藪さんがパソコンに向かって作業していました。部屋に入った時にちらりと見えてしまったのですが、どうやらふたりは架空環境をデザインしていたようです。私が「おはようございます」と声をかけると、ふたりは作業を止めて「おはよう」と挨拶を返してくれました。
「少しは眠れたかい?」と大藪さんは心配そうに言ってくれました。「はい、なんとか」と答えた私は自分の席に着きます。
「おふたり共。伊瀬冬くんの件、協力してくれそうな方は見つかりそうですか?」
「実は、さっぱりでね。話すらまともに聞いてくれない人が多いくらいだよ」
「私も。ツテを色々辿ってるんだけど全部撃沈。あのイヤミ課長、ずいぶん入念に手を回してるみたいね」
「……そうですか」
やはりと言ってしまうべきなのか、芳しい成果はないようです。明確なタイムリミットが設定されてしまった今となると、一分一秒が経つたびに、地面から生えてきた黒い指が私の首筋を目指してゆっくりとよじ登ってきているようで、とても息苦しくなります。
私が思わずため息を吐くと、水島さんがコーヒーを注いだカップを私のテーブルに「どうぞ」と置いてくれました。水島さんと大藪さんは、豆を挽くところからコーヒーを作ります。昔、私はコーヒーがあまり得意ではなかったのですが、ふたりのおかげで好きになれました。
水島さんが私の対面に椅子を引いてきて、そこに「よいしょ」と腰掛けました。それから自分で淹れたコーヒーを美味しそうにすすり、何かを懐かしむように斜め上に目をやります。
「なんだか、こうして三人でここにいるとちょっと前を思い出すわ」
「昔話は歳を取った証拠ですよ」と大藪さんが言うと、水島さんは「うるさい」と鋭くはねつけます。「冗談だよ」と笑う彼を見て、私も思わず笑ってしまいました。
水島さんは仕切り直しとばかりにコーヒーを一口飲み、それから続けました。
「はじめは大藪さんと私がいて、そこに大学院をハタチで卒業した天才少女、あいちゃんが来て、『ISY』を作ろうってなって……ここで泊まったことも、一度や二度じゃないわよね」
「ちょ、ちょっと。その天才少女って呼び方、どうにかならないんですか? 私、もう四捨五入したら三十歳ですよ?」
「そんなこと言ったら私は四捨五入しなくたって四十よ。十五も差があれば相対的に少女でしょ?」
……水島さんは人をからかうのが好きです。伊瀬冬くんがそういう性格なのも、この人と仲がいいことが理由のひとつでしょう。「今後は絶対的に少女じゃない人を少女と呼ばないでください」とはっきり断った私は、用意してくれたコーヒーを飲みました。ふたりの性格を表すような優しい味がします。
「でも、本当に懐かしいわ。覚えてる? 源尾さんがここに来て二日目。大藪さんがあいちゃんの眼鏡を割っちゃった時のこと」
「覚えてます。あの時は大変でしたね、大藪さんが」
「そうそう。眼鏡を割られたあいちゃんじゃなくて、あなたが、大変だった」
「そうかな。覚えてないな」と大藪さんはとぼけます。
「あら。だったら思い出させてあげましょうか? テーブルの上に置いてあった眼鏡をあいちゃんがうっかり落としたところに、大藪さんがちょうど歩いてきた。そしてそれを運悪く踏んづけた……まではよくある話だけど――」
「わかってる。眼鏡を割ったことにショックを受けた僕が青ざめて、危うく卒倒しかけた」
「でも、あれで優しい人なんだなって、大藪さんのことよくわかった気がしますよ」
「優しいっていうより、情けない人じゃない? まあ、そんなの抜きに優しいのは確かだと思うけど」
「もう勘弁してくれないかい。思い出しただけで恥ずかしいんだ」
両手を挙げた大藪さんは降参の微笑みを浮かべました。私も、水島さんも、釣られて笑ってしまいます。そこでふと、彼の分の笑い声がこの部屋に無いという事実に改めて気が付いて、心に冷たい風が吹きました。
「……伊瀬冬くん、どうしちゃったんでしょうか。どうして、突然あんなこと言ったんでしょうか」
「……あいちゃん、伊瀬冬くんだってなにも考えたくない時があるの。理解してあげなくちゃ」
水島さんが励ますように私の肩にそっと手を置きました。
「とにかく、私達にできるのは後ろを振り向かずに突き進むことだけ。でしょ?」
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