27 / 31
第6話 たった一つの彼女
たった一つの彼女 その2
しおりを挟む
研究室にいるみんなは、それぞれ心にちょっとした傷跡を持っています。子どもの時に付いた傷が、カサブタになって剥がれても消えずに残ってしまっているのでしょう。
たとえば、江村さんは背が小さくて幼い顔つきのせいで、周囲からからかわれて育ったそうです。鹿間さんは女性が好きで、その事で一時期大いに悩んだと言っていました。水島さんは昔からかわいいものが大好きですが、「男らしく」と育てようとした親からずいぶん責められたそうです。大藪さんは生まれつき身体が弱く、高校生になるまでは人生の大半をベッドの上で過ごしたと語ってくれました。
私も、小学生のころはちょっと虐められていました。引っ込み思案で、根が暗くて、本ばかり読んでいて、あまり笑わない子だったからでしょう。右頬の傷もその時のものです。男子が振り回した大きな三角定規の先端が、たまたまぶつかりました。熱くて、痛くて、ぬるぬるとしたものが頬から流れたことをよく覚えています。頬の傷のおかげでいじめは無くなりましたが、代わりに人から避けられるようになりました。
そんな私達だからこそ、『ISY』という発想に至ったんだと思います。患者のトラウマに対して与えた別のストーリーを共に追体験して、自分の過去を肯定的に受け入れる手助けをしてくれる〝素敵な友達〟という発想に。
『ISY』は、心に傷跡のある人達のために作りました。でも、いま私が伊瀬冬くんを助けたいと思っているのは、申し訳ないのですが『ISY』を必要としている人達のためではないのです。つまりは、ただのわがままなのです。
大切な人を助けたいという、身勝手な願いのせいなのです。
〇
翌日。研究室へ行くと水島さんと大藪さんがパソコンに向かって作業していました。部屋に入った時にちらりと見えてしまったのですが、どうやらふたりは架空環境をデザインしていたようです。私が「おはようございます」と声をかけると、ふたりは作業を止めて「おはよう」と挨拶を返してくれました。
「少しは眠れたかい?」と大藪さんは心配そうに言ってくれました。「はい、なんとか」と答えた私は自分の席に着きます。
「おふたり共。伊瀬冬くんの件、協力してくれそうな方は見つかりそうですか?」
「実は、さっぱりでね。話すらまともに聞いてくれない人が多いくらいだよ」
「私も。ツテを色々辿ってるんだけど全部撃沈。あのイヤミ課長、ずいぶん入念に手を回してるみたいね」
「……そうですか」
やはりと言ってしまうべきなのか、芳しい成果はないようです。明確なタイムリミットが設定されてしまった今となると、一分一秒が経つたびに、地面から生えてきた黒い指が私の首筋を目指してゆっくりとよじ登ってきているようで、とても息苦しくなります。
私が思わずため息を吐くと、水島さんがコーヒーを注いだカップを私のテーブルに「どうぞ」と置いてくれました。水島さんと大藪さんは、豆を挽くところからコーヒーを作ります。昔、私はコーヒーがあまり得意ではなかったのですが、ふたりのおかげで好きになれました。
水島さんが私の対面に椅子を引いてきて、そこに「よいしょ」と腰掛けました。それから自分で淹れたコーヒーを美味しそうにすすり、何かを懐かしむように斜め上に目をやります。
「なんだか、こうして三人でここにいるとちょっと前を思い出すわ」
「昔話は歳を取った証拠ですよ」と大藪さんが言うと、水島さんは「うるさい」と鋭くはねつけます。「冗談だよ」と笑う彼を見て、私も思わず笑ってしまいました。
水島さんは仕切り直しとばかりにコーヒーを一口飲み、それから続けました。
「はじめは大藪さんと私がいて、そこに大学院をハタチで卒業した天才少女、あいちゃんが来て、『ISY』を作ろうってなって……ここで泊まったことも、一度や二度じゃないわよね」
「ちょ、ちょっと。その天才少女って呼び方、どうにかならないんですか? 私、もう四捨五入したら三十歳ですよ?」
「そんなこと言ったら私は四捨五入しなくたって四十よ。十五も差があれば相対的に少女でしょ?」
……水島さんは人をからかうのが好きです。伊瀬冬くんがそういう性格なのも、この人と仲がいいことが理由のひとつでしょう。「今後は絶対的に少女じゃない人を少女と呼ばないでください」とはっきり断った私は、用意してくれたコーヒーを飲みました。ふたりの性格を表すような優しい味がします。
「でも、本当に懐かしいわ。覚えてる? 源尾さんがここに来て二日目。大藪さんがあいちゃんの眼鏡を割っちゃった時のこと」
「覚えてます。あの時は大変でしたね、大藪さんが」
「そうそう。眼鏡を割られたあいちゃんじゃなくて、あなたが、大変だった」
「そうかな。覚えてないな」と大藪さんはとぼけます。
「あら。だったら思い出させてあげましょうか? テーブルの上に置いてあった眼鏡をあいちゃんがうっかり落としたところに、大藪さんがちょうど歩いてきた。そしてそれを運悪く踏んづけた……まではよくある話だけど――」
「わかってる。眼鏡を割ったことにショックを受けた僕が青ざめて、危うく卒倒しかけた」
「でも、あれで優しい人なんだなって、大藪さんのことよくわかった気がしますよ」
「優しいっていうより、情けない人じゃない? まあ、そんなの抜きに優しいのは確かだと思うけど」
「もう勘弁してくれないかい。思い出しただけで恥ずかしいんだ」
両手を挙げた大藪さんは降参の微笑みを浮かべました。私も、水島さんも、釣られて笑ってしまいます。そこでふと、彼の分の笑い声がこの部屋に無いという事実に改めて気が付いて、心に冷たい風が吹きました。
「……伊瀬冬くん、どうしちゃったんでしょうか。どうして、突然あんなこと言ったんでしょうか」
「……あいちゃん、伊瀬冬くんだってなにも考えたくない時があるの。理解してあげなくちゃ」
水島さんが励ますように私の肩にそっと手を置きました。
「とにかく、私達にできるのは後ろを振り向かずに突き進むことだけ。でしょ?」
たとえば、江村さんは背が小さくて幼い顔つきのせいで、周囲からからかわれて育ったそうです。鹿間さんは女性が好きで、その事で一時期大いに悩んだと言っていました。水島さんは昔からかわいいものが大好きですが、「男らしく」と育てようとした親からずいぶん責められたそうです。大藪さんは生まれつき身体が弱く、高校生になるまでは人生の大半をベッドの上で過ごしたと語ってくれました。
私も、小学生のころはちょっと虐められていました。引っ込み思案で、根が暗くて、本ばかり読んでいて、あまり笑わない子だったからでしょう。右頬の傷もその時のものです。男子が振り回した大きな三角定規の先端が、たまたまぶつかりました。熱くて、痛くて、ぬるぬるとしたものが頬から流れたことをよく覚えています。頬の傷のおかげでいじめは無くなりましたが、代わりに人から避けられるようになりました。
そんな私達だからこそ、『ISY』という発想に至ったんだと思います。患者のトラウマに対して与えた別のストーリーを共に追体験して、自分の過去を肯定的に受け入れる手助けをしてくれる〝素敵な友達〟という発想に。
『ISY』は、心に傷跡のある人達のために作りました。でも、いま私が伊瀬冬くんを助けたいと思っているのは、申し訳ないのですが『ISY』を必要としている人達のためではないのです。つまりは、ただのわがままなのです。
大切な人を助けたいという、身勝手な願いのせいなのです。
〇
翌日。研究室へ行くと水島さんと大藪さんがパソコンに向かって作業していました。部屋に入った時にちらりと見えてしまったのですが、どうやらふたりは架空環境をデザインしていたようです。私が「おはようございます」と声をかけると、ふたりは作業を止めて「おはよう」と挨拶を返してくれました。
「少しは眠れたかい?」と大藪さんは心配そうに言ってくれました。「はい、なんとか」と答えた私は自分の席に着きます。
「おふたり共。伊瀬冬くんの件、協力してくれそうな方は見つかりそうですか?」
「実は、さっぱりでね。話すらまともに聞いてくれない人が多いくらいだよ」
「私も。ツテを色々辿ってるんだけど全部撃沈。あのイヤミ課長、ずいぶん入念に手を回してるみたいね」
「……そうですか」
やはりと言ってしまうべきなのか、芳しい成果はないようです。明確なタイムリミットが設定されてしまった今となると、一分一秒が経つたびに、地面から生えてきた黒い指が私の首筋を目指してゆっくりとよじ登ってきているようで、とても息苦しくなります。
私が思わずため息を吐くと、水島さんがコーヒーを注いだカップを私のテーブルに「どうぞ」と置いてくれました。水島さんと大藪さんは、豆を挽くところからコーヒーを作ります。昔、私はコーヒーがあまり得意ではなかったのですが、ふたりのおかげで好きになれました。
水島さんが私の対面に椅子を引いてきて、そこに「よいしょ」と腰掛けました。それから自分で淹れたコーヒーを美味しそうにすすり、何かを懐かしむように斜め上に目をやります。
「なんだか、こうして三人でここにいるとちょっと前を思い出すわ」
「昔話は歳を取った証拠ですよ」と大藪さんが言うと、水島さんは「うるさい」と鋭くはねつけます。「冗談だよ」と笑う彼を見て、私も思わず笑ってしまいました。
水島さんは仕切り直しとばかりにコーヒーを一口飲み、それから続けました。
「はじめは大藪さんと私がいて、そこに大学院をハタチで卒業した天才少女、あいちゃんが来て、『ISY』を作ろうってなって……ここで泊まったことも、一度や二度じゃないわよね」
「ちょ、ちょっと。その天才少女って呼び方、どうにかならないんですか? 私、もう四捨五入したら三十歳ですよ?」
「そんなこと言ったら私は四捨五入しなくたって四十よ。十五も差があれば相対的に少女でしょ?」
……水島さんは人をからかうのが好きです。伊瀬冬くんがそういう性格なのも、この人と仲がいいことが理由のひとつでしょう。「今後は絶対的に少女じゃない人を少女と呼ばないでください」とはっきり断った私は、用意してくれたコーヒーを飲みました。ふたりの性格を表すような優しい味がします。
「でも、本当に懐かしいわ。覚えてる? 源尾さんがここに来て二日目。大藪さんがあいちゃんの眼鏡を割っちゃった時のこと」
「覚えてます。あの時は大変でしたね、大藪さんが」
「そうそう。眼鏡を割られたあいちゃんじゃなくて、あなたが、大変だった」
「そうかな。覚えてないな」と大藪さんはとぼけます。
「あら。だったら思い出させてあげましょうか? テーブルの上に置いてあった眼鏡をあいちゃんがうっかり落としたところに、大藪さんがちょうど歩いてきた。そしてそれを運悪く踏んづけた……まではよくある話だけど――」
「わかってる。眼鏡を割ったことにショックを受けた僕が青ざめて、危うく卒倒しかけた」
「でも、あれで優しい人なんだなって、大藪さんのことよくわかった気がしますよ」
「優しいっていうより、情けない人じゃない? まあ、そんなの抜きに優しいのは確かだと思うけど」
「もう勘弁してくれないかい。思い出しただけで恥ずかしいんだ」
両手を挙げた大藪さんは降参の微笑みを浮かべました。私も、水島さんも、釣られて笑ってしまいます。そこでふと、彼の分の笑い声がこの部屋に無いという事実に改めて気が付いて、心に冷たい風が吹きました。
「……伊瀬冬くん、どうしちゃったんでしょうか。どうして、突然あんなこと言ったんでしょうか」
「……あいちゃん、伊瀬冬くんだってなにも考えたくない時があるの。理解してあげなくちゃ」
水島さんが励ますように私の肩にそっと手を置きました。
「とにかく、私達にできるのは後ろを振り向かずに突き進むことだけ。でしょ?」
0
あなたにおすすめの小説
シンデレラは王子様と離婚することになりました。
及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・
なりませんでした!!
【現代版 シンデレラストーリー】
貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。
はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。
しかしながら、その実態は?
離婚前提の結婚生活。
果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
大人になったオフェーリア。
ぽんぽこ狸
恋愛
婚約者のジラルドのそばには王女であるベアトリーチェがおり、彼女は慈愛に満ちた表情で下腹部を撫でている。
生まれてくる子供の為にも婚約解消をとオフェーリアは言われるが、納得がいかない。
けれどもそれどころではないだろう、こうなってしまった以上は、婚約解消はやむなしだ。
それ以上に重要なことは、ジラルドの実家であるレピード公爵家とオフェーリアの実家はたくさんの共同事業を行っていて、今それがおじゃんになれば、オフェーリアには補えないほどの損失を生むことになる。
その点についてすぐに確認すると、そういう所がジラルドに見離される原因になったのだとベアトリーチェは怒鳴りだしてオフェーリアに掴みかかってきた。
その尋常では無い様子に泣き寝入りすることになったオフェーリアだったが、父と母が設定したお見合いで彼女の騎士をしていたヴァレントと出会い、とある復讐の方法を思いついたのだった。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる