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ふた粒目 再会

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 遊休時間(アイドルタイム)中、レジ締め作業をする馨がなんだか落ち着かぬ気分なのは、ずぶぬれの女性がじぃっと見つめてくるゆえである。あまり照明が当たらぬ店の最奥、角のボックス席に陣を変え、マスター室藤から借りた花柄のタオルを首に下げつつ、馨から片時も視線を外さぬ彼女の姿は、さながら雨の日に死んだ人間の地縛霊。いくら相手が美人とはいえ、馨がいやな気分になったのは無理もない。

 作業を終えて逃げるようにキッチンへと引っ込むと、マスターが「これを」と馨へホットコーヒーを渡してきた。

 よほど豪胆な性格をしているのか、彼女は席に座りながらも未だ飲み物の一杯すら注文していない。それでもこれを渡されたということは、サービス品ということだろう。

 皆まで聞かずともマスター室藤の意図を理解した馨は、嫌とは言えずに「ええ」とそれを受け取って、彼女の座る卓へと持っていく。

 一歩、また一歩と馨が近づいていくたびに、彼女の表情は強張っていく。馨はそれをなるべく気にしないようにしながら、彼女の卓にコーヒーを置いた。

「どうぞ。店からのサービスです」

 しばしの沈黙。無視されているのかと思い、もう一度、今度は大きめの声で「どうぞ」と彼が言うと、「ありがとう」と口の中でもごもご呟いた彼女は、あくまで彼から眼を離さないまま恐る恐るコーヒーに口をつけた。

 馨はそれなりに我慢強い方である。大抵のことは右から左にさらりと流す。電車に乗っている時に、隣にコワモテの黒スーツ男がドスンと座ってきても平然と過ごせるタイプだ。しかし、理由もわからぬまま十分以上も凝視されていては我慢の緒が切れるのも無理はない。

 あくまで喧嘩腰にならないように努めながら、彼は「もしかして、俺の顔になにか付いてます?」と彼女へ訊ねた。

「あ、いや。違うんだ」
「それなら、まだ俺が幽霊か何かみたいに見えてるんですか?」

「違うの、違うんだけど、なんて言えばいいかな……」と首を捻った彼女は、カップをソーサーへ置いてタオルで口元を拭き取る。

「まあ、とにかく、あなたが生きてるってことを確認してたの。それだけだから」
「当たり前ですよ。幽霊がこんなにハッキリしてるもんですか。だいたい、なんでそんなこと確認する必要あるんですか」
「気になっただけっていうか……なんて言えばいいかなあ……」

 だんだんと問い詰めるような口調になっていく馨と、言葉を濁しながらフクロウのように首を傾げる彼女。これ以上聞いたところで無駄だなと悟った馨が、彼女に背を向けたその直後、彼女は窓の外を見て「あ」と呟いた。釣られて見てみれば、空に厚く広がっていた濃い灰色の雨雲はいつの間にか消え失せ、輝く太陽が幅をきかせている。

「雨、止んだね」
「止みましたね」
「てことで、行くね」

 そう言って席を立った彼女は、タオルをテーブルに投げ出す代わりにカップを手に取ると、さながら毒杯を呷るソクラテスかの如く一気にホットコーヒーを飲み干した。

「コーヒーご馳走様でした。あと、タオルありがとうございました」

 口元を拭いつつ妙に礼儀正しく言った彼女は、出口へと早足で向かいさっさと店を出て行く。店はまたマスターと馨のふたりだけになる。こうなるとまるで、はじめからあの女性など店に来ていなかったように思えてくるから不思議だ。

 狐に化かされたような気分になった馨は、「何だったんだよ、あの人」と文句を呟きつつカップとソーサーを片づける。それからテーブルに投げ出されたタオルを丁寧に畳んだその時、彼は卓の下に何か落ちていることに気が付いた。拾い上げてみるとそれは、アポロチョコの箱である。封が切られてまだ間もないのか、振るとガラガラと音がした。

 馨は自らのポケットを確認したが、マスターから頂いた分は中に入っている。つまり、これは先ほどの女性が落としていったものなのだろう。

「忘れ物か」と呟いたのは、いつの間にか馨の背後にいたマスター室藤だ。彼はしばしば音を立てずに行動する癖がある。その寡黙さと相まって、馨は彼を忍者の末裔だと信じて疑っていない。

「忘れ物、ってほどのものでもないと思いますけどね。俺が処分しておきましょうか?」

「いや」と首を振ったマスターは、馨の手からチョコの箱を摘まみ上げると、それをエプロンのポケットに入れた。

「預かっておこう。きっとまた来る」
「……来るとは思えませんけどね」

 窓の外のからトラックが通り過ぎていく音がした。





 馨のバイトが終わったのは午後五時半。外へ出ると、空では太陽がまだギラギラしている。雨上がりの空気は熱気で淀んでおり大変鬱陶しい。アスファルトの道がにわかに揺らめきたつのは陽炎だ。さながらサウナのような暑さに、店を出たばかりだというのに馨は早くも身体がべたついてくるのを感じた。
歩き出した馨が目指すのは近所のスーパーマーケット、『サミット』。目的は牛乳と納豆、卵に味噌。どれも食生活の必需品である。

 額の汗を拭いながら歩くこと十数分、馨は目的地へたどり着いた。自動ドアを抜けた瞬間、冷たい空気が全身を舐めて鳥肌が立った。

 六時前の『サミット』には仕事帰りらしき人でそこそこ混み合っている。慣れた足取りで店内を歩き、目当てのものを腕にぶら下げた買い物カゴへと順調に入れていくうち、馨はふと足を止めた。彼の視界に、本日店にやって来た例の幽霊めいた女性が映ったゆえである。

 格好は上下黒のジャージと至ってラフ。惣菜売り場で値引きシールが貼られた唐揚げ弁当と真剣な目つきで向き合う彼女には、すぐ背後にいる馨に気付く様子は無い。このまま見て見ぬふりしてやり過ごそうとした馨だったが、すぐさま声をかけようと考えを改めたのは、例の〝忘れ物〟の件があったからだ。たかがアポロチョコ一箱とはいえ、こうして再会してしまった以上、知らせないでおくのはなんとなく気が引けると思ってしまう彼は、紛れもない小市民といえた。

 馨がわざとらしく咳をしてみると、彼女はちらりと背後を振り返り、それから「おぉ」と小さく驚きの声を上げた。そのやや引きつった表情は、無害な妖怪でも目の当たりにしたかのようである。

「失礼ですね。人の顔を見るなりそんな反応なんて」
「ごめん。驚いて。で、なんで君がいるの?」
「なんでって、近所に住んでるんですよ。あなたもそうなんですよね」
「なんでわかるの? まさか、エスパー系?」
「……いや、そんな格好ですし。それに、わざわざ遠くのスーパーなんて使わないでしょう、普通」
「ああ、そっか。そりゃそうだよね」

 いちいち大袈裟な人だ。彼女の態度にいい加減うんざりしていた馨は、さっさと用件を伝えてしまうことにした。

「アポロチョコ、店に忘れていきましたよね。まだ取っといてあるんで、近くに来たら寄ってください。それだけなんで」

 言うべきことだけ手早く伝え、「それでは」とその場を去ろうとしたその時、「あのさ」とやや遠慮がちな彼女の呼びかけが彼の足を止めた。

「なんでしょうか」
「君って、あのお店の店員なんだよね?」

 質問の意図がわからず、斜めに首を振りながら「一応は」と返した馨は、大股で歩いて卵売り場へと向かった。また出てきそうになったため息を彼が何とか堪えたのは、彼女に配慮してのことである。
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