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七粒目 イヤなこと
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ジュンク堂すぐ側にあるチェーン系のカフェに入ったふたりは、窓際の席を確保した。つい先ほどまで晴れていた空にはにわかに雲が張り出しており、今にも雨が降りそうである。
洗濯物、外に干しっぱなしなんだよな、と馨はベランダに干された彼らがなすすべなく雨に濡れていく様を想像したが、もうジタバタしたところでしょうがない。多少濡れたところでこの季節ならすぐに乾くだろうと、投げやりな気持ちになりつつ、適当なセットメニューを選び店員を呼ぼうとしたが、対面に座る香はまだメニューを眺めており、決めかねている様子である。馨は大人しく待っていたが、五分経ち、十分経っても彼女はじっと黙ったまま表から目を離さない。
「ずいぶんと悩みますね」と馨は彼女をちくりと刺した。すると彼女はB4サイズの見開き一枚のメニュー表から視線を上げ、「ごめんね」と返す。
「でも、〝見えて〟ないことだからさ、慎重にいかないとって思って」
「たかがカフェのメニューにですか?」
「されどカフェのメニューでしょ? ここでアイスコーヒー飲んだらあとでトイレ行きたくなるかもとか、パンケーキ食べたらお気に入りの服のボタンが弾けるかもとか、考えたらキリ無くなってさ」
「そんなの、普通の人はいちいち大げさに考えませんよ」
「ところがわたしは普通じゃない」
さらりと言った彼女に、馨はなにか寂しいものを覚えた。自分はバケモノだ、とまではいかないけど、それに近い自虐を持っているのではと、そんなことを考えた。
「……未来が見えるって、どんな感じなんですか?」
「あんまりいい気分じゃないよ。見えたところで、得したことなんてほとんど無いしね」
「でも、ああやって定期的に見てるわけですよね」
「ん。その通り。もうクセみたいなもんだね。見ておかないと不安っていうか。そんな感じ」
メニュー表を閉じてテーブルに置いた香は、「すいませーん」と店員を呼んだ。間もなくやって来た店員にふたり分の注文を伝えて、それから五分としないうちに商品が提供された。馨が頼んだのはアイスティーとハニードーナツのセット、香が頼んだのはホットコーヒーとチーズトーストのセットである。
それからふたりは向かい合っているにも関わらず、各々無言で食べ進めた。馨はこの微妙な空気に耐えられず、時折会話を振ったのだが、香の方はこれに乗ってこず、「うん」とか「そうかも」とか素っ気ない返事を返すばかりであった。俺ってあんまり話得意じゃないのかなと、馨がすっかり自信を失ったのは無理もない。
沈黙が続いて三十分余り。グラスも皿も空になったにも関わらず、すっかり帰るタイミングを逸した馨が、どうここから逃げようかと本格的に思案を巡らせ始めたころ、つまらなさそうにスマホを弄っていた香が、「よぉし。そろそろかな」と大きく伸びをした。
これはまさに渡りに船。「助かった」と内心で安堵しながら、あくまでなんでもない風に「これから人と会う予定でも入ってるんですか?」と馨は訊ねた。
「いやいや。そんなんじゃないよ。ちょっと、イヤなことをしにね」
――イヤなこと?
馨が首を傾げるうちに、席を立った香は財布から千円札を二枚取り出し、それをテーブルに置いてカフェをさっさと出て行ってしまう。ふたり合わせて千円をやや超える額しか飲食してないのに、これでは多すぎだ。そもそも、彼女に奢って貰おうというつもりは馨には無かった。
慌てて支払いを済ませ、急ぎ彼女を追おうとしたが、いつの間にか外は大雨。ほんの一瞬、馨は躊躇したが、思い切って扉を開けて外へと飛び出し、国道沿いの歩道を左右見回せば、傘を差して早足で歩く彼女の背中が人通りの中に見える。
道を駆けながら「長瀬さん!」と呼び止めると、彼女は少し振り返って歩く速度を緩めたものの、足を止めることはない。
「ついて来ちゃダメでしょ。これからイヤなことが待ってるって言ってんだから」
「なんだっていいですよ、そんなこと。それよりお金、返します」
「いいんだって。奢られておきなよ」
「そういうわけにはいきませんよ」
「いいって、別に」
「ダメです。受け取ってください」
そんな風に押し問答を続けるうちに彼女はふと足を止め、ドラッグストアの軒先に入った。それから傘を折り畳むと、ポケットからアポロチョコの箱を取り出して一粒手に取り、口の中に放り込む。「うん、間違いないね」と呟いたのは、一体なにを確かめたのだろうか。
「長瀬さん。早く代金を――」
「それより、早いとこわたしから離れないとマズイよ?」
「なんですか、それ。とにかく、今はお金です」
「……まったく。強情な子だなぁ。どうなったって知らないよ?」
そう言うと香は馨から、カフェ代金を含めた千四百八十円を受け取り、代わりに持っていたアポロチョコを何粒か彼へ手渡した。お釣りのつもりか何かなのだろうかと思いつつ、一応受け取った馨はチョコをかじる。いつも通りの安心する甘い味が口に広がったその時――大きなトラックが車道を走っていき、豪快に跳ねた水しぶきがふたりを襲った。
「うぎゃ」とちょっと馬鹿っぽい声を上げた馨は、慌ててシャツの袖で顔を拭く。一方の香はといえば、髪先から滴が垂れるほどずぶ濡れの状態は彼と変わらないか、それ以上だというのに、「大丈夫?」と心配するような余裕さえある。
「だから言ったでしょ。イヤなことが待ってるって」
「いや。こうなることがわかってるなら、はじめからここに来なければよかったじゃないですか。どうして自分からずぶ濡れになるようなことするんですか」
「決まってるじゃない。それがわたしの未来だから」
「なんですかそれ。じゃあ、もし自分が階段で転んで骨の折れる未来が見えたら、その通りにするんですか?」
「まあ、するだろうね。それがわたしの未来なら」
あっさりと言い放った香は、傘を開いて何でもなかったかのように再び歩道を歩き出した。小さくなっていくその背中を、「待ってください」と呼び止めてしまいそうになったのをなんとか堪えた馨は、通り雨が過ぎ去るのを待ってから、彼女とは反対方向に踏み出した。
〇
その日の夜。ハンバーグのタネをこねる馨の思考は同じところをぐるぐる回っていた。
――あの人が、たとえ自分にとって嫌なことでも見えた〝未来〟を守るのに固執するのは、きっとなにか理由があるんだろう。それが気にならないわけじゃない。あの人はなんだか危なげな雰囲気があって、放っておけないような気分にさせられる。
……でも、詮索して何になる? 事情を聞いて、俺はどうしたい? 仲良くなりたいのか? それとも、助けたいのか? 馬鹿らしい。仲良くなるのなんて無理だし、助けるのなんてもっと無理だ。
……だとしたら、俺は何をやりたいんだ?
寄せては返す同内容の自問。いくら考えても答えが出ることはなく、適当なところで「くだらない」と切り捨てるのだが、気を抜いた瞬間にまた襲われる。思春期の煩悶というのはゾンビよりもタチが悪い。
――くだらない。くだらない、くだらない!
「――おう。今日はハンバーグか」
悶々を八つ当たり的にひき肉へぶつける馨の耳に聞こえたのは父の声。いつの間にか帰ってきていたらしい。馨は平静を装い「うん」と答え、黙って作業を続けた。
そんな彼の背中を一目見た父は、自分の息子に何かがあったことを敏感に感じ取った。〝父としての勘〟というものだろう。彼は鞄から弁当箱を取り出すと、それを流し台で洗いながら、タネを丸めてハンバーグの成形作業をはじめた馨へ声をかける。
「どうした、馨。なんかあったか?」
「別に。何もないけど」と馨は素っ気なく答える。
「俺に嘘つけると思ってるのか? もうこっちは十七年もお前のオヤジやってんだぞ。考えてることなんて丸わかりだ」
そう言うと父は照れ臭そうに笑った。
「まあ、丸わかりってのは言い過ぎだが。とにかく、なんかあったことくらいはわかる」
馨の両手がふと止まった。父も、食器用スポンジをシンクに放り出して蛇口の水を止める。
「……馬鹿なことだとはじめからわかってるのに、馬鹿なことをしようとしてる人がいるんだ。父さんだったらどうする?」
「なるほど。あの変な人絡みのことか」
「なんでもいいだろ、そんなの」と馨は反抗的に答えたが、図星なのは火を見るより明らか。いつもの父ならそれを指摘し、思う存分からかっていたが、今日の彼はいつになく真面目な表情で「そうだな」と呟き、考えを巡らせるように宙を見た。
「お前の言うその馬鹿なことってのが、犯罪とか、そういう危ないことだったら、間違いなく止めてるだろうな」
「それ以外なら?」
「そこからはお前が考えろ」
「……無理だよ、そんなの。だから聞いたんだろ」
「いや、無理じゃない」
父は依然として真面目な表情のまま馨の顔を覗き込む。
「お前ってヤツは、クール気取って根っこのところはバカ優しいからな。きっとそのうち、いい考えも思いつく」
「思いつかなかったら?」
「思いつくまで考えりゃいい」
父の適当が過ぎる答えに馨は思わず笑った。「それでいい」と微笑んだ父は、濡れた手で彼の背中をバシバシ叩いた。
洗濯物、外に干しっぱなしなんだよな、と馨はベランダに干された彼らがなすすべなく雨に濡れていく様を想像したが、もうジタバタしたところでしょうがない。多少濡れたところでこの季節ならすぐに乾くだろうと、投げやりな気持ちになりつつ、適当なセットメニューを選び店員を呼ぼうとしたが、対面に座る香はまだメニューを眺めており、決めかねている様子である。馨は大人しく待っていたが、五分経ち、十分経っても彼女はじっと黙ったまま表から目を離さない。
「ずいぶんと悩みますね」と馨は彼女をちくりと刺した。すると彼女はB4サイズの見開き一枚のメニュー表から視線を上げ、「ごめんね」と返す。
「でも、〝見えて〟ないことだからさ、慎重にいかないとって思って」
「たかがカフェのメニューにですか?」
「されどカフェのメニューでしょ? ここでアイスコーヒー飲んだらあとでトイレ行きたくなるかもとか、パンケーキ食べたらお気に入りの服のボタンが弾けるかもとか、考えたらキリ無くなってさ」
「そんなの、普通の人はいちいち大げさに考えませんよ」
「ところがわたしは普通じゃない」
さらりと言った彼女に、馨はなにか寂しいものを覚えた。自分はバケモノだ、とまではいかないけど、それに近い自虐を持っているのではと、そんなことを考えた。
「……未来が見えるって、どんな感じなんですか?」
「あんまりいい気分じゃないよ。見えたところで、得したことなんてほとんど無いしね」
「でも、ああやって定期的に見てるわけですよね」
「ん。その通り。もうクセみたいなもんだね。見ておかないと不安っていうか。そんな感じ」
メニュー表を閉じてテーブルに置いた香は、「すいませーん」と店員を呼んだ。間もなくやって来た店員にふたり分の注文を伝えて、それから五分としないうちに商品が提供された。馨が頼んだのはアイスティーとハニードーナツのセット、香が頼んだのはホットコーヒーとチーズトーストのセットである。
それからふたりは向かい合っているにも関わらず、各々無言で食べ進めた。馨はこの微妙な空気に耐えられず、時折会話を振ったのだが、香の方はこれに乗ってこず、「うん」とか「そうかも」とか素っ気ない返事を返すばかりであった。俺ってあんまり話得意じゃないのかなと、馨がすっかり自信を失ったのは無理もない。
沈黙が続いて三十分余り。グラスも皿も空になったにも関わらず、すっかり帰るタイミングを逸した馨が、どうここから逃げようかと本格的に思案を巡らせ始めたころ、つまらなさそうにスマホを弄っていた香が、「よぉし。そろそろかな」と大きく伸びをした。
これはまさに渡りに船。「助かった」と内心で安堵しながら、あくまでなんでもない風に「これから人と会う予定でも入ってるんですか?」と馨は訊ねた。
「いやいや。そんなんじゃないよ。ちょっと、イヤなことをしにね」
――イヤなこと?
馨が首を傾げるうちに、席を立った香は財布から千円札を二枚取り出し、それをテーブルに置いてカフェをさっさと出て行ってしまう。ふたり合わせて千円をやや超える額しか飲食してないのに、これでは多すぎだ。そもそも、彼女に奢って貰おうというつもりは馨には無かった。
慌てて支払いを済ませ、急ぎ彼女を追おうとしたが、いつの間にか外は大雨。ほんの一瞬、馨は躊躇したが、思い切って扉を開けて外へと飛び出し、国道沿いの歩道を左右見回せば、傘を差して早足で歩く彼女の背中が人通りの中に見える。
道を駆けながら「長瀬さん!」と呼び止めると、彼女は少し振り返って歩く速度を緩めたものの、足を止めることはない。
「ついて来ちゃダメでしょ。これからイヤなことが待ってるって言ってんだから」
「なんだっていいですよ、そんなこと。それよりお金、返します」
「いいんだって。奢られておきなよ」
「そういうわけにはいきませんよ」
「いいって、別に」
「ダメです。受け取ってください」
そんな風に押し問答を続けるうちに彼女はふと足を止め、ドラッグストアの軒先に入った。それから傘を折り畳むと、ポケットからアポロチョコの箱を取り出して一粒手に取り、口の中に放り込む。「うん、間違いないね」と呟いたのは、一体なにを確かめたのだろうか。
「長瀬さん。早く代金を――」
「それより、早いとこわたしから離れないとマズイよ?」
「なんですか、それ。とにかく、今はお金です」
「……まったく。強情な子だなぁ。どうなったって知らないよ?」
そう言うと香は馨から、カフェ代金を含めた千四百八十円を受け取り、代わりに持っていたアポロチョコを何粒か彼へ手渡した。お釣りのつもりか何かなのだろうかと思いつつ、一応受け取った馨はチョコをかじる。いつも通りの安心する甘い味が口に広がったその時――大きなトラックが車道を走っていき、豪快に跳ねた水しぶきがふたりを襲った。
「うぎゃ」とちょっと馬鹿っぽい声を上げた馨は、慌ててシャツの袖で顔を拭く。一方の香はといえば、髪先から滴が垂れるほどずぶ濡れの状態は彼と変わらないか、それ以上だというのに、「大丈夫?」と心配するような余裕さえある。
「だから言ったでしょ。イヤなことが待ってるって」
「いや。こうなることがわかってるなら、はじめからここに来なければよかったじゃないですか。どうして自分からずぶ濡れになるようなことするんですか」
「決まってるじゃない。それがわたしの未来だから」
「なんですかそれ。じゃあ、もし自分が階段で転んで骨の折れる未来が見えたら、その通りにするんですか?」
「まあ、するだろうね。それがわたしの未来なら」
あっさりと言い放った香は、傘を開いて何でもなかったかのように再び歩道を歩き出した。小さくなっていくその背中を、「待ってください」と呼び止めてしまいそうになったのをなんとか堪えた馨は、通り雨が過ぎ去るのを待ってから、彼女とは反対方向に踏み出した。
〇
その日の夜。ハンバーグのタネをこねる馨の思考は同じところをぐるぐる回っていた。
――あの人が、たとえ自分にとって嫌なことでも見えた〝未来〟を守るのに固執するのは、きっとなにか理由があるんだろう。それが気にならないわけじゃない。あの人はなんだか危なげな雰囲気があって、放っておけないような気分にさせられる。
……でも、詮索して何になる? 事情を聞いて、俺はどうしたい? 仲良くなりたいのか? それとも、助けたいのか? 馬鹿らしい。仲良くなるのなんて無理だし、助けるのなんてもっと無理だ。
……だとしたら、俺は何をやりたいんだ?
寄せては返す同内容の自問。いくら考えても答えが出ることはなく、適当なところで「くだらない」と切り捨てるのだが、気を抜いた瞬間にまた襲われる。思春期の煩悶というのはゾンビよりもタチが悪い。
――くだらない。くだらない、くだらない!
「――おう。今日はハンバーグか」
悶々を八つ当たり的にひき肉へぶつける馨の耳に聞こえたのは父の声。いつの間にか帰ってきていたらしい。馨は平静を装い「うん」と答え、黙って作業を続けた。
そんな彼の背中を一目見た父は、自分の息子に何かがあったことを敏感に感じ取った。〝父としての勘〟というものだろう。彼は鞄から弁当箱を取り出すと、それを流し台で洗いながら、タネを丸めてハンバーグの成形作業をはじめた馨へ声をかける。
「どうした、馨。なんかあったか?」
「別に。何もないけど」と馨は素っ気なく答える。
「俺に嘘つけると思ってるのか? もうこっちは十七年もお前のオヤジやってんだぞ。考えてることなんて丸わかりだ」
そう言うと父は照れ臭そうに笑った。
「まあ、丸わかりってのは言い過ぎだが。とにかく、なんかあったことくらいはわかる」
馨の両手がふと止まった。父も、食器用スポンジをシンクに放り出して蛇口の水を止める。
「……馬鹿なことだとはじめからわかってるのに、馬鹿なことをしようとしてる人がいるんだ。父さんだったらどうする?」
「なるほど。あの変な人絡みのことか」
「なんでもいいだろ、そんなの」と馨は反抗的に答えたが、図星なのは火を見るより明らか。いつもの父ならそれを指摘し、思う存分からかっていたが、今日の彼はいつになく真面目な表情で「そうだな」と呟き、考えを巡らせるように宙を見た。
「お前の言うその馬鹿なことってのが、犯罪とか、そういう危ないことだったら、間違いなく止めてるだろうな」
「それ以外なら?」
「そこからはお前が考えろ」
「……無理だよ、そんなの。だから聞いたんだろ」
「いや、無理じゃない」
父は依然として真面目な表情のまま馨の顔を覗き込む。
「お前ってヤツは、クール気取って根っこのところはバカ優しいからな。きっとそのうち、いい考えも思いつく」
「思いつかなかったら?」
「思いつくまで考えりゃいい」
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