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九粒目 涙の未来
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夏にはすべてが詰まっている。
喧騒を浴びたいのなら近所の公園に行けばいい。蝉の音や子供の声がうんざりするほど聞こえてくる。
静けさの中に身を置きたいなら夜を待てばいい。じとりと淀む空気の中に気怠げな静けさが沈殿している。
哀愁を感じたいなら夕方を待てばいい。ひぐらしの鳴く声がともなく聞こえる。
悲喜交交を見たいなら祭りの夜を覗けばいい。青春の奔流に流される恐れはあるが。
暑さを味わいたいのなら外で何もしなければいい。身体がバターのように溶けていく。
寒さに身を震わせたいならスーパーマーケットへ行けばいい。頭が痛くなるほどに冷房を効いている。
夏にはすべてが詰まっている。
だから、奇跡のひとつやふたつくらいは珍しくもなんともない。
◯
八月の太陽は朝十時前からぎらぎらと輝いている。アスファルトの照り返しが目に痛いほどだ。まさに灼熱。筋線維が解けていかないのが不思議なくらいである。
「暑い、ああ暑い」と念仏のように唱えながら道を行く馨は『しまうま』へ向かっている。夏休み中、彼は「こんな馬鹿みたいに暑い日に客なんて来るのだろうか」なんて毎日のように考えているが、来る。それはもうわんさかと来る。さながら砂糖に群がる蟻の如く来る。いつの間にかDNAに『しまうま』のコーヒーを飲めと刻まれたのでは、と怪しむほどだ。
その傾向はお姉さん――長瀬香が店に顔を出すようになってからいっそう顕著になって、店には暇な時間が少なくなった。おかげで店員の馨は大変だが、マスター室藤はこの現象を喜びと共に迎え、彼女が来ると、必ずコーヒーをご馳走した。
その日、馨が『しまうま』へ着くと、香は既に店にいた。座る場所はいつも同じ、最奥のボックス席。紺のハットにオーバーサイズの白いTシャツ、薄青いデニムとシルバーアクセサリーを合わせたボーイッシュなコーディネート。すました顔で文庫本を読んでおり、それだけ見ればここが彼女の家なのではと錯覚するほどだ。店員よりも早く入店するとは、通常であれば許されるべきではない行為だが、〝招き猫〟ならば話は別であるというマスターの判断であれば仕方ない。いち店員である馨が口を挟めることではない。
「おはようございます」と挨拶しながら店に入ってきた馨に視線をやった香は、「遅いよ、カオルくん」と軽く手を振る。見ると、彼女のテーブルには既にコーヒーが給仕されていた。よほどマスターは猫を繋ぎ止めておきたいらしいぞと、馨は内心で息を吐く。
「お姉さんが早すぎるだけだと思いますよ。店員より来るのが早いってどうなってるんですか」
「いいでしょ。忙しいんだもん」
そう言うと彼女は本を開いて再びそちらに視線を預けた。とても忙しいようには見えない。「そうですか」と返した馨は、店の奥へと向かってエプロンを身に着け、サラダの仕込みに入った。
今日もまた、あっという間に過ぎ去る一日がはじまる。
〇
時刻は午後の二時半。今日の『しまうま』はまさに激動で、開店からほとんど客足が途切れることはなかった。朝から今に至るまでの数時間だけで、通常、人が一生のうちに調理する分を遥かに超える量のオムライスを作ったかもしれないと馨が考えたほどだ。
最後のランチ客が帰ったのがつい十五分前。ふたりの店員のみならず、キッチン、洗い場、みんなまとめて満身創痍。マスター室藤が耐えきれず、『休憩中』の看板を店先に掲げに向かったのも無理はない。
さて、そんな店の状態をちっとも気にする風でもない人物がいる。香である。彼女は休憩中になった店内で、相変わらず最奥のボックス席に陣取り、相変わらず本を読み続けている。食事もとらず、朝に提供されたコーヒーも半分ほどしか減っていない。驚異的な集中力だ。
もはや声をかける気にもなれなかった馨が、空いていたカウンター席に腰掛け、遅めの昼休みを取っていたところ、彼女はぱたんと本を閉じてふと立ち上がり、彼の元へぴょこぴょこと歩み寄っていった。
「わたし、泣いてたのよね」
ふいに声を発したかと思えば謎の宣言。意味がわからず、「はい?」と馨が思わず聞き返すと、「だから、泣いてたの」と同じことを繰り返される。彼女が自分の未来について話しているのだと、疲れた頭の馨が気づいたのはその時のことである。
「泣いてたって、なにが理由で?」
「さあ? とにかく涙をこぼしてた」
「だったら、さっさと泣けばいいじゃないですか」
「それが出来たら苦労してないよ」
うんざりしたように言った香は、カウンターの上に薄い文庫本を三冊置いた。
「朝っぱらから『絶対泣けます』なんて謳い文句の小説、三冊も読んだんだよ。なのに、泣けない。ぴくりともこない。なんなの、コレ」
「……なんなの、と言われましても。ワサビでも買ってきましょうか? 鼻の下に塗ればすぐにでも泣けますよ」
「ワサビは嫌。痛いから」
「……いいじゃないですか、痛くても、泣ければ」
「だめ。そもそも、苦しそうに泣いてる感じじゃなかったわけよ。というわけで、カオルくん。行くよ」
「行くって、どこにですか」
「決まってるでしょ。泣きに」
「いやいや。見てわかるでしょう。俺、バイト中ですよ」
「ええ? 道連れじゃないの?」
「いや、たしかにそうですけど……」
今にも腕を掴んで引いてきそうな香を警戒しつつ見ていると、「いいよ、窪塚くん」とマスターが声を掛けた。彼の言う「いいよ」というのが、つまり「彼女と一緒に行ってもいいよ」という意味であると馨はすぐに理解したが、この状態の店を放って出かけられるほど、彼は無責任ではない。
「ですが、室藤さんをひとりにするわけにも」と馨は店員としての役割を優先させようとしたが、彼の「大丈夫。店、閉めちゃうから」というなんともあっさりした答えと、長いため息と共に吐き出された「正直、疲れた」という言葉を聞いて、店を閉める言い訳を探しているのだと理解し、そっとエプロンを外した。
喧騒を浴びたいのなら近所の公園に行けばいい。蝉の音や子供の声がうんざりするほど聞こえてくる。
静けさの中に身を置きたいなら夜を待てばいい。じとりと淀む空気の中に気怠げな静けさが沈殿している。
哀愁を感じたいなら夕方を待てばいい。ひぐらしの鳴く声がともなく聞こえる。
悲喜交交を見たいなら祭りの夜を覗けばいい。青春の奔流に流される恐れはあるが。
暑さを味わいたいのなら外で何もしなければいい。身体がバターのように溶けていく。
寒さに身を震わせたいならスーパーマーケットへ行けばいい。頭が痛くなるほどに冷房を効いている。
夏にはすべてが詰まっている。
だから、奇跡のひとつやふたつくらいは珍しくもなんともない。
◯
八月の太陽は朝十時前からぎらぎらと輝いている。アスファルトの照り返しが目に痛いほどだ。まさに灼熱。筋線維が解けていかないのが不思議なくらいである。
「暑い、ああ暑い」と念仏のように唱えながら道を行く馨は『しまうま』へ向かっている。夏休み中、彼は「こんな馬鹿みたいに暑い日に客なんて来るのだろうか」なんて毎日のように考えているが、来る。それはもうわんさかと来る。さながら砂糖に群がる蟻の如く来る。いつの間にかDNAに『しまうま』のコーヒーを飲めと刻まれたのでは、と怪しむほどだ。
その傾向はお姉さん――長瀬香が店に顔を出すようになってからいっそう顕著になって、店には暇な時間が少なくなった。おかげで店員の馨は大変だが、マスター室藤はこの現象を喜びと共に迎え、彼女が来ると、必ずコーヒーをご馳走した。
その日、馨が『しまうま』へ着くと、香は既に店にいた。座る場所はいつも同じ、最奥のボックス席。紺のハットにオーバーサイズの白いTシャツ、薄青いデニムとシルバーアクセサリーを合わせたボーイッシュなコーディネート。すました顔で文庫本を読んでおり、それだけ見ればここが彼女の家なのではと錯覚するほどだ。店員よりも早く入店するとは、通常であれば許されるべきではない行為だが、〝招き猫〟ならば話は別であるというマスターの判断であれば仕方ない。いち店員である馨が口を挟めることではない。
「おはようございます」と挨拶しながら店に入ってきた馨に視線をやった香は、「遅いよ、カオルくん」と軽く手を振る。見ると、彼女のテーブルには既にコーヒーが給仕されていた。よほどマスターは猫を繋ぎ止めておきたいらしいぞと、馨は内心で息を吐く。
「お姉さんが早すぎるだけだと思いますよ。店員より来るのが早いってどうなってるんですか」
「いいでしょ。忙しいんだもん」
そう言うと彼女は本を開いて再びそちらに視線を預けた。とても忙しいようには見えない。「そうですか」と返した馨は、店の奥へと向かってエプロンを身に着け、サラダの仕込みに入った。
今日もまた、あっという間に過ぎ去る一日がはじまる。
〇
時刻は午後の二時半。今日の『しまうま』はまさに激動で、開店からほとんど客足が途切れることはなかった。朝から今に至るまでの数時間だけで、通常、人が一生のうちに調理する分を遥かに超える量のオムライスを作ったかもしれないと馨が考えたほどだ。
最後のランチ客が帰ったのがつい十五分前。ふたりの店員のみならず、キッチン、洗い場、みんなまとめて満身創痍。マスター室藤が耐えきれず、『休憩中』の看板を店先に掲げに向かったのも無理はない。
さて、そんな店の状態をちっとも気にする風でもない人物がいる。香である。彼女は休憩中になった店内で、相変わらず最奥のボックス席に陣取り、相変わらず本を読み続けている。食事もとらず、朝に提供されたコーヒーも半分ほどしか減っていない。驚異的な集中力だ。
もはや声をかける気にもなれなかった馨が、空いていたカウンター席に腰掛け、遅めの昼休みを取っていたところ、彼女はぱたんと本を閉じてふと立ち上がり、彼の元へぴょこぴょこと歩み寄っていった。
「わたし、泣いてたのよね」
ふいに声を発したかと思えば謎の宣言。意味がわからず、「はい?」と馨が思わず聞き返すと、「だから、泣いてたの」と同じことを繰り返される。彼女が自分の未来について話しているのだと、疲れた頭の馨が気づいたのはその時のことである。
「泣いてたって、なにが理由で?」
「さあ? とにかく涙をこぼしてた」
「だったら、さっさと泣けばいいじゃないですか」
「それが出来たら苦労してないよ」
うんざりしたように言った香は、カウンターの上に薄い文庫本を三冊置いた。
「朝っぱらから『絶対泣けます』なんて謳い文句の小説、三冊も読んだんだよ。なのに、泣けない。ぴくりともこない。なんなの、コレ」
「……なんなの、と言われましても。ワサビでも買ってきましょうか? 鼻の下に塗ればすぐにでも泣けますよ」
「ワサビは嫌。痛いから」
「……いいじゃないですか、痛くても、泣ければ」
「だめ。そもそも、苦しそうに泣いてる感じじゃなかったわけよ。というわけで、カオルくん。行くよ」
「行くって、どこにですか」
「決まってるでしょ。泣きに」
「いやいや。見てわかるでしょう。俺、バイト中ですよ」
「ええ? 道連れじゃないの?」
「いや、たしかにそうですけど……」
今にも腕を掴んで引いてきそうな香を警戒しつつ見ていると、「いいよ、窪塚くん」とマスターが声を掛けた。彼の言う「いいよ」というのが、つまり「彼女と一緒に行ってもいいよ」という意味であると馨はすぐに理解したが、この状態の店を放って出かけられるほど、彼は無責任ではない。
「ですが、室藤さんをひとりにするわけにも」と馨は店員としての役割を優先させようとしたが、彼の「大丈夫。店、閉めちゃうから」というなんともあっさりした答えと、長いため息と共に吐き出された「正直、疲れた」という言葉を聞いて、店を閉める言い訳を探しているのだと理解し、そっとエプロンを外した。
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