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十粒目 嫌い、顔も見たくない

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 喫茶店を出たふたりは駅に向かって歩く。やや前を行く香へ、馨が「どこへ行くんですか」と訊ねると、「まずはご飯かな」と彼女は答えた。

「食事だったら店で食べればよかったじゃないですか」
「激辛が食べたいのよ、激辛が」
「……俺、辛いの苦手なんですけど」
「心配しないで。わたしも得意じゃない。一緒に地獄に落ちようよ」

 わざとらしく歯を剥き出しにしてあくどい笑みを浮かべた香はつまり、辛いものを食べて涙を流そうと考えているのだろう。そもそもこの方法を取るならばワサビでいいのではないかと、馨は彼女の選んだ手段を訝しく思いつつもなにも言えずにいた。

 駅に着いた後は、山手線に乗って池袋へ。西口から降りて、大通りから一本外れた入り組んだ道を歩いた先の雑居ビル一階に、彼女の目当てのラーメン屋『一徳』があった。

「暑いときには辛いものを食べたい」と言う人がいるが、馨は生まれてこのかた、この意見に賛同したことはただの一度もない。暑いときには冷たいものを食べればよろしい。それが自然の摂理であるとさえ思っている。

「イヤだイヤだ」と声に出さずに呟きつつ店の扉を開けば、その瞬間に香辛料を含んだ空気が全身を包んで肌がヒリヒリする感じがある。それだけでも胃の奥から嫌な汗をかく気がするのに、ちょうど店から出ていくところだった、パジャマめいた水色の服を着た男性がぼろぼろ涙をこぼしていたのを見て、早くもとんでもない辛さを予感して、馨は余計に嫌になった。

 店は十人ほど並んで座れるカウンター席と、四人掛けのボックス席の組み合わせで出来ており、カウンター席からは厨房が見える造りである。ピークの時間を過ぎているためか、店内に客は数人しかいない。
すぐに席へと通されたふたりのカオルは、店のおすすめである激辛みそラーメンなるものを注文した。辛さのレベルは最大10まであるうちの8。これにトッピングを乗せれば辛さレベル10になるらしいが、そこまでする勇気はふたりには無い。

 料理が来るのをボックス席で待つふたりは、罰が下されるのを待つ罪人の如くそわそわしつつ会話した。

「喫茶店でのんびり読書の後は、ラーメン屋で激辛グルメ。慌ただしいですね」
「失礼な。充実してるって言ってよ」と返す香は貧乏ゆすりが止まらない。
「言い方が違うだけですね。しかし、毎日こんな風にバタバタしてるんですか?」
「普段はこんなんじゃないんだけどね。平日は、朝ご飯とか夕飯とか、夜のニュースとかがぼんやり見えるくらいだしさ。でも、土日祝日と、大型連休になると、決まってやたらと忙しいんだよ」
「テーマパークみたいなスケジュールですね」

「笑いごとじゃないよ」と香が唇を尖らせたところで、ふたりのもとにラーメンが運ばれてきた。マグマを思わせる赤いスープが、大火事の未来を予想させた。





 結論から言えば、香はラーメンで涙を流すことはなかった。その一品は確かに辛く、だらだらと汗がこぼれたものの、泣くほどではない。尖った辛みをトッピングの野菜炒めが緩和し、ずるずると食べ進められて大変美味であった。未だ昼食を食べておらず空腹だった馨は、思わず替え玉を注文したほどである。

 会計を済ませて店を出た直後、香は満腹になった腹をぽんぽんと叩きながら息を吐いた。

「失敗だったねぇ。なんだったんだろ、あの大泣きしてた人」
「大げさなだけでしょうね。それで、次はどうします? やっぱり、ワサビ買ってきましょうか」
「だからワサビは最終手段だって。次言ったらデコピンだよ」と安易な方法に強めのNGを出した香は、難しい顔をしながら携帯をいじった後、「映画かな」と指針を定めて歩き出した。

 ふたりが向かったのは、池袋駅東口から歩いて十分あまり、サンシャイン通りの中頃にある『HUMAXシネマズ』という映画館である。ビルの中にある映画館で、スクリーンはさほど広くないものの、全体的に小奇麗な造りで落ち着いて鑑賞ができるのが特徴だ。

 券売所は一階にあり、購入するには屋外に並ぶ必要がる。行ってみれば、二十名ばかりの人が列をなしており、夏休みということもあり平日でも客入りはそれなりのようだ。

 最後尾に並んだ馨は、「なにを見るんですか」と香へ訊ねる。彼女が「あれ」と指した方を見れば、『嫌い、顔も見たくない、いますぐわたしの前から消えて』という感情剥き出しのタイトルと、「あなたは、この映画を観て二回泣く」という挑戦的な謳い文句が掲げられた作品のポスターが壁に貼ってある。

 曰く、十代の男女の恋路とジャズと剣道を描いた青春映画らしい。恋とジャズはわからなくもないが、ここに剣道がどう絡んでくるのか予想が付かない。内容のことを想像すると頭が痛くなりそうなので、馨はなにも考えないことにした。

 一方の香は『嫌い』云々へだいぶ期待を寄せているのか、その表情にはやや興奮した様子さえある。

「二回泣く、だって。こりゃもう間違いないでしょ」
「とはいえ、ああいうのはただのキャッチコピーですよ。実際に泣けるとは限りませんって」
「――ああ、その通り。あれで泣ける人がいるとは思えないね」

 突然、割って入ってきた声。振り返ると、ふたりのカオルの背後には見知らぬ女性がいた。身長は一般的な女性よりも小さくくらいだが、顔が小さいためかスタイルは良い。髪は胸の少し上あたりまで伸びているだろうか。黒いレースのブラウスに、白いデニムとサンダルを合わせたコーディネートは、子どもっぽい体躯に反して大人の雰囲気を醸し出している。

「どなたですか」と代表して答えたのは馨である。するとその女性は苦笑し、「すまない」と気恥ずかしそうに言った。

「急に話しかけてしまって、驚かせてしまったようだ。だが、被害者を増やしたくなかったんだ」
「見たんですか、あなたは」
「ああ、見た。正直、失笑モノだったよ。ひとりで見て不幸中の幸いだった。すぐに席を立てたからね」

 彼女の物言いに引っかかったのか、香がずいと前に出た。

「残念でした。わたしはね、見たものしか信じないの。だからまだナイル川の存在は信じてないわ」

 香の反論を「楽しい人だね」と悠々躱した女性は、「では」と軽く手を振って歩いて行く。

「私はこれで。友人と待ち合わせているんだ」

 去っていく女性の背中を眺めながら、香は「なにさ」と呟いた。

「こうなりゃ、意地でもこれで泣いてやるんだから」





 また結論から言えば、香は『嫌い、顔も見たくない、いますぐわたしの前から消えて』で泣くことは無かった。というよりも、冒頭から流れ始めた劇中曲、『ワルツ・フォー・デビー』の心地よい調べと、ちょうどいい効き具合の冷房と、ラーメンを食べた直後という環境に抗い切れず、開始十分も持たずに寝てしまったのである。

 この安眠環境に耐え切れなかったのは馨も同じで、ふたりしてすやすや寝息を立てて、気づけば映画最終盤。ピアノ、ウッドベース、ドラムで構成されたトリオが『枯葉』を激しく演奏する中、ふたりの男子高校生が防具もつけずに竹刀で打ち合うという珍妙な場面で目を覚まし、挙句にまた寝るという失態をやらかした。

 映画館を出たふたりは人の流れに沿って歩く。香はあくびを堪えながら、先の作品へ文句を垂れた。

「ダメだなぁ。全然泣けないじゃん、アレ。何、二回泣くって。広告に偽りアリだね」
「……いやまあ、俺達の鑑賞方法にも問題があったと思いますけどね」
「ノンノン。こういうのはね、興味を引けなかった方が負けなの。つまり、わたしたちを眠りの世界に誘ったアレがつまんなかっただけ」
「そう言われば一理ある気がしなくもないですが……でも、あれに期待してたのはお姉さんですよ」
「お金損したー。だいたいなに、ジャズと剣道って。組み合わせる方がオカシイでしょ」
「……人の話聞いてます?」

 訊ねられるまでもなく人の話を聞かない香は、「よし。こうなったら最終手段」と何かを決意したように力強く頷きつつ足を止めた。つられて馨もその場に止まる。通りを行く人々が障害物と化したふたりのカオルを器用に避けて進んでいく。

「カオルくん。この日本には、事実は小説より奇なりという言葉がありますね?」と急に教師風の口調になった香が、こめかみのあたりをピンと立てた人差し指で軽くこすったのは、掛けてもいない眼鏡を直したのだろう。

「ありますけど。なんです、急に」
「わたしは今日、小説でも映画でも泣けませんでした。そこで思ったんです。人間は、実際に起きた出来事にこそ、涙を流すんじゃないかって」
「……まあ、ドキュメンタリーとかありますからね」
「そうです。見なさい、このサンシャイン通りを。いろいろな人が集まってる。この人達は、それぞれ様々なドラマを抱えているわけです」

 嫌な予感が喉元へと急速に迫るのを感じながら、馨は「つまり?」と先を促す。

「こっからは、泣ける話を持ってる人を探す方向にシフトします。各々気合を入れて、そういった人達を探しましょう。では、いったん解散!」

 力強く宣言する香を見て、馨はかぐや姫に無理難題を押し付けられた五人の皇子の気持ちがわかったような気がした。
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