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二十五粒目 約束

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 その日、馨は夢を見た。まだ生きていた頃の母の夢だ。母は彼に語り掛ける。かつてのように他愛のない話だ。馨はそれに笑って応える。かつてのように屈託のない笑顔だ。

 馨はこれを夢だとわかっていた。この世界に母はもういないのだと、彼は悲しいまでにきちんと理解していた。こんなものを見続けていても、目が覚めた時に虚しくなるだけだとわかっていた。

 それでも彼は夢の中の母の言葉に耳を傾けた。少しハスキーな優しい声が、彼の鼓膜をくすぐった。

「カオル。外に遊びに行くなら気を付けなさい。あなた、時々ぼーっとするところがあるんだから」

 ――そういえば、母さんは心配性だったな。

 そんなことを考えたその瞬間、朝の光が彼のことを夢の世界から呼び戻した。





「――おい、馨。朝だぞぅ」

 父の声と共に、カーテンを開く高くて軽い音が響いた。朝でも強い夏の太陽の光が、馨の眼球をまぶたの上から刺激する。夢から突然引っ張り上げられる形となった馨は、上半身を起こして大きく伸びをし、惚けた頭に血流を送り込もうとする。寝ぼけ眼で目覚まし時計を見れば午前八時半過ぎ。いくら夏休みとはいえ、いつもであれば七時には起きている彼にとっては寝過ぎと言えた。

「珍しいこともあるもんだな、馨が寝坊なんて」
「うん、いい夢見ててね。ちょっと、起きたくなかったな」

 馨の答えを聞いてどこか寂しそうに笑った父は、「朝飯、もうできてるぞ」と彼の額を指で突いた。

 着替えや洗顔など朝の支度を済ませた後、リビングへ向かって食卓に着く。テーブルの上に並んでいるのは、父の手作りフレンチトーストにサラダに牛乳。料理のできないはずの父がフレンチトーストだけは作れるのは、母が「これくらい出来るようになって」と必死に教え込んだからである。

「いただきます」と挨拶してから、馨が早速ナイフとフォークを手に持ったところで、食器を洗っていた父が彼へ声を掛けた。

「馨。今日の夜は予定空けとけよ」

「どしたの、急に」と馨はフレンチトーストを切り分けながら答える。

「回転寿司屋、近くにできたんだよ。行くぞ」
「そんな意気込んで行くとこでもないでしょ。それに、日曜の夜じゃ混んでるんじゃないの?」

 すると、父は馨に聞こえるように大きなため息を吐き、それからこれまたわざとらしく、がっくりとうなだれた。

「……そうだよなぁ。お前は実のオヤジよりも、例の美人の〝長瀬さん〟の方がずっといいモンなぁ」
「そ、そうは言ってないって」

 慌てて馨が否定すると、父は肩越しに彼の方を振り向く。片方の口角だけ吊り上げたその笑い方は、ふざけた時の父がよく見せる表情だった。

「とにかく、決まりだ。でも、もし長瀬さんに誘われたらそう俺に連絡するように」
「先延ばしにしてくれるってこと?」
「いんや、一緒に寿司でも食いに行きましょう、って誘うんだ」

「わかった。なにがあっても絶対に連絡しない」と馨が真面目な顔で答えると、父は声を上げて笑った。

 今日もまた何てことのない日常がはじまる。





 馨が『しまうま』に着いたのが午前九時半のこと。開店までまだだいぶ時間があるが、今日が日曜日ということを考えれば、この時間に来てランチ用の仕込みをやっておかねばならないので仕方ない。

 店の扉を開けた馨は、キッチンの奥にいるはずのマスター室藤へ「おはようございます」と挨拶を飛ばす。間も無くして返された「おはよう」という声は、いつもながらのバリトンボイスだ。

 キッチンの奥にある従業員控室で、馨がエプロンを付けるなど始業の準備をしていると、マスターが音も無く部屋に現れた。隠密めいた動きはいつもの通りだが、やや目を伏せた申し訳なさそうな表情が悪いことをした子犬みたいでどこか妙だ。

「窪塚くん、ちょっと頼みがあるんだ」と室藤は頭をかきながら言う。「どうされました?」と馨が問えば、彼は言いにくそうに言葉を並べた。

「弟が、池袋でレストランを営んでいてね。そこのバイトの子がひとり体調を崩したみたいなんだ。それで、急なんだけど、今からその店まで行って手伝いをしてもらえないかなって」

 いくら相手が自分で雇っているバイトの学生とはいえ、気が弱いところのあるマスター室藤にとっては、この程度の依頼でも頼みにくいところがあったのだろう。馨は「室藤さんらしいや」と内心で笑いつつ、「いいですよ」と軽く請け負った。

「でも、夜遅くまでにならないのが条件です。今日はちょっと用事があるので」

 馨の答えを聞いて心底安堵したらしいマスターは、「ありがとう」と胸を撫で下ろし、それから「じゃあ、これ」とポケットからアポロチョコの箱を取り出して馨へ渡す。お礼のつもりということは明らかだったが、「もしかして交渉の切り札にしようと思っていたのだろうか」なんて考えれば、とうとう笑いが表面に出てきそうになった。

「あ、もちろんバイト代はきちんと出すから。弟にしっかり色もつけさせる。そのチョコだけで終わりってわけじゃないからね」

 慌てて付け足された彼の言葉に、馨が「もちろん、きっちりお給料は貰うつもりですよ」と従業員としての権利を主張したその時、「おじゃましまぁす」と声が響いた。店にやって来たのは香である。まだ開店前の時間に堂々と現れる彼女にも、馨はもうすっかり慣れた。

 控室から出てみれば、満面の笑みを浮かべた香はカウンター席に腰掛けて鼻歌を歌っている。恰好はコットンの白いワンピースに黒のサンダル、カンカン帽。よほど良いことがあったのだろうかと思いつつ、馨は彼女へ声を掛けた。

「なんかずいぶん楽しそうですけど、どうされました?」

 すると香は何も言わずにアポロチョコの箱を取り出し、ざらざらとふた粒手に乗せた。うち一粒は馨へ渡され、いったいなんだと彼が困惑していると、「かんぱーい」と明るい声を上げた彼女はチョコを頬張る。食べなくてはいけないのかなと思い、馨は渡されたチョコをとりあえずかじった。

 マスター室藤が「いらっしゃいませ」と言いながらキッチンから出てきたのはその時のことである。彼の登場を拍手で歓迎した香は、「待ってました!」とまるで歌舞伎の観客みたいな掛け声を上げた。これを受けたマスターはあまりに突然のことに驚いて目を白黒させ、呪われたみたいにその場で固まった。

「……あの、室藤さんがどうかしましたか?」
「今日のわたしの未来なの。ひげのマスターさんに会う。これで終わり」

 なるほど。早々に日々のノルマを達成出来るからこその上機嫌だったわけだ。理解した馨が嬉しくなったのは、道連れとしての習性以上に、少なくとも今日は彼女が心安らかに過ごせると思ったからである。

「てことでカオルくん。今日、バイト終わったらどっか行かない?」

 瞬間、父のしたり顔が馨の頭に過ぎる。脳内の父が「ほら誘えすぐ誘え今誘え」と煽ってくるのを無視した彼は、即座に「すいません」と頭を下げた。

「今日の夜は用事があるんですよ」
「なに? わたしよりも大事な用事?」

 ちょっと不機嫌そうな香の瞳が馨を睨む。「いやそういうわけではなくてですね」と彼が慌てて否定すると、一転、香は笑顔になった。

「じょーだんじょーだん、気にしないでよ。じゃ、明日とかは?」
「ええ。明日なら必ず」
「りょーかい。じゃ、約束」

 馨の眼前に香の小指がそっと差し出される。「はい、約束です」と答えた彼は、彼女の細い指に自らの小指を絡めた。
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