涙色ミルキーウェイ

保桜さやか

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【番外編】彦星の受難

8、彦星の隠れ家

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「……ま、いっか」

 葛藤は、続いている。
 このままでいいのか、どうかって。
 それでも頭の中の天秤が予期せぬ方向へと傾き始めていた。

「今帰っても朝帰ってもどうせ怒られるだろうし」

 絶対にそういうことではないとわかっていたのに、いつの間にか都合のいい言い訳を探していた。
 終電が走り出す時間まで、あと二十分弱。
間違いなく今引き返せば、乗ることができる。
 でも、後戻りはできなかった。
 自転車にまたがり、乗るよう伝えれば、彼女が素直にまた後部に腰掛け、再度腹部に手をまわしてきたからだ。
 このまま逃げてしまいたいと思ってしまった。
 彼女を救えるのは自分だけなのだと、錯覚までしたほどだ。
 普段何気なく見ていた景色が、色を変えて見えた。
 ギリギリまで肯定と後悔を繰り返しながら、結局向かった先は自宅だった。
 ペダルを漕ぎながら葛藤は続く。
 今なら間に合う。
 まだ間に合うのだと何度も何度ももう一人の自分が脳裏の向こうで叫んでいた。
 それでも悪魔を宿した自分自身が走行速度をあげ、その声を遠く遠くへ流していった。
 角を曲がったところ見える『 STAR LIGHT 』と書かれた喫茶店の前で自転車を止める。祖父母が営んでいる店だ。

「しょぼいけど、野宿よりはいいだろ」

 その言葉はほとんど自分へ言い聞かせていた。

「こっち」

 自室のある方向を指差し、振り返るとはっとしたように頷き、マミちゃんはついてきた。
 建物の裏側にある自室へと続く脇道を通っている間もずっと矛盾した感情は葛藤を繰り返していた。
(今ならまだ……)
 腕時計どころか、スマホさえ見られなかった。

「こっちはじいちゃんたちが住んでいて、俺はこっち」

 裏庭にポツンと建てられた離れの前で、ここが自室だと告げると、すごい!と彼女は小さく呟いた。
 一生懸命混乱した脳内を落ち着かせようとする俺とは裏腹に、興味津々に今まで見たこともない表情であたりを見渡すマミちゃん。
とても静かな夜だった。
 真っ暗な庭先で、月明かりだけに照らされた彼女がここにいるのが都合のよい幻覚のように思えた。
 後戻りができないと感じられたのは、入口の戸を開いてすぐに見えた時計の針がもうすぐ十一時半を指そうとしているのが見えたからだ。
 もう、間に合わない。
 とにかく、朝のままだった室内を慌てて片付け、閉め切っていた窓を豪快に開ける。
夜風が心地の良い季節で良かったと思う。
『どうぞ』というと『お邪魔します』と彼女がおずおずと入室してきた。
 マミちゃんがあまりにもこのお粗末な部屋とは似つかわしくなくて、まるで夢を見ているような不思議な心境だった。
 いや、普段にはない光景に少しずつ落ち着かなくなってきていた。
 こんなところにつれてきて、どうするつもりなのか。冷静なもうひとりの自分が俺自身の頭に冷水をぶっかけてきた気分だった。
わからなくはない。でも、脳内が混乱している。
 目が合って小さく笑った彼女に手を伸ばしたくなるのをぐっとこらえる。
(いやいやいやいや、ちょっと待て!)
 思考回路がまるで自分の物ではないみたいだった。
 彼女に対して、もっともしたくなかった想像が脳内をよぎり始め、必死に頭を振る。
 いつもとは違う、夜の魔物に心を乗っ取られそうだ。

「あ、変な本が置いてあっても平気だよ」

「……いや、ないし」

 こちらの気も知らないでじっと見つめてくるマミちゃんに『あんまり見ないで』と力なく告げた。
 言葉ひとつひとつに敏感になっていて、どの言葉が引き金になるかわからず自分でも怖くなった。
 嫌な感情はどんどんどんどん大きくなる。
ふふっと瞳を細めて笑う彼女から視線が離せない。

(マミちゃん……)

 セイ、ともう一度呼んでほしい。
 少しずつ、夜の魔物に支配されていく。
 このまま手を引いて、もう一度抱きしめたら、きっと彼女は抵抗しないだろう。抱きしめて、キスをして、そのまま押し倒しても……

「あ……」

 視線を上げた彼女は一瞬表情を無にし、ぐっと唇を引き結んだ。少しずつ緩んでいく大きな瞳からすっと一縷の涙が流れ落ちた。
 時間が、最後の電車を連れて行ったのだろう。見なくてもわかった。
 伸ばした手で、軽く彼女の手に触れた。
 このくらいなら許してほしい。

「セイ、ありがと……」

 言葉とともに顔をくしゃっとさせた。
 まるで緊張の糸が切れたように。

「……っ」

 泣いていた。
 マミちゃんは小さく声をあげて泣いていた。
 それでも、ポロポロと涙をこぼしながらも彼女の瞳は光を宿していて、先ほどとは違ってどこか満足げな表情をしているように見えた。
 わかっている。
 こんなにも弱っている彼女に何かできるはずなんてなかったのだ。
 俺は無力だ。
 苦しんでいる問題から彼女を救い出してやることもできない。せいぜいこんな小さなところに閉じ込めるのが精一杯だ。肝心なときに、大丈夫とも言えない。
 遠くに連れて行くと言いながら、何一つ叶えてあげられることができない。
 肩を震わせる彼女に寄り添うしかできない自分がひどくもどかしかった。

「マミちゃん」

 思い出には変えたくない。でも、

「ここ、自由に使って。俺は向こうに行ってるから」

 俺にはもう無理だった。
 好きな人を救えないどころか、傷つけることしかできない自分がひどく嫌だ。

「セイ……」

 必死に感情を隠し、立ち上がろうとしたとき、困惑した表情のマミちゃんに腕をつかまれた。
 そんなかわいいしぐさでさえ、今は身の毒でしかない。

「大丈夫。俺はじいちゃんちで休むから」

 何が大丈夫なのかわからないけど、想像している以上に混乱していたのは確かだ。
 油断をするとこのいつもとは違う雰囲気に飲み込まれそうになる。

「セイもいて」

「いや、でも……」

 絶対にダメだ。
 それだけは脳内が危険信号を点滅させている。

「セイ、ごめん。でも……」

 ダメだ。でも離れたくない。いや、やっぱりダメだ。

「マミちゃん」

 自分でも驚くほど低い声を出していた。

「……えっと、俺も一応健全な男子高生なわけで、マミちゃんに嫌われることはしたくない」

 脳内で、ヘタレ……ともう一人の自分が繰り返した。
 きっといつか思い出したときに苦しくなる日は来るだろう。
 きっと、思い出して、この日を悔いる日が来るだろう。
 だけど、こんなにも壊れてしまいそうな彼女に何かするなんて、絶対にでき……

(えっ……)

 思った時、何かが唇に触れた。
 それがマミちゃんのものだと気付くまで時間はかからなかった。

「マミ……」

「せ、セイがすることだったら嫌いにならない」

 思考回路が停止した。
 ただ、ここにいては絶対にまずいと脳内で警戒ランプが全開に作動したのは確かだった。
 響いていた。かなりの爆音の警告音が。

「……っ」

 とっさに、マミちゃんの手を振り払っていた。
 それも、力いっぱい。

「ご、ごめっ……」

 その時の彼女の顔は二度と忘れることはないだろう。

「あ、明日の朝、迎えにくるから」

 振り返ることはできなかった。
 最終電車を見送ったあの時間が、俺たちの分岐点だった。
 でも、俺はその手を取ることを拒んだ。
 彼女を連れて、天の川の向こうへ渡ることができなかった。
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