cognition-コグニション-

山本ハイジ

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 西暦四×××年、ゲノム(遺伝情報)の編集が当たり前になり、それを受けられる富裕層のデザイン人間と受けられない貧困層の非デザイン人間の間に絶望的なまでのカーストが生まれた――が、そんな設定はどうでもいい。
 そこそこの権力者で、そこそこの金持ちであるドムはその日の夜、道端に捨てられていた犬に気がつき車を停めさせた。
 冬である。全裸で縮こまり、震えている哀れな犬に車から降りて近寄る。
「大丈夫かい?」
 降ってきた優しげな声に犬は手術でつけられた茶色い耳をぴくりと震わせ、両膝に埋めていた顔を上げた。非デザインのわりに綺麗な顔だった。
「綺麗な犬じゃないか……飼い主は何を考えているんだ。おい」
 ドムは車を運転させていた使用人を呼び、犬を後部座席に乗らせた。ドムがその隣に座り、着ていたスーツが汚れるのも気にせず犬の肩に手を回し抱き寄せる。犬がびくっと小さく跳ねた。犬はこんなことご褒美以外でされたことがない。
「もう大丈夫だ。私が新しい主人だよ。君の名は……そうだな、サブにしよう」
 冷え切った犬の体に体温を移してやるように抱いたまま、ドムは名づける。
「……はい、ご主人様。僕はサブです」

 車は西洋の懐古趣味的な屋敷に着く。地面から数センチ上の空中で停まる車から使用人の手で、弱っているサブを四つん這いで歩かせてはいけないと抱えて降ろさせる。
 そのまま一同は屋敷の中へ入り、甲冑や絵画が飾られた廊下を進み居間へ向かった。
「サブを椅子に座らせろ」
 ドムはサブに慣れていないであろう姿勢を取らせていいものなのか少し悩んだが、使用人に命じ長方形の食卓の椅子にサブを座らせる。ちゃんと床に足を下ろさせる。
 椅子の上でサブは不安げに尻尾を丸めた。ひどい猫背だったが、ドムは寛容する。使用人にミルクリゾットを持ってこさせ、サブの前に置いた。
「あの……僕、」
「お食べ。食べやすい方法でいいから」
 こんなの食べたことないです、と続けようとしたサブを遮りドムは促す。サブは恐る恐る、湯気の立つ皿に顔を近づけ口づける。
 あったかくて、まろやかで、甘くて、しょっぱくて――経験したことのない圧倒的な美味にサブの食は逆に進まなかった。
「無理しなくていい。good boy!」
 半分も減っていないミルクリゾットの皿をドムは下げさせた。
 それからサブを使用人に浴場へ運ばせ体を丁寧に洗わせ、その間ドムは寝間着に着替え自らの寝室のベッドの中に入り、布団をまくり運ばれてきたサブを手招きした。
「あの……、」
 主人のベッドで寝るなんてとんでもない、と続けようとしたサブを使用人がベッドの中へ突っ込む。ドムがそっとサブの裸身に布団をかけ、抱きしめた。
「いつか服を着せることができたならな……今は違和感がすごいだろうから急かさないが」
「服なんて、そんな……」
 反抗してしまうようで、サブは続けられなかった。ドムはすぐに寝息を立てはじめる。
 経験したことのないあたたかさと、ふかふかとしたベッドの感触にサブはなかなか眠りに落ちれなかった。間近でドムの彫りの深い顔立ちと、目元にかかる金糸のような髪を見つめる。デザイン人間は綺麗だ。

 デザイン人間は神であり、自分たちは卑しい畜生。常識であるというのに、新しい主人は変わった人だとサブは思う。
 前の主人はデザイン人間らしく、美しく、厳しかった。
 非デザインの収容施設から買われ、耳と尻尾を手術でつけられ、飼われることになった主人の屋敷へ連れてこられた時。
「今日からお前は私の犬だ」
「はい……」
 監獄のような施設と比べ、赤い絨毯の敷かれた豪華な屋敷に美しい彫像のような顔の主人。薄暗くしている主人の自室の窓から月光が後光のように主人に射し、銀糸のような髪を輝かせ神のようだった。
 施設よりいい暮らしができるかも知れないとサブは期待を抱いたが、突然腿に走った強烈な痛みに体勢を崩し、抱いた期待は絨毯に落とした。
「痛ッ……!」
「犬なら四つん這いだろう? なにボーッと突っ立っている?」
 主人が腰に吊り下げている鞭を抜き、目にも留まらぬ早さでサブを打ったのだ。降ってくる冷たい声にサブは震え、耳と尻尾を垂れながら絨毯に両手足をつく。
「ごめんなさい……」
「good boy! 食事はまだだな?」
 こくんとサブは頷く。主人は脳に埋めたコンピュータにアクセスし、使用人に連絡をする。やがて使用人が薄暗い中キラリと光る器を手にやってきた。
 サブの前に置かれたそれは、ミルクでふやかしたドッグフードが盛られた銀の餌皿だった。
「今日からお前の餌はそれだ。残さず食え」
「は、はい……」
 恐る恐るサブは口をつける。施設では味のしないキューブの餌を与えられていたから、わずかに肉や野菜の風味がする乳臭いべちゃべちゃした餌は不快に感じた。しかもキューブは一粒で十分な栄養を摂れるものだから食事はすぐに終わったが、これは長い。
 嘔吐(えず)き、食事が止まるたびに鞭が飛んできた。どうにか餌皿を舐めてまで綺麗にすると、主人は厳しかった表情をやわらげる。
「good boy」
 主人が屈んでサブの頭を撫でる。一瞬、サブの中があたたかくなった。
「そろそろ寝よう。お前の寝床はここだよ」
 室内の隅で光っていた銀の檻を主人が開ける。サブは四つ足で檻の中へ入ると横たわった。何も敷いてない。施設では小さくて硬くはあったがベッドがあった。
 褒めてもらえることや、頭を撫でてもらえることはなかったが。

 目が覚めたサブは視界に鉄格子が映らないことと、ふかふかとした感触に一瞬混乱した。ドムのにおいと体温はない。
「おはよう、サブ。朝食ができているよ」
 重厚なドアが開き、ドムの声がするとサブは跳ね起きた。
「ごめんなさいっ……!」
 主人よりゆっくり寝てしまうなんて! と、サブのぬくぬくとしていた身は布団から出たことと関係なく一気に冷える。
「そういうのいいから……はやくおいで」
 ベッドの上で土下座するサブにドムは困ったように、悲しんでいるように眉を下げた。
「は、はい……」
「サブ、二足歩行で居間まで行けるかい?」
「やってみます……」
 ベッドからそっと足を下ろし、立ち上がり、数歩いったところでサブはよろめいて派手に転んだ。人間の歩き方などとうに忘れている。
 鞭が飛んでくるかとサブは覚悟したが、覚えたのは激痛ではなく、小走りに寄ってきて優しく抱き起こしてくれたドムの体温。
「大丈夫だ。少しずつでいい」
「ごめんなさい……」
 サブは居間へ連れて行かれ、スクランブルエッグとベーコン、こんがりとしたパン、澄んだコンソメスープが並ぶ食卓の椅子に座らされた。不安げに尻尾を丸めるサブに出来たらでいいからとフォークとスプーンが渡される。
 朝食をぐちゃぐちゃにしたうえ、半分ほど残したがサブは当たり前のように許された。
 ――ご主人様は僕に人間の真似事の芸でもさせたいのかな? 犬が人間のモノマネをしていたらおかしくておもしろいのかもしれない。
「サブ、よかったらこれを着て」
 朝食後、サブの肩にふわりとドムは布をかけた。
「チクチクしないね?」
「はい、大丈夫です……ありがとうございます」
 それはさらさらとした触り心地のいい薄手のガウンで、常に裸であり布をまといつづける感覚に慣れていないサブでもさほど違和感は覚えない。
 それから壁に手をつきつつ、無理のない程度にサブは二足で歩く練習などをして過ごした。
「サブ、休憩にして庭でお茶にでもしよう」
「お茶も飲んだことないです……」
 こんな優しい練習で芸を覚えられるのか不安になりつつサブは、ドムがニコニコ笑いながら開けた窓を通る。広々とした庭の緑が光るほどよく晴れていて、それほど寒くなかった。
 テーブルの上、使用人たちが用意してくれたのは華奢で繊細な作りのカップに注がれた湯気の立つ琥珀の液体と、小皿に盛られた赤や青や緑や透明のきらめく小石のようなもの。紅茶という懐古趣味らしい飲み物の味は知らないが、サブは宝石と呼ばれる菓子の味は知っていた。
 ――ご主人様がくれたご褒美。
「サブ、あれ」
「はい……?」
 椅子に座らされどうしても猫背になるサブに、テーブルに着いたドムが庭の隅を指差す。背丈が高く、垂れた赤紫の花を咲かせた植物の根本に石が立ててあった。
「不老不死、愛が続くという花言葉の花のそばに立てた石……最近まで飼っていた犬の墓なんだ」
 ドムが悲しげに、愛おしげに目を細める。
「君たちは厳しく扱われて、不健康だから短命なのがいけない。それが常識で、私も疑わなかったから……実は愛していたのに」
 ――違う。このご主人様は僕のことを

「お前を立派な犬にしてやろう!」
「あッ、ごめんなさいっっ……!」
 銀色の主人が床に転がしたサブに鞭を振るう。
「痛いッ、許してくださいー……!」
 四つ足での生活中、うっかり立ち上がりかけてしまったのだ。身を丸めて、切られるような痛みにサブは耐える。
「許してください、じゃない。ありがとうございます、だ」
 鞭の手を休めて、主人は細い眉の片方を上げる。
「お前ら非デザインは人間の生活は送れないのだから、どこに出しても恥ずかしくない犬にしてやろうとしているのだ。これは慈愛だよ」
 鞭がまた振られ、慈愛による痛みがサブに与えられる。
「あうっ、……ありがとう、ございます」
 鞭が止まる。主人は屈んでミミズ腫れだらけの肌を慰撫するよう撫でさすった。
「good boy」
 ぎゅっと閉じていた目を開けたサブの視界に、慈母のような笑みを美貌に浮かべた主人が映る。サブの中があたたかくなる。
 慈愛……。収容施設はどうだっただろうかと、サブは思い返す。いけないことをしたら看守のアンドロイドが電流を流してくる。それだけだった。
「ほら、犬らしく取ってこい」
 唐突に主人が上着のポケットから何かを取り出して放る。キラキラしながら曲線を描き赤い絨毯に落ちたそれをサブは目で追い、四つ足になるとヒリヒリと痛む体でどうにか向かった。
「くわえて、私のところへ持ってくるんだ」
 紫色のきらめく小石を唇で挟むと、味わったことのない強烈な甘味を感じサブの動きが止まった。脳髄にまで届くような――砂糖の麻薬的甘さ。
「はやく!」
 はっとしてサブは主人のところへ戻ると頭を上げて、くわえた宝石をよく見せるようにした。サブの口の端からよだれが垂れているのを見て、主人は笑みをこぼす。
「good boy.それは褒美に食べていいぞ」
 歯を立てると硬そうな宝石はクッキーのようにサクサクほろほろと砕け、アメのようだがアメほどくどくない甘さがサブの口内に広がる。サブは尻尾を無意識に立ち上げ、ぶんぶんと振った。

「サブ、そのキラキラしたやつは宝石というお菓子だよ。食べてごらん」
「はい……ありがとうございます」
 ――人間にしたいのか?
 ちびちびと紅茶を舐めるよう飲みつつ、サブは小皿の宝石をひとつ取り口にする。クッキーのようなアメのような懐かしい味を感じても、サブの尻尾は立ち上がらなかった。
 真似事ではないのだとわかると、庭でのお茶会だなんて――そもそもサブにとって庭は地面に穴を掘り、トイレに使わせてもらう場所だった――畏れ多く、居心地の悪さが一気に増したからだ。
 それからサブは二足で歩く練習を再開し、豪華な昼食を食べ、その後はドムがサブに開くと3D映像が現れる絵本を読んでやり、豪華な夕食を食べて時間は過ぎていく。人間になるための練習なのだから優しいのは当たり前だった。
 自分で自分の体を洗えるよう教わりながら浴場で入浴を済ませ、薄手のガウンをまた着せられたサブが使用人に寝室まで運ばれると、ドムが寝間着姿でベッドに寝て布団をまくっている。
 使用人が抱えていたサブをそっと下ろす。サブは二足でヨタヨタと歩き、ベッドに近寄れるとすっ転ぶよう倒れた。ドムは期待に応えてくれたサブに布団をかけてやり、強く抱きしめる。
「good……いや、もうこんな上から目線の褒め方やめよう。つい癖で出てしまう、すまない。よく歩けたな、サブ。えらい。これから少しずつ一緒に頑張ろう」
「…………はい、ありがとうございます。ご主人様」
「もうその呼び方もやめ……何してるんだい!? やめなさい!」
 サブの手がドムの股間を布地越しに撫で回していた。思わずドムは声を荒げ、サブの手を掴み奇行をやめさせる。
「……お世話になっているお礼のつもりでした。嫌でした? ごめんなさい」
 しゅんと耳を垂れるサブにドムは何かに気がついたように目を見開いてから、優しく言う。
「怒鳴ってすまなかった。私は君を性奴隷にもする気はない」
「はい……」
 性奴隷に『も』……。
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