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「マリアはどこに行ったんだ?」
「さっきこっちの廊下を通っているのを見たんだがな……」
自分を探す複数の声から隠れるように廊下を走る。
今は、彼らの相手をする余裕がない。
記憶を頼りに角を曲がって、見上げたそこに思った通りの札が下がっているのを見て、安堵の息をつく。
――保健室。
ノックもそこそこに、逃げ込むように扉を開けた。
「すみません、少し休憩させて……」
「あら」
思いがけない声にぎくり、と身を震わせる。
「マリアさんじゃありませんか。体調がお悪いのですか?」
――なんであんたがここにいる!
豪奢な金髪の巻き髪。アメジストの輝きを宿す瞳。女性的な曲線を描く姿態。
不本意にも級友であるパトリシア・エヴァンス公爵令嬢が、養護教諭の椅子に腰かけていた。
「すみません、間違えました」
「お待ちなさい」
たったいまくぐったばかりの扉からさっさとトンズラをかまそうとすると、背後から伸びてきた手に扉をトン、と押さえられる。
小柄なマリアの背に覆いかぶさるようにして、長身の公爵令嬢は立っていた。
――なんで私がこの女に壁ドンされてんのよ!
しかも後ろから。ちょっと上級者テクである。
「あなた、お顔の色がすぐれなくってよ。だからここに来たんでしょう?」
耳元で囁くように話すのはわざとだろうか。豊かなふくらみが背中に当たっている気がして、同性なのに落ち着かない。なんかいい匂いまでするし。
「とりあえずベッドで休んでいきませんか? 今ちょうど、誰もいませんし」
「私は養護の先生に診てもらいに来たんです! あなたじゃな――うっ」
ぎゅうっと下腹部に激痛が走って、言葉の途中でうずくまってしまった。
冷や汗がにじみ出てくる。
下腹部をかばうように抱え込んで、痛みの波が去るのを待っても、全然良くならない。
――もういやだ。
柄にもなく弱気になる。
今日は特に痛いし、なのにみんな気遣ってくれるようでくれてないし、やっと休めると思ったら大キライなやつに会うし、もう散々だ。
すぐそばに敵がいるのに、絶対に弱みなんて見せたくないのに、目の端に涙が浮かんでしまいそうになったとき、上からやさしい声が降ってきた。
「お辛いんでしょう。……ちょっとごめんなさいね」
不意に、あたたかいぬくもりを腰に感じた。それは、じんわりと下腹まで広がって、さきほどまでは永遠にひかないのではないかとすら思われていた痛みが、だいぶ楽になった。
「軽い癒しの魔法をかけました。副作用があるような強いものじゃないから、心配しないで」
さあ、痛みが落ち着いている間に、こちらで横になりましょう。
どこまでもこちらを労わる響きを持つ声に、ふらふらと導かれるように部屋の奥へと進む。いくつか並ぶベッドのひとつに横たわると、お日様の匂いのする布団を、ふわりとかけてくれた。
「なんであんたがここにいるの……?」
もう猫を被る気力もなくて、素のままのつっけんどんな物言いをしたのに、目の前の令嬢――パトリシアは、いつものようには嫌味を言ってこなかった。
「養護の先生に留守を任されまして」
色っぽい目尻を垂らして、いたずらが見つかった子供のような困り顔。そんな顔見たことない。
なんだか別人を相手にしているような気になってきた。
見た目も所作もあの女そのままなのに、雰囲気がまるで違う。
「すぐ戻って来られますよ。それまで休憩していらしてください」
「いやよ」
子供のような声が出た。
「しんどくってここに来たの。がまんできないくらいしんどかったの。なのになんで、あんたがここにいるのよう……」
「マリアさん」
覚えのあるぬくもりが、ふわ、と背中のあたりを包んだ。布団越しに手を当てられている気配がする。ぶり返しそうになっていた痛みが、再びすっとひいていく。
「私のことは置物だと思ってくださいな。痛いのをどこかにやってくれる、しゃべる置物です」
「置物って」
無理に決まってる。こんな存在感もオーラもありありの置物があってたまるか。
「大丈夫、私はマリアさんの敵じゃありません。……マリアさんは私をお嫌いのようですけれど、私はあなたを嫌いではなくってよ」
「うそ」
「本当ですわよ」
うそだ。
だって、この令嬢はマリアに会うたび嫌味を言うのだ。やれ所作ががさつでみっともない、やれ男を侍らしてはしたない、やれ庶民で特待生として学園に通っているくせに、そんなようでは奨学金を打ち切られるぞ。
学園に入りたてで心細くて、庶民なんか場違いだという疎外感を感じていて、そこでやさしくしてくれた男の子たちに頼って何が悪い。貴族のマナーなんてろくに学んだこともないのだ、仕方ないじゃないか。勉強だって精一杯がんばってる。だけど、最近は月のものが重く長引いて、庶民だから薬なんて高くて買えなくて。男の子たちに相談なんてできないし、彼らは時折体調を気遣ってくれるけど、いつもべったりくっついてきて、たまにはひとりでゆっくりしたくて、でも突き放せなくて――
唐突に、保健室に響くノックの音。
「失礼、ここにマリアはいないか?」
ひゅっと息が詰まった。
反射的に布団に潜り込んでしまう。
今は無理だ。今は、彼らにかわいい女の子の仮面をかぶれない。しんどいのだ。
今は誰かにやさしくできない。
ぎゅうっと目をつむって何とかやり過ごせないかと思っていると、ぽんぽん、と背中を柔らかく叩かれて、背後にあった気配が遠ざかっていく。
「――うわ、なぜ君がここにいるんだ!」
「人を見て悲鳴を上げるなんて失礼ですわね。みなさま揃って、何か御用?」
「し、失礼した。僕たちはマリアを探して――」
「あなた方がご執心の蝶々はここにはいなくってよ」
「な、なんて言い方をするんだ! そもそも君はいつもマリアに――」
「ねえ、声をもう少し落としてくださいません? 奥に休んでいる方がいらっしゃるのです」
「休んでいる者? ……マリアじゃないだろうな?」
「違いますわ」
「本当か? ここで彼女をいじめているんじゃないのか? ちょっと確かめて――」
「あら、彼女ではないけど、他のご令嬢がお休みなのよ。あなた方、体調を崩している女性の寝所に上がり込む気? ……正気かしら?」
しん、と沈黙する男性陣。そして二三捨て台詞を吐いたのち、去っていく気配。
「お騒がせしましたわ」
帰ってきたパトリシアを、布団からもぞ、と目だけのぞかせて見上げた。
「あんた、キャラ変わりすぎじゃない……」
「弱っている乙女の寝室に乗り込もうだなんて無粋な方々、あれで十分です」
「……」
――なんで、なんで、今日ばっかりこんなにやさしいの?
――いつも私に冷たく接するのはなんで?
――やっぱり私のことがキライなんじゃないの?
唇をきゅっと噛んで湧き上がってくる感情を抑え込んでいると、パトリシアがひかえめにこちらをのぞき込んでくる。
「マリアさん、貧血ですね。お顔が真っ青。それにさきほどから痛みもひどいみたい。……失礼ですけれど、月のものが重くていらっしゃる?」
「うるさい……」
「なかなか人には相談しにくいですものね。大丈夫ですよ、とりあえず今は眠って、お体のことはあとで先生とゆっくりお話しなさって」
「ばか……」
「ふふ、おやすみなさい、だだっこさん」
そう、あんたなんて大キライだった。
だって初めて会ったとき、私思ったの。
世の中にはこんなに素敵な人がいるんだって。
何をしていても優雅で、色っぽいのに品があって、取り巻く空気まできらきらして見えて。それこそ物語のお姫さまみたいだなって、強烈に憧れた。
だから、「所作が大きくてがさつ」って言われて、すごくショックで。
だから、だから、大キライになったの。
なのに、こんなのずるい。
いいえ、いいわ、今日だけは一時休戦ね。
今日はそう、ちょっとあんまりにもしんどくて、調子が出なかったの。
だから、うっかり弱っている姿なんて見せちゃったけど、それも今日だけ。
明日からは強くてかわいい私に戻るんだから。
――あら、お帰りなさい。
――ただいま。あれ、誰か来てるの?
――ええ。体調がすぐれないみたいで。でもさっき眠ったところだから、起きたら診てあげて。
――分かった。
夢うつつに、彼女と誰かが話す声を聞いた。
なんだか彼女の声は、さきほどまでのものともさらに違う、甘く溶けるような響きをしていた。
「さっきこっちの廊下を通っているのを見たんだがな……」
自分を探す複数の声から隠れるように廊下を走る。
今は、彼らの相手をする余裕がない。
記憶を頼りに角を曲がって、見上げたそこに思った通りの札が下がっているのを見て、安堵の息をつく。
――保健室。
ノックもそこそこに、逃げ込むように扉を開けた。
「すみません、少し休憩させて……」
「あら」
思いがけない声にぎくり、と身を震わせる。
「マリアさんじゃありませんか。体調がお悪いのですか?」
――なんであんたがここにいる!
豪奢な金髪の巻き髪。アメジストの輝きを宿す瞳。女性的な曲線を描く姿態。
不本意にも級友であるパトリシア・エヴァンス公爵令嬢が、養護教諭の椅子に腰かけていた。
「すみません、間違えました」
「お待ちなさい」
たったいまくぐったばかりの扉からさっさとトンズラをかまそうとすると、背後から伸びてきた手に扉をトン、と押さえられる。
小柄なマリアの背に覆いかぶさるようにして、長身の公爵令嬢は立っていた。
――なんで私がこの女に壁ドンされてんのよ!
しかも後ろから。ちょっと上級者テクである。
「あなた、お顔の色がすぐれなくってよ。だからここに来たんでしょう?」
耳元で囁くように話すのはわざとだろうか。豊かなふくらみが背中に当たっている気がして、同性なのに落ち着かない。なんかいい匂いまでするし。
「とりあえずベッドで休んでいきませんか? 今ちょうど、誰もいませんし」
「私は養護の先生に診てもらいに来たんです! あなたじゃな――うっ」
ぎゅうっと下腹部に激痛が走って、言葉の途中でうずくまってしまった。
冷や汗がにじみ出てくる。
下腹部をかばうように抱え込んで、痛みの波が去るのを待っても、全然良くならない。
――もういやだ。
柄にもなく弱気になる。
今日は特に痛いし、なのにみんな気遣ってくれるようでくれてないし、やっと休めると思ったら大キライなやつに会うし、もう散々だ。
すぐそばに敵がいるのに、絶対に弱みなんて見せたくないのに、目の端に涙が浮かんでしまいそうになったとき、上からやさしい声が降ってきた。
「お辛いんでしょう。……ちょっとごめんなさいね」
不意に、あたたかいぬくもりを腰に感じた。それは、じんわりと下腹まで広がって、さきほどまでは永遠にひかないのではないかとすら思われていた痛みが、だいぶ楽になった。
「軽い癒しの魔法をかけました。副作用があるような強いものじゃないから、心配しないで」
さあ、痛みが落ち着いている間に、こちらで横になりましょう。
どこまでもこちらを労わる響きを持つ声に、ふらふらと導かれるように部屋の奥へと進む。いくつか並ぶベッドのひとつに横たわると、お日様の匂いのする布団を、ふわりとかけてくれた。
「なんであんたがここにいるの……?」
もう猫を被る気力もなくて、素のままのつっけんどんな物言いをしたのに、目の前の令嬢――パトリシアは、いつものようには嫌味を言ってこなかった。
「養護の先生に留守を任されまして」
色っぽい目尻を垂らして、いたずらが見つかった子供のような困り顔。そんな顔見たことない。
なんだか別人を相手にしているような気になってきた。
見た目も所作もあの女そのままなのに、雰囲気がまるで違う。
「すぐ戻って来られますよ。それまで休憩していらしてください」
「いやよ」
子供のような声が出た。
「しんどくってここに来たの。がまんできないくらいしんどかったの。なのになんで、あんたがここにいるのよう……」
「マリアさん」
覚えのあるぬくもりが、ふわ、と背中のあたりを包んだ。布団越しに手を当てられている気配がする。ぶり返しそうになっていた痛みが、再びすっとひいていく。
「私のことは置物だと思ってくださいな。痛いのをどこかにやってくれる、しゃべる置物です」
「置物って」
無理に決まってる。こんな存在感もオーラもありありの置物があってたまるか。
「大丈夫、私はマリアさんの敵じゃありません。……マリアさんは私をお嫌いのようですけれど、私はあなたを嫌いではなくってよ」
「うそ」
「本当ですわよ」
うそだ。
だって、この令嬢はマリアに会うたび嫌味を言うのだ。やれ所作ががさつでみっともない、やれ男を侍らしてはしたない、やれ庶民で特待生として学園に通っているくせに、そんなようでは奨学金を打ち切られるぞ。
学園に入りたてで心細くて、庶民なんか場違いだという疎外感を感じていて、そこでやさしくしてくれた男の子たちに頼って何が悪い。貴族のマナーなんてろくに学んだこともないのだ、仕方ないじゃないか。勉強だって精一杯がんばってる。だけど、最近は月のものが重く長引いて、庶民だから薬なんて高くて買えなくて。男の子たちに相談なんてできないし、彼らは時折体調を気遣ってくれるけど、いつもべったりくっついてきて、たまにはひとりでゆっくりしたくて、でも突き放せなくて――
唐突に、保健室に響くノックの音。
「失礼、ここにマリアはいないか?」
ひゅっと息が詰まった。
反射的に布団に潜り込んでしまう。
今は無理だ。今は、彼らにかわいい女の子の仮面をかぶれない。しんどいのだ。
今は誰かにやさしくできない。
ぎゅうっと目をつむって何とかやり過ごせないかと思っていると、ぽんぽん、と背中を柔らかく叩かれて、背後にあった気配が遠ざかっていく。
「――うわ、なぜ君がここにいるんだ!」
「人を見て悲鳴を上げるなんて失礼ですわね。みなさま揃って、何か御用?」
「し、失礼した。僕たちはマリアを探して――」
「あなた方がご執心の蝶々はここにはいなくってよ」
「な、なんて言い方をするんだ! そもそも君はいつもマリアに――」
「ねえ、声をもう少し落としてくださいません? 奥に休んでいる方がいらっしゃるのです」
「休んでいる者? ……マリアじゃないだろうな?」
「違いますわ」
「本当か? ここで彼女をいじめているんじゃないのか? ちょっと確かめて――」
「あら、彼女ではないけど、他のご令嬢がお休みなのよ。あなた方、体調を崩している女性の寝所に上がり込む気? ……正気かしら?」
しん、と沈黙する男性陣。そして二三捨て台詞を吐いたのち、去っていく気配。
「お騒がせしましたわ」
帰ってきたパトリシアを、布団からもぞ、と目だけのぞかせて見上げた。
「あんた、キャラ変わりすぎじゃない……」
「弱っている乙女の寝室に乗り込もうだなんて無粋な方々、あれで十分です」
「……」
――なんで、なんで、今日ばっかりこんなにやさしいの?
――いつも私に冷たく接するのはなんで?
――やっぱり私のことがキライなんじゃないの?
唇をきゅっと噛んで湧き上がってくる感情を抑え込んでいると、パトリシアがひかえめにこちらをのぞき込んでくる。
「マリアさん、貧血ですね。お顔が真っ青。それにさきほどから痛みもひどいみたい。……失礼ですけれど、月のものが重くていらっしゃる?」
「うるさい……」
「なかなか人には相談しにくいですものね。大丈夫ですよ、とりあえず今は眠って、お体のことはあとで先生とゆっくりお話しなさって」
「ばか……」
「ふふ、おやすみなさい、だだっこさん」
そう、あんたなんて大キライだった。
だって初めて会ったとき、私思ったの。
世の中にはこんなに素敵な人がいるんだって。
何をしていても優雅で、色っぽいのに品があって、取り巻く空気まできらきらして見えて。それこそ物語のお姫さまみたいだなって、強烈に憧れた。
だから、「所作が大きくてがさつ」って言われて、すごくショックで。
だから、だから、大キライになったの。
なのに、こんなのずるい。
いいえ、いいわ、今日だけは一時休戦ね。
今日はそう、ちょっとあんまりにもしんどくて、調子が出なかったの。
だから、うっかり弱っている姿なんて見せちゃったけど、それも今日だけ。
明日からは強くてかわいい私に戻るんだから。
――あら、お帰りなさい。
――ただいま。あれ、誰か来てるの?
――ええ。体調がすぐれないみたいで。でもさっき眠ったところだから、起きたら診てあげて。
――分かった。
夢うつつに、彼女と誰かが話す声を聞いた。
なんだか彼女の声は、さきほどまでのものともさらに違う、甘く溶けるような響きをしていた。
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