出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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中編

14 昔話

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 一目散に逃げだした先は、熱海の海岸沿いを走る県道であった。

 ゴゴゴゴ――!

 まだ音はなっている。それに加え、暗闇の穴はもうすでに空を飲み込んでしまうくらい広がっていた。この闇は夜とは違う。熱海の夜には満点の星が見えるのだが、そこには星の光一つもないただの混沌であった。

「どうやら追いかけては来ていないみたいだね」息継ぎをしながら柏木は言った。
「もう走るのはこりごりだ……」

 雄一は膝に手をついて、がくりと頭を垂れている。

 真太郎も後ろを振り返ったが、老婆が来る気配はなかった。

「ありがとう……ございました」

 柏木は返事をしなかった。遠くの方をじっと眺めていた。動揺しているのだろうか。自分はすり抜けてしまったあの老婆に柏木は当たった。

「これからどうしましょうか?」

 返事がないと分っていても、真太郎は柏木に話かける。彼も柏木の胸中を察していた。

「あった!」

 雄一の声に二人は振り向いた。いつの間にか遠くに行っていた雄一は、二人のことなど全く気にしないで喜々とした顔を向けている。

「何があったんです?」

 駆け寄ってみると、そこは金色夜叉で有名なお宮の松の付近であった。

「僕のカバンだ」

 お宮の松。すぐ隣には貫一とお宮の銅像が立っている。若気の迷いから、恋より金を選んでしまったお宮を貫一が蹴り飛ばす有名な場面だ。普段ならスピーカーから歌も流れているのだが、例の如く聞こえてはこない。

 その足元には雄一の相棒であるグリーンのボストンバッグが置かれてあった。そして、そこは美琴がこの世界で目覚めたところでもあった。

「いやあ。誰かさんから金色夜叉の銅像が有名だっていわれたのを思い出してね。それらしきものがちょうど見えたもんで、ふらっと行ってみると、まさかこいつもここにいたとはね……」

 雄一はまるで孫でも抱きかかえるようにしてボストンバッグを拾いあげると、ふうと息を吹きかけて、砂埃などをさっさと払いのけた。

「良かった……」

 真太郎は、そんな場の空気を読まない雄一を見て、疎むどころか少し救われた気持ちになってしまった。

 その時であった。真太郎がある気配に気が付いたのは。

 雄一の後ろ。そのボストンバッグが置いてあったすぐ近くに、見知らぬ男が立っているではないか。

 柏木も、少し遅れて雄一も、その男に気がついて身構える。3人の間に緊張が走る。しかし、最初に緊張を解いたのは、雄一であった。

「あなたは……」

 その男は黒袴を着ている。整った濃い眉毛のすぐ下にある綺麗な両目で、三人を見つめていた。

「知っているのか?」と柏木。
「み、見たことがあるだけなんだけれど……」

 夢で。
 その言葉に、真太郎は何かを感じた。

「どんな夢でした?」
「えっと……」

 男が海岸沿いを女と一緒に歩いていた夢。白無垢を着た、綺麗な女性。その女性は目が見えなかった。そして突然現れた憲兵たちによって、二人は強引に引き裂かれる。

「泣き叫ぶ女性の声。最後に聞こえたのは銃声だったよ」

 その男はニコリと微笑んで見せた。純粋なその笑顔には、不思議と一切の悪意を感じられない。

 そして一礼。深く頭を下げた男につられ、雄一と柏木も軽い会釈を返した。
 男はまたニコリと笑うと、涼しげな声で、こう語った。

「この世界に迷われた方々でございますね。ご迷惑をおかけしております」

――この世界

「この世界とは? 何を知っているのですか?」
「この世界とは、いわば私たちの夢でございます」
「あなただけじゃないのですか?」

 この男の言葉にいちいち引っ掛かる。真太郎は男から目をはなさずに、その言葉の内にある秘密を覗こうと必死になった。

「奥様だよ」

 今度は雄一が割って入った。男は「はい」と返事をする。

「言葉足らずで申しわけございません。ここは私と私の妻の夢の世界でございます。いや……妻の憧れと申した方がよろしいのかも知れません」

 すべてお話いたします。この世界のことを――。

「まずは私たち夫婦のことからお話いたします。ですが、時間がございませんので、少し駆け足で参ります。邪悪な思想を持った者たちが、よからぬことを企んでいるみたいですので……」



(「後編」へ続く――)

 
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