出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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後編

1 熱海の潮風

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 海岸沿いの舗装された道路には、荷物を載せた大型のトラックが列を作って通り過ぎて行く。

 その道路を挟んだ浜辺の反対側には若松葉が生い茂っていて、自転車に乗った女学生たちが、自転車のベルを鳴らしながら颯爽と過ぎ去っていった。

 戦争も終わり、ちょうど日本が活気を取り戻し始めた頃。更迭された大臣の何人かが、この熱海に別荘をもっているらしい。
 山と海と、そして温泉。東京や横浜といった都会の人間たちにとっては、世の中から隠れるにはちょうど良いこの世界が、隠居という憧れが詰まった不思議な街なのだろうか。
 リンリン――と、自転車のベルがまた聞こえた。戦後という大きな時代のなかでも、制服を着た女学生たちには、その内に秘める自由と溢れるばかりの活気を感じられる。

 夏も盛り。蝉の鳴き声も聞き飽きたころに、大原大作おおはらたいさくはこの熱海にやってきた。

 先の戦争で父と母を亡くし、友までも亡くした彼に残ったのは、これから先の未来と、祖父が建てた熱海の別荘だけであったのだ。

 一七になる大作にとっての熱海は、ほとんど初めての町なのだ。幼少期のころに一度、まだ生きていた父に連れられて訪れたのみ。無口な父と共に楽しくもない釣りをして、ピクリともしない釣り竿を眺めては、空を飛ぶ戦闘機のことばかりを考えていた。

 大作の熱海という町は、幼くもつまらない記憶の中でしか生きていない。
 うみねこの大きな鳴き声が聞こえた。ともに再び若松葉の方から自転車のベルの高い音も鳴る。

 舗装道路から浜辺に降りてみると、照り付けた日差しが真っ白に輝き、赤ん坊の癇癪のような力強く混じりけのない夏が感じられた。太陽に熱せられた砂浜に足跡を残しながら、ゆっくりと海に近づいていく。

 彼の目的地である祖父の別荘は浜辺側ではなく、熱海駅を越えた山側にある。しかし、大作は坂を登るのではなく、まずは下りはじめたのだ。つまらないはずの釣りの記憶に導かれてか、大作は父と釣りをした海岸を見ながら歩いていた。

 時代は変われども、変わらないものもある。波の音。夏の暑さ。同じような世界ではあるけれど、それは不変でなく、輪廻に導かれてやってくる新たな世界を見ているだけ。巡り合えたその縁えにしは、はたして偶然か、必然か。

 水平線の向こうに白い船が小さく見える。汽笛が微かに聞こえてきた。

(さて。そろそろ向かおうか)

 大作が海に背を向けると、強い潮風が一陣やってきた。風の行く先はどこなのか。「どうせなら我を導いておくれよ」と、大作が風の行き先に目を向けると、舗装道路沿いに建つ一件の家が目に入った。

 西洋風なハイカラで派手だけれど、大作の目をその家に留めさせたのはそれだけではない。鉄格子にも思えるほど重厚な窓から覗く一つの顔。白く丸い小さな顔に、日焼けで赤くなっている。

 太陽に照らされたその女性の顔が、大作にはまるで天使のように見えた。



 家の中に居ても騒がしい。空いた窓からは、潮風と一緒に外の活気が入ってくるようであった。

 竹田愛子たげたあいこは療養のために熱海に越してきた。のんびりとした空気に慣れ、いつの間にか焦る気持ちを無くしてしまっていたのだ。

 彼女の目は、光を失い続けている。

 現代の東洋医学知識では到底どうにもならない。これからは欧米の技術たちも海を越えてやってくる。しかし、東京に生まれ東京で育った愛子が決めたのは、療養という名の早すぎる人生の余暇を過ごすことであった。

 焦点が合わなくなって久しい彼女の心は、すでに熱海の町の中に溶け始めていた。愛子には熱海の美しい海や山ではなく、ただこの町の空気に触れながら、一日の大半を家の中で過ごしていた。

 家は海岸沿いに建っているため、窓を開けていると海からの潮風がよく入ってきた。レンガで作られた西洋風の家。もとは彼女の叔父がこの家を所有していたのだ。変わり者で竹田家でも有名な男であり、ハイカラな人物であった。

 潮風に当たって、赤いレンガはその鮮やかさを失いつつあるけれど、外観の通り、部屋にも西洋風の家具や飾りも多い。和服を着て、畳に正座することが日常だった愛子にとって、洋服を着てテーブルに頬杖をつくことも新鮮だった。

 窓際に置いた一輪の薔薇も、日に照って鮮やかな赤色に輝いている。

 この熱海に越してきてから四ヶ月が経つ。視力の低下速度は遅くなった気もするが、彼女の視界はすでに狭く、また脆いものになっていた。
 外を一人で歩くことは困難。女中の力を借りねば、家の中でさえ危険なのだ。暗黒という名の首輪を着けられた彼女は、家の外から出ることを封じられていた。

 そんな彼女は、今日も家の中から外の世界を眺めている。窓の輪郭に形どられた光を浴びて、弱くなった視力のおかげで虫や自転車のベルなどの町の音が、より鮮明に聞こえる。

 波の音は力強く、それでいてどこか優しさもある心地の良いメロディー。虫たちの鳴き声は迫力があり、生命の躍進の一歩一歩を感じざるを得なかった。

 はて、今日は普段と違い、そんな音たちの中に何かが混ざっている。

 潮風に誘われてやってきたのは、どうやら海の屍骸の匂いだけではなさそうだ。視線だ。浜辺から、誰かが私を見ている。
 ぼやけた黄色い砂浜に立つ一人の人影。はたしてその人影が知人なのかどうか、部屋の中からでは判断できない。だが、その力強い視線には、どこか優しさげな、運命的なものを感じ取った。



 その日以来、大作は暇さえあれば浜辺のハイカラな家を眺めるようになった。愛子に近づこうとあれこれ考えてみたのだ。
 いったいどういった家の娘なのか。恋人はいるのか。それに近い約束をした人は? いや、そもそも名前だって知らない。

 気が付けば彼女のことばかり考えている。彼の頭には愛子の形をした雲がすっと浮かんでいて、頭の中を覆い尽くしているのだ。他のことなど考えられるものか。お日様を見ようとしても、その雲が邪魔をして日光など届かない。振り払おうにも頭上高く空に浮かぶ雲など、どうして手が届こうか。

 熱海にやってきて海辺を散歩しない日は無かった。海辺のあの西洋風の家。その家の窓から、今日も彼女が顔をだしてはいないだろうか。

 遠巻きに眺める事しかできない自分に、大作はそろそろ限界に近づいていた
 それから、一週間ほどが経ったある日。その日は、海辺で祭りがあった。西の空に日が沈み、海が太陽を飲み込まんとしている最中に、熱海の漁船たちが一斉に夕焼けの海にでる。

 オレンジ色に染まった海面に夕映えた大勢の船たち。海の神の怒りを鎮め、漁業の安定を祈る祭りは、むしろ海の神の闘争心を煽るのではないかというくらい荒々しいものであった。

 大作も夕日を受けて輝く砂浜から、その祭りを眺めていた。濃い髭やうで毛を生やした体格の良い男たちが、普段船上で行っているように砂浜の上でも漁業網を曳く。息の合った大きな掛け声に、愉快な子供たちも、まだ高い声を上げて漁師たちのまねっこをしていた。

 自然、そして人の活気がつまっている光景。夕日が沈み。山のほうからは一番星に続いて多くの星たちが表れ始めた。

 祭りも終わり。砂浜では矢倉を組んで火を焚く。
 心地のよくも虚しいまなざしでその光景を眺めていた大作は、ふと例の海辺の家を見上げてみた。

 愛子がのぞいていた窓は、今日も閉まっている。明かりもついていない。どこかの晩餐にでも呼ばれたのかしらと、大作は思った。

 あの人はお美しいから……。

 ちらちらと揺れる炎に照らされて、砂浜には多くの影が伸び縮みしていた。
 憂鬱な生命の海を眺め、大作は一つため息をつく。子供たちが砂浜も駆け回る。

 生きるということは命を食らうということ。その命はやがて自らの体の一部となり、共に生きていくのだ。

 物憂げな気持ちになりながらも、大作は閉まっている窓を、しばらく、ぼんやりと見つめていた。



 
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