出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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後編

2 坂田の娘

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 大作は朝早くから熱海の家の縁側に腰を下ろしては、顔も洗わずただ煙草を吸っていた。

 東京の家よりも広い庭は丁寧に手入れがされており、おそらく大作よりも長く生きているのであろう大木が一本、庭の真ん中あたりに立っている。ようやくこの家にも慣れてきた。うまく考えられた別荘で、縁側には影が落ち、気持ちのよい風は入ってくる。そのため、大作は特に何もなければ、家にいるときの大半はこの縁側から庭を眺めていた。

「旦那さまは本当にそこがお好きですね」

 世話係の一人であるおえいが手ぬぐいを一つ持ってきた。

「ああ。ありがとう」

 風呂にでも入ったらどうかと彼女は言う。昨日は浜の祭りを遅くまで見ていたものだから、潮風を落さずに帰宅するなりそのまま寝室に行ってしまったのであった。

 お栄は大作よりも少し若いくらいで、熱海の町に生まれ、熱海の町で育ってきた。家が代々漁師であったのだが、彼女が幼いころに海の災難に巻き込まれて父が死に、後を追うようにして、彼女の母も具合を悪くした。

 以来、お栄が大黒柱となっていたのだけど、戦争が始まる前に母も他界したのであった。

 海の神様につれていかれたのですよ。
 彼女は両親の死をそう言った。

「祭は見たのか?」
「いいえ。ちょうど電燈が切れておりましたので直しておりました」

 お栄は幼いころから住み込みでこの仕事を続けてきた。仲間のうちでも若いお栄だが、テキパキと仕事はこなすし、信頼も厚い。なによりもこの仕事が好きなのだと、いつか聞いたことを大作は思い出した。

「僕は見てきたよ。なかなか良かった」
「漁師たちの掛け声には迫力がありますよね」

 いつの間にかお栄は大作の隣に腰かけていた。座布団を持ってきたらよいのにと言っても、すぐ仕事にもどりますからと頑固だ。襟元から延びる細い首すじとは裏腹に肉付きのよい二の腕は白く、柔らかな弾力を感じさせる。小さな体なのに、ごはんは一番食べるのだという噂を聞いたことがあった。

「あそこに西洋風の変わった建物があるよね」

 大作は何気なくそうつぶやいた。別に探りをいれてみようといった魂胆があったわけではない。頭の中に膨らんだ彼女へのあこがれが、たまたま開いた口から少し零れ落ちただけなのだ。

「ああ。奥野様の邸宅でございますね」
「奥野? 別荘ではないのか」
「ええ。この界隈では有名な、それこそ少し変わった趣向のお方でございました」
「亡くなったのか?」
「はい……」
「じゃあ今は違う人が住んでいるのか」
「さあ。そこまでは存じませんけれど、噂では治療かなにかでお大事になされるために越してきたのだとか」
「へえ」

 大作は初日に見た、あの美しい女性の顔を思い出した。力のない表情で、生気の感じられない神秘的な雰囲気の表情。たしかに病気の虫に食われていたためと言われると納得ができる。

 風鈴が鳴る。そろそろ朝飯が出来たのだろうか。イ草の香りがするこの家の奥から、香ばしい魚と味噌汁匂いがやってきた。

「さあ。そろそろお食事でございますよ。お先に汗を流されますか?」
「そうするよ」 

 はいはい、と言って、お栄ははや足で給仕場に戻っていった。
 大作は渡された手ぬぐいを肩にかけ、もう一本タバコに火をつける。庭の大木に庭の小鳥停まっていて、何やら密会でもしているかのように、ちゅんちゅんと肩を寄せ合い、色を作っていた。


 大作の家(と言っても別荘ではあるが)に尋ね人がやってきたのは、食事を終えた後、同じように縁側で煙を吹かし、文庫本を閉じたときであった。

 何事かと玄関まで見に行くと、そこにはたいそうな格好をした白髪の初老が一人と、ブラウンの絹の洋服をきた荷物持ちの中年男が一人。家の前にはエンジン音のうるさい外国産の車が止まっており、帽子をかぶった運転手が乗っている。さらには後部座席にももう一人乗っているみたいだと、大作は思った。

「そして、何用ですか?」

 初老の男が眉をしかめる。

「旦那さま。これを……」

 そういって女中があわてえ名刺を差し出した。そこには「坂田大臣」との文字。

「坂田様……もしやすると私の父の?」

 坂田という初老の男は今度はニコリと笑って見せた。

「君の父上様には大変世話になった。そして共に励んだ同期の桜。今回の件は本当に残念です」
「はい」
「だが、あなたは生きておられる。大戦で家を失い、故郷を焼かれ、ご家族を失われたけれど、立派に生きている。おかげでこの熱海という土地で出会うことができた」

 これも何かの縁だと私は思う。

 坂田は隣のカバン持ちに合図すると、一通の手紙を取り出させた。

「これをあなたにお渡し致します。数奇なこの縁を大事にしたい。良い返事を待っています」

 ではお騒がせを。
 その言葉を最後に、坂田たちはうるさいに車に乗り込んだ。その際、後部座席のもう一人の顔がちらと見えた。それは女だった。羽のついた西洋の帽子を深くかぶっており、顔はよく見えなかったけれど、真っ赤な唇は、かすかに笑っているようだと大作は思った。


 大作は父が昔来ていたというスーツを着て、車を拾った。坂田から預かった手紙は招待状であった。坂田家で行われるホームパーティー。特に断る理由もなかったが、着ていく服を探すのには苦労した。

 懐中時計は丁度午後7時を指している。会場に到着するころには、夕日が海に入る直前であった。高い丘の上にある坂田家からは、熱海の海が良く見える。夕映えた浜や町、煙突が影を作り、オレンジと黒の哀愁が一望できた。

 坂田という立派な大理石の表札がある門をくぐると、例の荷物持ちがニヤニヤと作り笑顔をしながらやってきた。

「どうも大作さん。お待ちしておりました」

 荷物のない大作に、普段の癖なのか手を差し出すと「おや失礼」と苦笑いをして去っていった。

 灯篭のある庭を抜けて玄関に着くと、宴会はもう始まっているらしく笑い声が漏れてきた。その中には女性のものもあった。縁側を歩き、宴会場のふすまを開けると、20畳ほどの座敷で、中央に長机が三つ連なり、その上には豪華な海の幸山の幸が並べられていた。

「おお! ようやく来なさったか」

 床の間のすぐ近く、上座に座る坂田はすでに顔が赤くなっており、知らない顔がたくさん並んで肩身の狭い大作を、こっちこっちと誘ってくれた。

「さて主役が登場だ。大作君。さっそく乾杯といこうじゃないか」

 坂田の隣に席を用意してくれていた大作は、座るとすぐに御猪口を渡された。顔の赤い坂田。この部屋には10数人の見知らぬ住民たち。鉢巻を巻いた筋肉質の男。黒縁眼鏡が大きな背広の男。そして真っ赤な口紅が光る女。

 坂田は簡単に大作の紹介を済ませてしまうと、すぐに自分が楽しむためこビール瓶の栓を開けた。

 宴会が進むにつれて、大作の肩身はどんどんと狭くなっていった。ときたま話を振られても、昨日今日この町に来た大作が彼らの満足のいく会話の花を咲かせつづけることなどできない。

 結局、到着して半時間もしないうちに、大作は便所という名目で、宴会場を出た。別荘の何倍も広い庭園。大作はその庭園が一望できる縁側に、一人で腰を下ろした。自分は縁側と縁が合う。灯篭にはいつのまにか火が灯されていた。

 夜風が気持ち良い。月にも雲がかかっておらず、星たちも綺麗だ。宴会の高い声も微かに聞こえてくる中で、彼は煙草を取り出した。

 足音がして振り返えってみると、そこには先ほどの赤いリップが目立つ女が笑顔で立っていた。

「お隣によろしいでございますか?」

 大作が軽く頭を下げると、彼女はゆっくりと隣に腰かけた。
 同じ年ごろの女だろうか。大作は自宅のお栄とこの女とを重ねてみた。化粧も飾りもしない良い意味で純粋なお栄と比べ、この女は上品という色を自分に塗り、自分の美しさというものをしっかりと認識しているような女であった。まさに正反対。ぱっちりとした黒目勝ちの瞳に、かるくパーマネントを当てたショートの髪の毛と、およそ大勢の男からすると美しい女性として輝いて見えるのであろう。

「私、騒がしいところが少々苦手ですの……」

 だが、大作には不思議とこの女の魅力に惹かれなかった。女は自分も上着のポケットから煙草を一本取り出して火を着ける。その時、右手中指には大きなダイヤモンドの指輪が光っていたことを、大作の目にちらと映った。

「夜風が気持ち良いですわね」
「失礼ですが、どちら様でいらっしゃいますか? まだこの町に来たばかりでして」

 すると女は大量の煙をゆっくりと吐き終え、それからニコリと笑って見せた。笑うと口の横にしわが入る。思ったよりも年が上なのかなと大作は思った。

「いいえ、気になさらずに。私、坂田大臣の次女の昌子あきこと申します」

 そうか。あの時車の後ろに乗っていたのは坂田の娘だったのか。

「大作さん。あなたはこれからどうなされるおつもりで?」
「どうって?」
「熱海での生活のことですわ」
「はあ……」

 昌子は大きな口をすぼめて、大きく目を開いた。

「あらやだ。お勤めのことですわ。まさか何もしない訳にはいかないでしょう」
「はい……」
「私、特別にあなたへのお席を用意しようと思っておりますの」

 昌子は煙草を取り出したポケットとは違うところから、今度は名刺ケースを取り出した。

「父の名刺です。町役場では長を務めておりますの」
「はあ」
「ぜひ大作さんに役場へ来ていただきたい。今夜の集まりの趣旨でしたのに……。父ったらいつもお酒を飲むと楽しくなってしまって」

 大作は坂田の名刺を見つめるだけで、返事はしなかった。

「父はこの熱海という素晴らしく美しい町を、全国に広めていきたい。そのための活性事業に特に力を入れているのです」

 大作さんにも、ぜひ父の助けをお願いしたいのです。

 昌子はまだ長い煙草の火を消すと、大作の手にそっと自分の手を重ねさせた。

「ぜひ、良い返事を」

 その言葉を最後に、昌子は再び喧しい宴会場に戻っていった。騒がしいのが苦手なんて嘘だ。大作も、そんなことだけは分かった。

 月に雲がかかってしまった。

 大作は昌子に触れられた手を眺めつつも、彼女の顔ではなく、なぜか海辺の窓から覗く、夕映えの顔を想起していたのだった。

 
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