出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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後編

3 夏の祭

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 結局、大作は昌子のお誘いに応じ、熱海の町役場で勤めるようになった。

 坂田の近くで働き、地元産業の活性化に重きを置いている。役場と地元との間持ち。決して楽な仕事ではないけれど、責任がどんどん大きくなるにつれて、大作の心には不思議と積極的な姿勢が顕著になる。

 だが、どんなに忙しくて時間がなくても、彼は毎日海岸沿いを通っていた。西洋風の家の窓。
 やがて愛子と会話する回数も多くなっていった。

「やあ。こんにちは、愛子さん」
「こんにちは」

 あいさつ程度の会話でも、大作には嬉しかった。愛子も大作がくる時間を把握して、その時間になるといつも窓から顔を覗かせることが日課になっていた。
 窓を挟んだ会話には次第に笑顔も増えていく。愛子が笑うと大作も笑い、大作が笑うと愛子も笑う。愛子はかすかな視界の中で、しっかりと大作の心の意志まで見えていたのだ。

 勤め始めてからちょうどひと月――翌週は盆祭りが予定されている――になり、大作は祭りの準備などで忙しい中、時間を見つけては愛子のもとに走っていった。
 目的は一つ。ただ熱海の盆祭りを愛子と一緒に参加がしたかったのだ。彼女の目の病についてはすでに知っていた。だが、それでも彼女と歩きたい。守ってやりたい。

 西日が愛子の顔に当たり、うっすらと生えた産毛に金色の光を帯びている。大作は今にも破裂しそうな心臓に手をあて、自分はこんなにも小心者だったのだと恥じらいを感じた。

「いつか、熱海という美しい町を一緒に眺めたい」

 この言葉が、愛子に伝えた大作の最初の思いであった。

 盆踊りはいよいよ明日。彼は準備や打ち合わせに躍起になって、日付が代わるぎりぎりまで町中のあちこちを回った。
 そんな中、大作は妙な噂を耳にしたのだ。最終の打ち合わせに訪れた商店街の町内会の寄り合い。漁師たちの若い衆たちは前夜祭だと騒いでいる中で、町内長に大作が耳打ちをした。

「それで昌子ちゃんとはいかほどに?」

 昌子――坂田の次女であり、大作に仕事を紹介した張本人である。なんでも坂田はもともと大作を役場で働かせるつもりなどなかったらしい。そこを昌子が父である坂田に懇願し、仕方なくまとまったのだとか。
 彼女は役場の人間でもないのに、時間を見つけては顔を出す。はじめは父である坂田への差し入れだとかに来ているのだろうと思っていた大作でも、これほど頻繁なこととなると、目的は他にあるのだと気付く。

「今度の収穫祭はあんたに任せると聞いたぜ。坂田さんもあんたを認めているし、なにより昌子ちゃんが惚れ込んでいるからねえ。親父さんもまんざらではないみたいだぜ」

 晩夏に行われる収穫祭は、実りと収穫を祈願して、来宮神社へ参拝する。坂田が役場の長になってからは、一年でもっとも力を入れているイベントになったのだ。

 それを大作に任せる。彼は認められた嬉しさもあったが、昌子のことが心の深くに食い込んだ。
 あの夜。昌子が手を重ねてきたその日から、彼は銛で打たれていた。今か今かと水面へと引き上げられている。

 集会場を後にし、彼は月を眺めながら海岸沿いを歩いて帰った。愛子の家は消灯している。いつもの時間には、愛子はあの窓から顔を出したのだろうか。
 夜の波の音は大きい。大作は遠くの暗い水平線から、自分を魂ごと攫ってしまう化け物が襲ってくるのではないかと、得体の知れない恐怖を感じた。

 そして日が昇る。大作は朝早くから今日の盆祭りの準備に追われていた。天候にも恵まれ、波も穏やか。夜になるときっと涼しい潮風がきて、活気に溢れるだろう。
 そんな気持ちの良い妄想の中には、しっかりと愛子も居たのだ。おかげで昌子の不安は小さくなる。噂には尾ひれがつきものだ。今回のもきっと尾ひれの方が大きくなってしまった典型的な例なのだろう。

 準備は順調に終わり、あとは日が沈むのを待つだけとなった。大作は一度帰宅すると、まず湯につかって、彼の父が愛用していた紺色の浴衣をお栄に段取りしてもらった。

「良い人でも見つかったのですか?」
「茶化すもんじゃない」
「坂田さんのところでしょう? みんな知ってますよ」

 大きくなった尾ひれはどうやら当の本人が意図せぬところで、町中を泳ぎまわっているらしい。大作はため息を一つついて盆祭りの会場へ出かけて行った。
 大作は着慣れない浴衣に悪戦しながら、愛子の元へ向かった。西洋風の建物が見えたとたん、彼の鼓動が激しくなった。

 愛子はすでに家の前で待っていた。隣には女中が立っていて、しっかりと愛子を支えてやっていた。

「お待たせいたしました」
「いえ……」

 愛子は白と紫色の浴衣に黄色の帯を巻いていた。それが夕日に当たって輝き、大作の手は震えた。真白の夏を彩る藤の花。この人とならどこでも行ける。この人とならなんでも乗り越えられる。

「では行きましょうか」
「はい……」

 力のない恥じらいの声は、潮風に消えてしまいそうで、大作はしっかりと守らなくてはと思った。

 熱海の砂浜を二人は歩いていた。目の不自由な愛子を気遣い、ゆっくりと合わせてやった。大作はこの時間が永遠に続けばよいと願い、また彼女も同じようなことを思っていてくれればとも願っていた。

 ゆっくりと海岸を歩く二人の上をうみねこたちが飛んでいく。まるで二人を祝福しているかのように。波の音は祝福の歌声だ。

 会場に着くと、ちょうど音頭取りが櫓を登っている最中であった。会場を囲む提灯に非が灯り、暗い夕方にここだけが明るく活気に光っていた。

 笑い声もあちこちから聞こえてくる。
 愛子も久しぶりの外出で、賑やかな声に囲まれ、心底楽しんでいた。大作も愛子の側から離れぬよう用心し、会場を一回りする。

 そして音頭が始まった。歌にのって櫓を囲む踊り手たちが、掛け声を掛けながら場を盛り上げる。会場は手拍子を打つなり、踊り子たちの輪に飛び込むなりをして、祭りはさらに盛り上がりを増していった。

 大作と愛子は、そんな会場を少し離れたところから眺めていた。すでに日は沈んでいる。大作は隣で立っている愛子の横顔を見た。提灯の光は、不気味なまで愛子のはかなさを形どっていたことに大作は気が付いた。

 そして、そっと愛子の手を握った。愛子は驚いた顔で大作の顔を見上げたけれど、彼の赤く染まった頬を見て、すぐに微笑みを取り戻したのであった。

 
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