インキ喰います 【第一部 完】<インキシリーズ 1>

樫村 和

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第三章

命日 

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 苦い、苦い、苦ーいっ!
 
 口の中が苦いっ!
  
 地面に押し倒され、頭をがしりとホールドされ、それでも暴れようとする匠の上に猿がいる。
 体は匠より一回り以上小さいうえに軽いはずなのに、なぜか身動きが取れない。

「んーっ!んっ!」

 なんでだ?!

 じたじたとのたうつように暴れる匠の上で、猿は本当に楽しそうにキスを匠の顔に落として遊んでいる。

「あそっ、ぶなっ!」
「なんだよ、んな急くなよ」
「ちっ、がうっ!んっ!」

 なんで、こいつの体俺からはがれないんだ?成人した男が力の限り子供を自分の上からどかそうとしているのに、なんで?
 猿の肘と膝が的確に体にのめりこんでいる気がする。肩、骨盤脇……両足で俺の膝か?俺、子供に押さえ込まれてる?なんだ?この猿?

「……っ、う」

 猿の唇がついついと匠の顔の上をついばんでいく。瞼から鼻の頭、額に頬。男によくんなキスできんな?

「も、本当に!ひよっ?!」

 耳をついばまれたあと、信じられないことに軽く噛まれた。噛まれた瞬間、びっくりするような声が自分の口から飛び出て真っ赤になる。

「……ひよっ……ひよって」
「どけえええええっ!」

 猿が匠の上で体を震わせて笑う。さらっさらの髪が顎に落ちてくすぐったい!

 人間って重いんだなっ!

 こーゆー体験が人生で初めてなのはきっと俺がヘタレだからなんろうが、なんで俺に初めて乗っかる人間が女の子じゃなくこの猿なんだ?いくらこの猿が綺麗でかわいくても、なんかおかしくないか?
 とうとう力尽きた。ぜー、はーとっ呼吸を繰り返すだけになった匠に猿がん?と顔を覗き込んできた。

「なんだよ。体力ねえな」
「猿と一緒にすんじゃねえよ……」
「運動不足だな」

 きっぱりと言われ、ぐうの音もでない。その通りだ。こんちくしょう!

「……さわんな」

 汗ばんで額にはりついた匠の前髪を猿の細い指がすいすいとかきわける。身動きが取れなくても口だけは動かせるので文句は言う。

「ちっくしょう……俺、この後も仕事だぞ?背中、どろどろじゃねえか」
「暴れるからだろう?」

 だーれーが!誰のせいですかね?!俺が地面の上でのたうったのは!

「……っ!」

 言い返そうと口を開いた瞬間に猿の口が重なってきた。思わずきつく口を閉じる。

 俺、取引了解してないからな!

 俺、食ってくれて頼んでない!勝手にそっちが食ったんだぞ!

 言いたいことは山ほどあるが!だが、やはり苦いっ!まだ、苦いのか?!
 涙目になる。

「……口、開けろよ」

 上唇を甘噛みされて軽く引っ張られた。
 絶対に開けるか!と涙目で睨むと猿はすっと軽く目を細めて……?!

「ぎゃっ?!」

 人の鼻に噛みついてきた?!いや、やめろ!本当にやめろ!鼻を噛む?噛むってなんだ?
 こいつ?!本当に猿か?人の皮被った猿か?!
 はむはむと甘噛みを繰り返し、呆然と猿を見る匠と視線をあわせ、猿はうっすらと笑って口を鼻から放した。

 にっこり。

 背筋に寒気が走る。

「歯形つけて仕事いくか?」
「てめえはっ……っ?!」

 悪魔かっ!と怒鳴ろうとして開けた口に、今度はがっと指が突っ込まれた。
 やっぱり悪魔だ。人の皮を被った猿の中に悪魔がいる!
 普通、指とか口につっこむか?!噛み千切られたらどうすんだ?!噛んだろか!

「ん……」
「……っ」

 ふわりと今度は最初から開いた口が重なってきた。一瞬、またあの苦みが口の中に広がった。始めよりは薄れた気がするが、それでもやはり苦い。苦みから逃げようとした匠の舌を猿の舌が追いかけてくる。
 他人の体温に体が怯える。慣れない粘膜接触に匠の背中に鳥肌が立つ。
 気持ちが悪い。気色が悪い。
 それ以上にくすぐったい!

「ん……」

 猿の舌は匠の舌を追いかけるのに飽きたのか、口の中で遊びだした。
 口蓋を舌先でくすぐり、口の中の柔らかい場所を確かめる。頬の内側をきゅっと尖らせた舌先でつついたと思えば、また舌をこすり合わせてくる。

「……ふ」

 いつまで遊んでいる気だ?!もう出てけ!とこすりあわされた舌に力を込めて自分の口から押し出そうとしたら、ぴょこっと猿が跳ね、伏せていた目を開けて俺を見た。

「……うっ」

 うっわ。見てはならぬものを見た。反射に近い速度で今度は匠が目を閉じる。
 泣いてたか?いや、泣いてはいなかったぞ?ならなんで、あんな顔してんだ?あの猿っ?!
 なぜか長い睫毛に縁どられた形のいい目が涙に濡れてた。ように見えたんだが?!

「ふふ……」

 ようやく気が済んだのか、猿が匠の体から体を起こした。溢れた唾液で濡れた口元をぐいっと腕で拭い、ついでに目元もこすった。

「……さ……猿?」

 泣いてたか?なんで、泣くんだ?泣くような状況だったか?いや、俺が泣きたい。俺だよな?泣いていいのは?

「……やっぱ、お子様じゃ相手になんねぇか?」
「は?」

 こちらは汗だくで息も絶え絶えだが?お子様の猿に押し倒されて身動きも取れませんでしたが?!見ればわかるだろうが!

「こっちは全力なのにピクリともしねえのな」
「あ?」

 猿も息が切れたのか、顔を上気させふーふーと肩で息を繰り返している。
 そうか猿も全力だったのか。だが、何がピクリともしない?

「何が経験がないだ……。子供相手じゃ本気出す気にもならねぇってか?」

 悔しそうに唇を尖らせ、ぐしっとまた目元を腕で拭う。
 おいおい?何がどうした?何……がって!
 どうにか体を起こそうとした匠の腹に何かがめり込んだ。はっ?と視線をそこに向けて何が猿に起きたか分かった。ズボン前が硬くなっているっ?!そうか、そういうことな!
 そして、わかった瞬間『ピクリともしない』と言われたモノも分かった!

 俺か!

「くそっ!俺ばっかりじゃねぇか!」
「ちょっと待て!待て!も、落ち着け!げっ……」

 いや、だがここで自分がED=勃起不全だとか言いたくはないぞ?!
 とうとう猿は唸り声をあげ、足をバタバタし始めた。猿の薄い尻が腹にめり込み、ふたたび地面に倒れる。
 も、息もできねえ……。

「なあ、俺、んなに下手か?匠、気持ち良くなかったのか?」

 気持ちが良いも悪いもわかるかぁ。押し倒されてされるがままだぞ。それに……。

「うー……」

 思わず匠も唸った。直視したくなかった。なるべく軽く考えようと、思いつめないようにとしてきたのだが!

 やっぱりダメなのか?俺?

 あんなキスをしても、俺のモノはピクリともしないのか?けっこう、ぞわぞわしたんだけどな?あれでもダメなら俺、先見えないんだが?
 ダメージがでかすぎた。もう、今日俺の男の命日なのかもしれない。

「匠?なあ、たーすーくー!」

 両腕で顔を覆ってしまった匠のシャツの胸元をぐいぐいと猿が引っ張る。

「大丈夫か?俺、下手すぎたか?もう一回、していいか?」
「……だ」
「本番でも始める気か」

 場違いなほど明るい声がし、匠と猿は文字通り飛び上がった。

 ◇

「逃げ足早いなー!」

 週一バイトのイケメン研修医が猿が消えた方を見てけらけら笑う。
 猿は匠と一緒に飛び上がった後、匠を置いてあっさり逃げた。
 逃げたな?

「ありゃ、逃げ慣れてるな。顔、見せずに行ったぜ」

 研修医 喜矢 晴彦は感心しきりだ。
 匠は声を掛けられた瞬間反射で振り返ってしまったが、猿はもうその時はフェンスによじ登っていた。
 喜矢の方を一瞥もしなかった。

 さすが猿め……。

 俺を置いて逃げたな?あんちくしょうが!

「あー、立てるか?」
「ああ?」

 地べたからおそらく180センチ近い男を見上げて、その迫力にへえとなる。結構でかくみえるのな。
 きちんと整えられた髪。男らしい顔のライン。太い首。おそらく趣味はスポーツだな。真面目にジムとか通ってそうだ。胸板が厚い。
 自分と対極にいる存在だ。
 あまりにいろいろありすぎて、おかしなことを考えていた匠を体を屈めて喜矢が覗き込む。
 きちんと締めているネクタイがゆらゆら揺れる。
 えらいな。ネクタイ締めて仕事すんだな。

「……内藤先生、立てるか?」
「……あ」

 ようやく寝そべったまま喜屋を見上げていたことに気が付いた。慌てて立ち上がろうとした匠に喜屋が手を伸ばしてくれるが、遠慮した。

 どこから、何をどうしたらいいんだ?

 頭から背中から尻から足からぱたぱたと叩きながら、それだけをぐるぐる考える。
 本当に今日が俺の命日だったのかと血の気が引いてく。

「背中、汚れたな。着替えあるか?」
「あ、も、マジでいいんで……」

 暴れるだけ暴れて汗もかいた。ズボンはともかくシャツの背中はぐちゃぐちゃだろう。まだ、じっとりと気持ちが悪い。
 喜屋は手を出してほしくないという匠の気持ちに気が付いたのか、再び猿が消えた方を眺めている。
 喜屋が何も言わずに落ち着くのを待ってくれていることに、ようやく匠も気が付いた。

「……すいません」

 とりあえずそれだけは口にする。それ以外に何を言えばいいのかもわからない。
 どこから見られてた?ていうか、なんでここにいるんだ?

「いや、レイプかと思った」
「ごふっ?!」

 喜屋が高校の方を見たまますごいことを真面目に言った。思わずおかしな声を上げ喜屋を見てしまう。
 なんつった?!レイプ?

「え?ちょっと、待って?!待って!」

 ちょっと待て!被害者、どっちだ?俺か?猿か?いや、猿かなぁ?!こっちだと思うんだけど?!いや、でも猿は未成年だしなっ!やっぱ俺が加害者か?!
 再び変な汗がだらだら出てくる。

「同意の上だったらいいんだけど」
「同意じゃない!」

 絶対に同意じゃない!そこだけは反射で答えた。匠の剣幕に喜屋が少し切れ長の目を細めて空を睨む。

「……じゃあ、未遂?」
「まず、そこから離れてくれ!レイプでも未遂でもないから!」

 何て言えばいいんだ?!傍から見れば、そう見えたのか?本当にやばいじゃないか!いや、これ何を言っても言い訳っぽくなるのか?いや、全く説明できる自信がないぞ!気もしない!
 犯罪者一直線なのか?俺が?なんで?!猿はなんて言った?そうだ、取引だ!だが、俺はその取引も了解してない!

 強いて言えば、強制的取引履行?俺がされたんだけどな?!

 あのくそ猿!俺が犯罪者になったらお前のせいだからな!
 おろおろと慌てふためく匠の方をようやく喜屋が見た。

「……ぶふ」
「あ、あのな!」

 喜屋はなぜか匠の顔を見た瞬間、おかしな声をあげて笑いをこらえた。どうにか言葉を絞り出そうとあたふたしている匠に向かい片手をあげてもういいと止める。

 言い訳すらさせてもらえないのか……。

 ずーんと体が重力に負けた気がして、再びへたりこみそうになった。
 あーあ……本当に今日が俺の命日だったな。社会的立場の。
 落ち込むだけ落ち込んだ匠の前で喜屋が気を取り直すように軽く咳ばらいをする。

「まあ、この件は今夜にでも聞かせてくれる?」
「……?」

 なんで、この件を今夜喜屋としなければならないんだ。それよりも、と喜屋の顔つきが厳しくなる。
 あ、と思った。匠の背も反射で伸びる。
 なんか、あった。

「仕事の話いい?聞きたいことがあるんだけど」

 仕事の話と言われ思い当たったのは今朝の事だ。匠の体に緊張が走る。

「今朝のことですか?」

 自然と口調までかわる。

「うん、たぶんそれ。薬局までいい?」
「はい」

 今日が俺の社会的立場の命日でも、仕事は仕事だ。
 匠と喜屋は足早に病院に戻った。

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