称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第五十一話 決意する女

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「あれ? 父様は?」

 愛馬の世話を終えてリビングを見回すが父の姿はない。
 母とアマーリアがソファに腰かけて、のんびりと編み物をしている。ミアとシルヴィアも編み物を教わっているようだった。先ほどミルクを飲んだ双子はのぞき込んだゆりかごの中で、ぐっすりと眠っている。護衛騎士のアイリスの姿はあるがアマーリアの侍女のリリーがいないのは、部屋の掃除でもしているのだろう。
 ちなみにウィルフレッドは昨日、夕方に少しレベリオに会いに行き、その後は夕食と温泉を堪能し、ユキノがお弁当を作って持たせ、皆に見送られてブランレトゥに帰っていった。

「あの人なら、お庭で何かをしているわよ」

 母が向けた視線の先を追えば、確かに庭に父の姿があった。馬車と思しきものの前にしゃがみこみ、何かをしている。レオンハルトとジョンの小さな背もしゃがみこむ父の両側にあった。クロードとナルキーサスも御者席だったり、馬車の屋根の上で何かしている。
 むずむずっと好奇心が顔を出してくる。あの三人があそこで何かしているということは何らかの魔術学的なあれこれをしているに違いなかった。

「母様、俺も父様のところに行ってくる」

「ええ、行ってらっしゃい」

 母に見送られて、サヴィラはリビングから外へ出る。
 迷わず父の下へ行き、その背に声をかける。

「父様、何してるの?」

「ああ、サヴィか」

 マヒロが振り返り、立ち上がる。レオンハルトとジョンは「じゃあ、花壇に行ってくる!」「ありがとう、お兄ちゃん!」とじょうろを手に走り去っていく。どうやら父にじょうろを直してもらっていたようだ。そういえ、昨日の夕方、取っ手がぐらぐらすると言っていた気がする。
 マヒロの前には馬車がある。箱型の二人掛けの席があるだけの小さな馬車だ。

「商品開発をしているんだ」

「商品、かいはつ?」

 突拍子もない言葉にサヴィラは首を傾げる。

「どうしても値段は張ってしまうので、まずは富裕層向けだが、馬車の中に家を入れて売り出そうと思ってな」

「……なるほど?」

「もちろん、家を一軒一軒買っていたんじゃ、割に合わんから、大工と連携して箱型の家を作ってもらって、それを馬車の中にぶち込んで売ろうかと。まずは一人から二人用の馬車だな」

「絶対に売れますよ! だって馬車の中に家があれば快適な旅が約束されるわけですから!!」

 御者席で何かしていたクロードが無表情を心なしか輝かせて嬉しそうに言った。

「テント型の場合は、中を広げてキッチンとトイレ、さらに金を出してシャワーをつけるだけだったから、そもそも狭い一部屋にそれが詰め込まれている感じだろう? だからやはり家をぶち込めるなら、価値がある」

 同じく屋根の上で何かしているナルキーサスが楽しそうに言った。
 三人とも(厳密にいうと父は違うが)魔導士、あるいは、魔術師としての実力の持ち主だ。この三人が集まって何かをするなら、とんでもないものができそうで、サヴィラもわくわくする。

「でも、父様は神父なのにいいの? お金ばっかり稼いでて」

 サヴィラの素朴な疑問にどこからともなく取り出した図面を広げていた父が顔を上げた。

「俺はな、ティーンクトゥス教会の神父は、全員、もれなく兼業神父になるようにしていきたいんだ」

「兼業?」

「ああ。寄付にばかり頼っているから、王都のクソ教会みたいに贈賄の温床のようなことになる。ティーンクトゥス教会では現金での寄付はもらわんことにしている。もちろん葬儀なんかの費用は別だがな。普段の運営費は自分で稼ぎ、自分で経営する。そこら辺の商会と同じだ。一路もああ見えて、お得意の薬草やらアロマオイルやらでちゃんと稼ぎを生み出し始めているし、海斗は来たばかりだが年明けの弁護人試験を受ける気満々で勉強している」

「え。弁護人試験を受けるの?」

 弁護人とは、裁判になった際に当事者の弁護をする人だ。ありとあらゆる法律に詳しくなければいけないし、学院を優秀な成績で卒業しているような人々がつくような職業である。

「あいつはもともと、俺たちの故郷で弁護人と目指していたからな。あの兄弟の父親が優秀な弁護人だったんだ」

「へぇ」

 サヴィラだけでなく、全員が「へぇ」と漏らす。

「父様の父様、俺のおじい様?は大きな商会の偉い人だったんでしょ。母様の父様は何してる人だったの?」

「ああ、雪乃の父親は大きな商会の幹部でな。母親が華道の家元だった」

「かどうのいえもと?」

「日本では花を芸術的に飾る習慣があって、それを人に教える師匠の家ということだな。とくに雪乃にとっての祖母、お前たちにとってはひいおばあ様に当たる方は、こちらで言えば貴族の家に教えに行くようなすごい先生だった。だから雪乃も花を生けるのが上手いぞ」

「へぇ……」

 やっぱり「へえ」しか出ない。

「それに大規模農場の設立も考えている。大きな雇用が産まれれば、地域が活性化する。金を使う機会が増えることで、経済も豊かに巡るからな」

「領主様に許可取るんだよ?」

「大分借りがあるんだから、許可はもぎ取るさ」

 そういって父は再び図面に視線を落とした。
 サヴィラが背伸びをしてのぞき込むと、父は腕を下ろして図面を下げてくれた。横からのぞき込んでみたが、複雑すぎてさっぱりと分からない。

「これが馬車に施すやつ?」

「ああ。外側は防御系の術式紋だな。中には、家を収めるための空間魔法系のものと、識別系のものを施す。あとは防火や防水なんかも入れ込んである」

「騎士とか冒険者が使うようなテントにもこれと同じようなのが施されているの?」

 サヴィラの疑問に答えたのは、父ではなくナルキーサスだった。

「ああ。だが、テントに施されているのは、もっと簡易的な……とはいっても中級以上の魔術師ではないと理解できない代物だがな。これからこの馬車に施す予定の者は、私と同等かそれ以上の知識がなければ、無理だろうな。実力ではなく、知識な、知識。魔術学に必要なのは強大な魔力でも属性でもない。知識、だからな。……やはり、クロード、君はうちに来ないか」

「商業ギルドマスターなので」

 クロードはすげなく返す。
 だが、素人であるサヴィラからみてもナルキーサスやマヒロとこうして一緒に研究ができるほどの彼の実力は、商業ギルドのマスターにしておくにはもったいない気がした。

「クロードは、王都では魔術師だったの?」

「まあ、そうですね。王立の研究機関に所属していました。最新の学問や最高品質の素材が常にそばにある点においては今も帰りたいと思うことはありますが、何かと権力争いだことの、顔色伺いだことの、面倒くさいことこの上ない職場でしたよ。私は王都の学院卒業後にそのまま就職した口ですが……正直、こちらも色々あるにはありますが、冒険者、職人ギルドのマスターたちは気さくな人ですし、商業ギルドの職員間もぎすぎすしていませんし、領主様も家庭以外はしっかりされている人なので、かなり気持ち的には楽ですよ」

 そういってクロードが御者席に腰を下ろした。

「やっぱり、王立の機関はドロドロなの?」

「そうですね、ドロドロです。泥沼ですよ。基本、私みたいな平民はどれほど実力があっても、せいぜい班長どまり。班長って言うのは平の職員の一つ上の役職です。ほぼ平です。それ以上の役職は金のある貴族しか就けません。平民も金を積めばなれないことはないですが、それもやっぱり中間管理職がせいぜいですね」

「私も王都の研究所にいたことがあるが、といっても二十年ほど昔だがな。あそこは、まあ、ドロッドロだ」

 ナルキーサスもけらけらと笑いながらクロードの言葉に同意する。

「そっか。ドロドロはやだなぁ」

「……王都に用事でもあったのか?」

「んー、より良い勉強ができるなら将来的には、って考えていたけどドロドロしてるのは生家で十分だなって。……っていうか、そうだよな。王都とか行ったら、あの家のやつらに会うことになるかもだし、やめとこ」

 うんうんとサヴィラは一人納得する。
 できる限りもう二度と、父親や正妻には会いたくない。顔も知らない弟は、あの両親なので本当に少しだけ心配ではあるが。正式な跡付きで正妻という盾となる母親がいるのだから、大丈夫だろう。

「まあ、お前の将来だ。無理に止めはしないが、俺がここにいる限り、このアルゲンテウス領を王都以上に発展させてやろうと思っているので、安心してここにいるといい。より良い勉強がしたいなら、ここにうってつけの講師もいるしな。まあちょっと下心が強すぎるかもしれんが」

「いいぞいいぞ。未来への投資は大事だからな」

 ナルキーサスが機嫌よく答える。
 サヴィラは「まあ、その内、追々」と曖昧な言葉でごまかした。

「でも、そっか。父様ならめちゃめちゃ発展させられそうだしね」

「ああ。俺はな、矢面に立つのは面倒くさいから好きじゃないんだ。実力者を陰で操る位置で、悠々自適に生きていきたい」

 きっぱりと父は言い切った。
 サヴィラは心の中で、ジークフリートに「頑張れ」と声援を送った。

「とりあえず、第一号は、ジークフリートに売りつけようと思ってな。ポチ貸与券付きで」

「ポチは出かけてばっかりで嫌にならないのかな」

 サヴィラの問いに父は首を横に振った。

「千年ほど寝ていた上、起きたらインサニアの影響でバーサーカー化し世界樹の中に引きこもり。なので今は元気に動き回れるのが楽しくてしょうがないらしいぞ」

「千年……ポチって何歳なの?」

「この王国ができたころには存在していたらしいが、詳しくは本人も覚えていないようだ。とりあえず、ポチが抱えても壊れない頑丈さと高所から落ちてもなんてことない頑丈さを兼ね備えなければならんからな」

 ふむ、と頷いて父は宙に浮かせた図面に何事かを書き足し始めた。
 やっぱりサヴィラには分からないが、父が「これは風の術式紋で」と説明してくれるのに聞き入る。マヒロは人にものを教えるのも上手だった。ブランレトゥにいた時は、定期的に貧民街に残る子どもたちに文字の読み書きを教えたりもしていた。
 父は「読み書きができて、計算ができる。それは将来、貧しさから脱却するために一番必要な知識だ」と言っていた。
 でも、サヴィラはその通りだと知っている。サヴィラは、出自のおかげであの貧民街では飛びぬけて頭がよかった。文字が読めて、隣国の言葉も少しは理解できていたし、計算も暗算でできた。
 墓場での仕事は、文字が読めたからこそ契約書も読めた。雇用主からの不利な条件を突き返して、給料のごまかしも絶対に許さなかった。雇用主は、魔法が苦手だったので、アンデットを魔法で吹っ飛ばしたサヴィラにそれ以降、文句を言ってくることはなかったし、危険すぎて人の入れ替わりが激しい墓守の仕事で、長続きすると踏んだのか給料をごまかすこともなくなった。
 知識は我が身を守る盾になる。それはサヴィラがこれまでの人生で自信をもって言えることだった。

「サヴィ、ドアにこの術式紋を書いてみるか? もちろん、手順は教えるから」

「いいの?」

 思いがけない提案にサヴィラは顔を輝かせる。

「ああ。魔術学に興味があるんだろう? 俺も息子とあれこれできるのは楽しい」

 サヴィラは父から渡された術式紋を描く専用のペンを受け取る。魔力がなじみやすい特殊なインクが入っているのだ。

「では、まずはこの図形を見ろ。それで……ここを、こうして」

 父が差し出す図形を見て、まずはどういった術式紋で、どういった紋を使うのかを教えてもらう。どうやらこれは、ドアが上空でドラゴンの速度に負けて吹っ飛んでいかないようにするためのものだそうだ。
父に見守って貰いながら丁寧に馬車のドアの内側に術式紋を描く。術式紋は、インクで描くことも相まって、基本的に失敗は許されない。緊張で震えそうになる手を深呼吸で抑えて、サヴィラは慎重に父に教わった通りの術式紋を描いていく。

「これでよし、と」

「どれ……ふむ……」

 描き上げたそれをマヒロが確認する。ドキドキしながら父の横顔を見ていると、振り返った父がかすかに笑って頷き、サヴィラの頭をぽんぽんと撫でた。

「よし、じゃあ、ここを起点に魔力を流してみろ。うまく流れれば成功だ」

「うん」

 言われた通りに魔力を流すと面白いくらいに流れていく。
 魔力が隅々までいきわたると一瞬、淡く輝いた術式紋は解けるように消えて行った。これは馬車のドアの中に術式が完ぺきに埋め込まれたことの証明だった。

「やった! 父様できた!」

「ああ。さすが俺の息子だ」

「すごいな。……普通は図面を見ながら描くのも難しいんだがな」

「サヴィラは、本当に魔術学の才能があるのかもしれませんね」

 ナルキーサスやクロードにまで感心したように褒められて、サヴィラは恥ずかしくなって俯いた。
 マヒロが「俺の息子だからな」と言っていて、きっと誰が見ても分かりやすいくらいのドヤ顔をしているんだと分かってしまう。普段は何を考えているか分からない無表情のくせに。

「では、次は俺が描くのを見るか?」

 珍しく空気を読んでくれた父の提案にサヴィラは顔を上げる。

「マヒロの描く術式紋は、美しいぞ。一見の価値ありだ」

「私はあまりにも魅入られて、一つ描いてもらって額装して寝室に飾ってます」

「は? ずるいぞ! 私も欲しい! マヒロ! 私は空間拡張の闇属性術式紋がいい!!」

「君は、また……一番面倒くさいものを……」

 マヒロが嫌そうに言った。
 するとすかさずクロードが「そんなの私だってほしいですよ!」と騒ぎ出す。
 種族も年齢も性別も職業も何もかもバラバラな三人だが、魔術学という共通の趣味と大体同じくらいの精神年齢のおかげで気が合うんだろうとなとサヴィラは、くすくすと笑いながらにぎやかな三人を見守るのだった。






 雪乃はにぎやかな声の聞こえる庭へ顔を向ける。
 夫に何かをねだるように手を合わせるナルキーサスとクロード、それをサヴィラが笑いながら見ている。
 すると夫が二人をしっしとあしらい、サヴィラに声をかけて二人そろって馬車の中をのぞき込んだ。

「ママ……このけいと、もうないの?」

 ミアに袖を引かれて顔を向ける。
 ミアは、雪乃がマフラー制作に使った毛糸の残りでミアの宝物であるラビちゃんのマフラーを編んでいたのだが、それがなくなってしまったらしい。
 傍らに置いていたカゴの中やアイテムボックスの中も確認するがミアが使っている色の毛糸は見当たらなかった。

「ごめんなさい、もうないみたい。もともとが余りだから……でも、確かに長さが足りないわね」

 六歳児にしては器用なミアは、なかなか上手にマフラーを編んでいるが、ラビちゃんのマフラーにするにしても長さが少々物足りなかった。

「何かお困りごとですか?」

 ひょっこりと充が顔をのぞかせる。
 ミアが「けいとがなくなっちゃったの」としょんぼりと告げる。

「でしたら、私が買ってきましょうか。丁度、市場へ行く用事がありまして、そろそろ出かけようかと支度をしていたところなのです」

 確かに彼の言葉通り、充は秋用のコートを着込んでいた。いつも出掛ける時に、入用のものはあるかと聞きに来てくれるので今日もそのつもりで顔を出してくれたのだろう。

「じゃあ、お願いしてもいいかしら」

「ママ、ミアもみっちゃんといっしょにいってもいい? じぶんでえらびたいの」

「ママはいいけれど」

「お嬢様ひとりでしたらかまいませんが……」

充が苦笑交じりにミアの横を見れば、シルヴィアが高らかに手を挙げていた。

「わたくしも、いきたいですわ!」

 アマーリアが、そんな娘の姿に少し考えるようなそぶりを見せた後、アイリスを振り返る。

「アイリス、よければ同行してもらえないかしら?」

「ですが……」

 アイリスの護衛対象はシルヴィアではなくアマーリアだ。ダフネがいないので、アイリスが出かけるとアマーリアを守る人がいなくなってしまう。

「大丈夫。神父様たちもいらっしゃいますし、第二小隊の皆さんが警備にあたってくれていますもの。それに貴女が帰るまで、庭にも出ないとお約束します」

「……分かりました。確かに神父様が怪我をしている状態なら私も拒否しますが……今朝の鍛錬もお元気でしたしね」

 アイリスが少しの悔しさをにじませていった。
 元気になった真尋は毎朝、リックとエドワード、アイリス、そして、その日の当番の第二小隊の人たちとなぜか毎回いるカロリーナと庭で鍛錬をしている。それは剣術だったり体術だったり(魔法は危ないので禁止した)と様々だが、アイリスは今朝もこてんぱに打ち負かされたのだ。もっとも毎朝、真尋は全員を打ち負かして、一人だけ涼しい顔をしているのだが。

「アイリス、わたくしといっしょにおでかけしくれるの?」

 シルヴィアが嬉しそうに問う。アイリスは、優しく目を細めて「私でよろしければ」と頷いた。シルヴィアが椅子からぴょいと降りて「ありがとう」とアイリスに抱き着く。アイリスはなだめるようにシルヴィアの背を撫でた。
 では、行ってきます、と告げる充と嬉しそうにシルヴィアと手をつないでその背を追いかける娘、そして、そのあとについていくアイリスを見送り、雪乃は「元気ね」と思わず笑みをこぼした。

「ええ、本当に。ブランレトゥではお買い物なんて行かせてあげられなかったから。王都にいたころ、結婚する前はわたくしだって、友人たちと一緒にでかけたものです。屋敷に商人に来てもらってお買い物する時にはない楽しさがありますものね」

 アマーリアが言った。

「やっぱり王都はにぎやかなのかしら。アマーリアは王都で生まれ育ったんだものね」

「ええ。賑やかで、すこし騒がしいくらい。ユキノの故郷はどうでしたの?」

 アマーリアと雪乃はお互いを名前だけで呼び合い、敬語も使わないようになっていた。アマーリアからの『貴女と本当のお友達になりたいの』という要望に雪乃も「ぜひ」と応えた結果だ。

「そうねぇ。賑やかなところだったわ。とはいっても当時の私は今よりも体が言うことを聞かなくて、ほとんどお家にこもりきりだったのだけれど。十六歳になったころかしら。やっと私の体に合うお薬が見つかって、双子ちゃんと真尋さんと充さんで旅行に出かけたりもできるようになったの」

「そうなのね。……体が思うようにならないのは辛かったでしょう?」

「時には。とくに……真尋さんがお義父様と喧嘩をした時とか、何か辛いことがあった時、そばにいてあげられないのが一番、辛かったわ。あのひと、我慢ばかりしてしまうから」

 雪乃は編み物をする手を止めて、窓の外に顔を向ける。
 馬車の中に上半身を入れている夫の姿があり、ナルキーサスとクロードが横からのぞき込んでいる。サヴィラの姿はなないが、反対側のドアのほうから見ているのかもしれない。
 すると真尋が体を起こし、やっぱりサヴィラが反対側から戻ってきて、何か興奮した様子で真尋に告げた。真尋はぽんぽんと息子の頭を撫で、馬車の中を指さす。サヴィラがそれを見ながら頷いているので、何かの説明でもしているのかもしれない。

「……サヴィラは、神父様を本当にお父様として慕っているのね」

「ふふっ、そうね。何かと父様、父様って言っているし、魔術学だったかしら? それがとにかく二人は好きみたいで……真尋さんも息子と共通の話題が持てることが嬉しいみたい」

 アマーリアは、なんだか切なげな眼差しで、庭の光景を見つめていた。

「アマーリア?」

「……レオンハルトも、もう少し小さい頃は、お父様とお話がしたいって駄々をこねることもあったの。でも、夫がその要望に応えてくれることはなかった。『仕事が忙しくてお時間の確保が難しく……』って何度、彼の秘書官に言われたか知れないわ。そして、いつしかあの子はそう言わなくなったの」

 そう言ってアマーリアは目を伏せた。長い銀のまつ毛が白い頬に影を作る。

「わたくし自身も話をしたいと申し出たことも何度もあったの。でも、やっぱりお返事はいつも『仕事が忙しい』って……でも、それを言われてしまったら、領主夫人として、領民のために働くあの人を止めることも、非難することもできるわけがありませんもの。そして、今も……あの人は逃げ回っている」

「……アマーリアは、今後、領主様とどういう形に落ち着きたいの?」

 雪乃は思い切って聞いてみた。
 アマーリアは、編みかけのレオンハルト用のマフラーに視線を落とし、小さく微笑んだ。

「少しでもお話ができれば、とは思います。今回、私は子どものように家出をして、たくさんの方々に迷惑をかけてしまいましたから、それはきちんと謝りたいの。……でも、どういう形であれ、あの人は離縁は望まないでしょう。それをすると領主家は再び権力争いの中心になってしまいますもの。わたくしだって、自分なりにあれこれ調べて多少の内情は知っているんですのよ。だから、何はどうあれ、あの人が帰ってきても来なくても、ユキノたちがブランレトゥに帰るとき私もともに帰り、そして、城へ帰ります。……なにもできない領主夫人ですけれど、正妻の身分であるわたくしが存在しているだけで、わたくしの命より大事な息子と娘は少しばかり安全になりますもの」

 そういってアマーリアは顔を上げ、編みかけのマフラーを傍らに置くと、雪乃の隣へと腰を下ろした。

「ねえ、ユキノ。わたくしが城へ戻っても、会いに来てくださる? 夫は神父様と親しくしたいようだから、その妻である貴女なら、きっと招くことを許してくれるわ」

 彼女の細い手が雪乃の手を握りしめる。

「もしよければ、その時はサヴィラやミアを連れてきてくれると、あの子たちも喜ぶわ」

「アマーリア。まだそうなるとは決まっていないわ。話し合いをしないと……」

「あの人、逃げ回っているのでしょう? 神父様がカイト神父様とお話をしているのを聞いてしまったの」

 アマーリアは悲しそうに微笑んだ。

「この間、帰ってきたときだって、ここにいろ、としか言ってくれなかった。私に、行ってらっしゃいませ、と言わせる隙さえ与えてくれなかったし、子どもたちの顔さえも見ようとしなかったわ」

 雪乃は何も言えなくて、アマーリアの手を握り返した。

「貴女と神父様を見ていて、夫婦ってこういうものなのだと、驚いたわ。神父様は貴女を絶対にないがしろにしない。どんなこともちゃんと説明をしてくれる。子どもたちに対しても、いえ、わたくしたちに対しても話をするときは、きちんと目を見て、向き合ってくださるわ。わたくし、夫の瞳がどんな色をしていたかだって、もう……思い出せないの……っ」

 白い頬を伝って落ちた涙が、握り合った手を濡らす。

「……アマーリア。貴女は、旦那様のことをどう思っているの?」

 雪乃の問いにアマーリアが伏せていた目をわずかに上げる。
 これまでアマーリアがジークフリートに個人的に向ける気持ちについては分からないままだった。

「尊敬は、しています。……でも、それ以外のことは分からないわ……」

 それもそうか、と雪乃は納得する。
 政略結婚で、親に相手を決められてアマーリアとジークフリートは夫婦になった。領主としては優秀な人らしいので、尊敬はできても夫としてはかかわった時間があまりにも短すぎて、好きや嫌いという感情を作るほどのものがないのだ。
 子どもだっているんだし、と思わないでもないが、彼女もジークフリートも生粋の貴族だ。子どもを作り、産むこと、特に女性であるアマーリアにとっては最大の仕事だろう。それに幼いころから、そうなるように言われて育っているのだから疑問はないのだろうし、尊敬はしているので彼に触れられる嫌悪感もなかったのかもしれない。

「……目も、合わせてくれないし……」

 アマーリアのか細い声に耳を傾ける。

「シルヴィアを身ごもって以降、わたくしに触れてくださることもなくなって。頑張っておさそいもしてみたのだけれど……ついには寝室も別に……っ。もともと、ジークフリート様には別に婚約している方がいたの。だって、ジークフリート様は本来は騎士団長になる予定だったんですもの……でも、セオフィラス様が突然事故で亡くなって、その婚約者であったわたくしが相手になった……その婚約者の方のほうがよかったのかもしれないわ……っ。ジークフリート様とは年が近くて、しっかりした大人の女性だったもの……っ」

 ぽろぽろとアマーリアの頬を涙が滑り落ちていく。

「わたくしは領主夫人に、辺境伯夫人になり、領主様を支えるためだけに育てられたのに……、なのに、大事なところで失敗をしてしまったわたくしに、ジークフリート様は失望したんだわ……っ。勇気を出して、こんな家出なんて真似をしてみたけれど……だめね。ご迷惑をおかけしてしまっただけ……でも、でもね、もうわたくしのことは、城館に放置で構わないから、あの子たちには、きちんと、父親として、向き合ってほしいの……っ」

「アマーリア……」

 雪乃はどうしていいかわからずに、アマーリアを抱きしめた。アマーリアが、雪乃にぎゅうとしがみついてきて、雪乃も抱きしめ返す。
 ずっとずっと頑張ってきたのだろうな、と思う。王都で生まれ育ったアマーリアにとって、いくら幼い頃から嫁ぐ場所だと言われても、東の遠い遠い土地だ。知り合いもいなければ、友人だっていないだろう。乳姉妹のリリーがいるけれど、真面目な彼女は大事なリリーに心配をかけまいと頑張っていたに違いなかった。
 知らない土地で、知り合いもいなくて、唯一の頼りである旦那は見向きもしてくれない。それはどれだけ辛い事だろうか。
 雪乃はふつふつと怒りがわいてくるのを感じていた。
 とんとんと背を叩いて、少し体を離す。

「アマーリア、絶対に一度、領主様とお話をしましょう?」

「でも……」

「大丈夫よ。私の夫は、領主様の弱みの三つ四つ、握っているでしょうから、必ず席に着かせるわ」

 ぱちりとアマーリアが瞬きを一つした。涙がぼろりと落ちていく。

「それにもし、領主様が煮え切れない態度をとり続けるなら、その間はずっとうちにいればいいわ。城館より安全だもの。結婚生活っていうのは、お互いの話し合いでより良くしていくものよ。私と真尋さんだって、何度も話し合ってきたわ。されて嫌なこと、してほしいこと、そういういのはちゃんと話し合わなければだめよ」

「でも……わたくしはとんだ役立たずで、むしろ子を産む役目を与えていただけただけでも感謝すべきですわ」

「何を言っているの。子どもの健全な成長には、両親の健全な関係が必要なの。それにね、アマーリア。……真尋さんが死んでしまうかもしれないってなった時、私の手を握って、貴女は励ましてくれた。貴女のその励ましに私がどれほど救われたことか。だから何があっても私はアマーリアの味方よ。だから大丈夫。どんな結果が出たとしても私たち夫婦が貴女のそばにいるから」

「ユキノ……」

 アマーリアがわずかに表情を緩めた。雪乃も柔らかに微笑みを返す。

「それに私の大事な友人を泣かせたんだもの。……絶対に泣かせてやるわ」

「……ユキノ?」

「あら、なんでもないわ。ねえ、それよりほら涙を拭いて、子どもたちが心配してしまうわ」

「ええ、そうね、ありがとう」

 アマーリアは自分のハンカチをポケットから取り出して魔法で濡らすと目に当てた。雪乃は氷を魔法で作って彼女に渡しながら、内心でジークフリートをどうつるし上げるかについて、思考を巡らすのだった。





 休憩をしようとしていた海斗はリビングのドアのドアノブに手をかけたまま、ただただ微笑んだ。
ただならぬ空気を感じて、ドアを開けるのをためらった結果、雪乃の「ジークフリート、絶対に泣かす」という発言がばっちりと聞こえてしまった。
 海斗と一路は真尋と幼馴染だが、もちろん雪乃とだって幼馴染だ。海斗は六歳のころから雪乃を知っている。
 一見、病弱で美しい彼女ははかなげに見えるが、精神的な面で言えば真尋より強い人だ。むしろ、海斗が知る誰よりも強い。雪乃はやると言ったら絶対にやる女だ。それは間違いないと海斗は幼馴染として断言できた。
 もし真尋と雪乃、どちらが怖いかと聞かれたら、海斗も一路も充も(例えば双子が赤ちゃんになる前だったら双子も)、雪乃と答える。

「ジーク、骨は拾ってやるからな……雪乃は真尋以上に絶対に怒らせちゃいけないんだ」

 そう呟いて、ヴァイパーに紅茶を入れてもらって部屋に帰ろうと、ドアノブから手を放し、キッチンへと踵を返したのだった。


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明日の更新はお休みです。
来週も未定なのですが、更新できるように頑張ります!!

次のお話も楽しんでいただければ幸いです♪
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ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

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