幸せが終わるとき。(完結)

紫苑

文字の大きさ
98 / 119
WEBサイト版別バージョン編

杏美。

しおりを挟む
俺はあの日から、ゆっくりゆっくり暗い闇に落ちていく。
折角、君と出会って恋したことで、そして彼女の初めてを奪った時こそが「絶頂最高潮」。
それから君は、俺を裏切った。あのまま、あの時、何て考えても情けねぇ。
ぶくぶくと音を立てる無様な姿かと思いきや、混沌に身を任せて沈んでいく姿はスローモーションのようだった。

息が詰まり、息をするように君と別れてから初めて女に口説かれれば、断る気力もなく心のない付き合いがまた始まってしまった。大して話した事はなかったし、友人の友人と言う微妙な頃合いの仲で彼女はずっと俺が気になっていたという。

本当は忘れる気などなく、ただ寂しくて振られたばかりに狼に付け込まれた女の子のように、
煙草を吸うよりかは健康的な付き合いではないかとたまには自分の身体を気遣った。気遣ったのかすら謎の、意味不明の初めての行為だった。
そう、何故か煙草も自慰も、酒すらも辞めてしまい、これが本当に自暴自棄と気が付くのがとても遅かった。何かに「逃げている」うちは、本当はまだ大丈夫な選択なんだ。

本当に壊れるときは逃げるときさえ許されない、
と言うか、どうでもいいと目が死んでいく事に気が付いたのはある日顔を洗って鏡を見た時、

「死にそうな顔してんなぁ」

はは、と自嘲めいた笑みさえも浮かばない。
涙なんて枯れて出ない。疲れた顔を克明に見ているうちに、身体中を見ればいつもより痩せていた。
俺は最初からこれで良かったんだ、残酷に思うことが「残酷」とも心さえ感じずに、
「無知」と言うことが幸せであり不幸であり、「聡明」と言うことが気が付かないことに気が付いてしまうと知ったのは、壊れ始めてる証拠なのかもしれない。

知らなければ「それが当たり前」として受け入れられ、
知ってしまえば、「外の井戸から出た蛙」になってしまう。
その井戸が狭くても知らなければ、それはそれで、幸せで不幸だ。

それを他人がどう評価するのかすらも、どうでも良くなったら危険のサイン。

「…私と一緒に居て楽しくないの?」
「…どちらでも」
「それはどういう意味で」

そこまで聞くと、も~、とりあえずご飯作るねと彼女は笑ってため息をついた。
彼女のご飯が楽しめると思うだけに落ちていたのか、まだ大丈夫なのか。
何故かこの彼女からは今は居ない母の食事の味がして、無心ながらも食指が動く。
鶏ひき肉のレンコンのハンバーグ、豚汁に豆腐とわかめとミニトマトのサラダ。
味蕾が死んでいない、生きているんだと喜びの感情さえも浮かばないほど、疲れていた。
これは、俺は彼女に母親を求めているのか?キスされても俺からすることは一切ない。
学校でも浮くようになりながら、授業だけ仕事だけこなす日々が続く。

無限に続く人生とやらを偉そうに説かれても、俺はもう疲れてるんだ。
これ以上、心をかき乱す存在何て要らない。喜びを教えるようで裏切るなら要らない。
俺は誰も要らない。誰にも心を動かされ何てしない。もういいんだ。
もういいんだよ。誰も傷つけたくないんだ。

傷つけられたくないんだ…。

それでも、夢で彼女の夢を見れば、俺は病んでると思った。
抱きしめるとか、抱くとか、キスするとかデートするとかそんな幸せな夢じゃなかった。
ただ泣かせたと言う事実を思い知らせる悪夢だった。

あのまま、旦那の元へ帰って幸せによろしくやりゃあいい。
あのまま、俺さえが消えてしまえばいいんだと、俺はあの思い出の詰まったマンションを引っ越して、
横に居る女と同棲《くら》し始めた。
「同棲」と言うより「同居」だった。俺と彼女はまともにセックスもしない、
その上でキスもしない。更にデートだって俺は意識ここにあらず。
ただ一緒に布団で寝るだけで、更にご飯を食べるだけ。お互い何なんだと思ってるだろう。
それでも嫌がる様子を見せながらも彼女はいつも美味しいご飯を作って、
洗濯やお風呂掃除に、片づけて、お風呂のお湯を沸かして入るようにゆっくり勧める。

綺麗に並ばれたクローゼットの下着や洋服、靴下は丸めて畳んであり、
片づけられた部屋やお風呂、暖かいのか冷たいのか感覚すらも忘れた。
気が付けば俺は鏡の前で少しずつ、目は死んでは居るけど肌は整い、身体は肉がついて、
それはあの女のお陰だと気が付く。

欲望も疼かない。でも、とても感謝しているほどに心が生きていることに全身がよぎった。
何も聞かずに傍に居るのはつらかったのではないか、当たり前だと気が付く。
こうして世話を焼くことさえ躊躇もしない理由は何だと聞くと、

「貴方が人間として好きなのよ。
事情は貴方の友人から聞いたけれど、
貴方は自分が思っているより人間らしいの。」

どこが、と聞くと、

「覚えてない?初めて会った時、貴方一人で泣いていたの。
奪っちゃえばいいのに出来ないところとか、
馬鹿なのに自制が聞くとことか、子供の事で悩むとか。
恋ではないけど、愛しいと思ったわ。子供っぽくてそれでも大人な貴方はいずれ立ち直れると信じてるの。それまで何年でも私の好きでこうするわ。好きでやってることだし、都合のいい女って言われても気にしないからね。」

何でそんな俺なんかに優しいの、と聞くと、

「貴方が同情でも何でもなく、
壊れてしまうほどに人を愛せる貴方が羨ましいから」

羨ましい、何で?と聞き返す。

「私さ…実は生まれてこの方『人を愛した』ことがないの。
父も母も愛してくれてるはずなのに、友人も恋人も知人も親戚も。
『好き』以上に行かないの。普通の家庭に生まれたのに変よね?」

それはそれでいいんじゃない?『普通の家庭』何て存在しないから。

それぞれに、それぞれの事情があって、その人はその人じゃないの。

「うん、あんたのそういうとこは少し愛しいかもね」

変な女。

「そう変なの。馬鹿に何てしてないのよ?私は私の事は自分で責任持つし、
出来る限りの事以上は絶対しない。優越感持つなんて何でするかもわからないのよ」

お前もどっかおかしいな。

「ふふ、私今生きてるのさえ不思議なの。
何で生きてるのか理由が欲しいから、『貴方を世話見てる、見なきゃいけない』なんて自己顕示欲の塊でしょ?」

「はは」

口元が可笑しくて揺らぎ、動いたのは数か月経って初めてだった。
くふふ、あははとこの女の可笑しさに涙が出た。腹が苦しくてひーひー堪えるのが生まれて初めてかのように苦しくて苦しくて、笑いが止まると涙が溢れた。ティアナも泣いてるのでは、とふと思い、傷つけたことを久々に罪悪感が心を駆けていく。

ああ、俺生きてるんだなぁ…。

嬉しさと気づかされたことの気恥ずかしさに、顔が赤くなり、これでも大人なのかと思うと思春期のガキかよと、顔を隠した。

「か~わいい~」

と優しい顔で微笑む杏美あずみはとても綺麗な顔をして、近づき指を退かして唇を重ねた。
俺に傷つけられて心が痛いはずなのに柔らかく微笑む杏美は、聖女のように美しい女神のようないい女と言うことにも気が付くのが遅かった。

傷つけても逃げない、何も悪く言わない。
その代わりにキスが終わっても満足げな顔でニコニコと笑うのが返って苛めかと思った。
人は分かりやすく傷つけられるよりも、優しく何も言われず責められない事に傷つけられる人が多いと知った。

色んなことを教えてくれて、
人間に戻してくれた杏美に「感謝」しか気持ちしか沸かない。
恋愛感情がない、家族が一人増えたような幸福感はとても不思議で、

「もう大丈夫だね。あのマンション、また再契約しといたから戻るんだよ」
「嫌だ、杏美と住めなくなるなんて嫌だよ…なんでだよ。」

子供じみた我儘をここまではっきりあからさまに女にぶつけたのも初めてでぎゅーっとしがみ付いて離さなかった。ふぅとため息をつくと、冷静な目でふふと笑う杏美。

「そうそう、ティアナさんにもその調子で”素”のあんたでぶつかるのよ。
カッコつけてもかわい子ぶってもいい、叫んじゃえ、好きだって、大声で響くまで。
嫌われてもいい。好かれたら万歳。その『経験』は残る、愛した気持ちは残るよ。
子供でもいいじゃない、本当に欲しいものは二択なんてないよ。」

ふっと辛そうに笑うと、過去に何か欲しいものがあったのかと聞くタイミングを逃してしまう。
携帯で引っ越しの日取りまで決め始めるものだから、「美味しいご飯が食べられなくなる」とか、「嫌だ、離れないで」と抱き着いて、我儘を言いたい放題言って我儘の言い方を生まれて初めて覚えてしまう。

これも「杏美の狙い」だったのでは、と渋々マンションへ戻ることを決めると、

「これからも健全なお友達でいましょうね」

と余裕の笑みで躱されてしまう。

何もかもが新鮮でこの女を何てカッコいいのだろうと思った。
の締め付けは敢えて気が付かないふりをして、
引っ越しの日には、杏美から差し出された手を握って、握手をして「ありがとう」と柔らかな笑顔で微笑む自分が居た。

引っ越しのトラックに乗り込むと、

ミラーには、

澄んだ目をして笑ってる自分が杏美に手を振って、
年甲斐もなく、もう一度窓から顔を出して「ありがとう!!」と大声で叫んだ。
杏美は手を振ると、小さく見えなくなり、ブロロと排気ガスの出る音が聞こえた。
住み慣れたと言っても数か月の懐かしい並木道、
二人で買い物に行ったスーパー、公園でぼーっとしたあの日、
そんな思い出がよぎっては、それでも「楽しかった」と自己満足だけれども思える俺が居る。
もう同じ床で眠ることはなくても、

大事大切大事家族みたい女友達ダチ

もう一度ぶつかるまではまだ時間が掛かるかもしれないけれど、
ティアナから結婚式の案内状が来るまでには、

答えが出てるといいな
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

幼馴染の許嫁

山見月あいまゆ
恋愛
私にとって世界一かっこいい男の子は、同い年で幼馴染の高校1年、朝霧 連(あさぎり れん)だ。 彼は、私の許嫁だ。 ___あの日までは その日、私は連に私の手作りのお弁当を届けに行く時だった 連を見つけたとき、連は私が知らない女の子と一緒だった 連はモテるからいつも、周りに女の子がいるのは慣れいてたがもやもやした気持ちになった 女の子は、薄い緑色の髪、ピンク色の瞳、ピンクのフリルのついたワンピース 誰が見ても、愛らしいと思う子だった。 それに比べて、自分は濃い藍色の髪に、水色の瞳、目には大きな黒色の眼鏡 どうみても、女の子よりも女子力が低そうな黄土色の入ったお洋服 どちらが可愛いかなんて100人中100人が女の子のほうが、かわいいというだろう 「こっちを見ている人がいるよ、知り合い?」 可愛い声で連に私のことを聞いているのが聞こえる 「ああ、あれが例の許嫁、氷瀬 美鈴(こおりせ みすず)だ。」 例のってことは、前から私のことを話していたのか。 それだけでも、ショックだった。 その時、連はよしっと覚悟を決めた顔をした 「美鈴、許嫁をやめてくれないか。」 頭を殴られた感覚だった。 いや、それ以上だったかもしれない。 「結婚や恋愛は、好きな子としたいんだ。」 受け入れたくない。 けど、これが連の本心なんだ。 受け入れるしかない 一つだけ、わかったことがある 私は、連に 「許嫁、やめますっ」 選ばれなかったんだ… 八つ当たりの感覚で連に向かって、そして女の子に向かって言った。

幼馴染

ざっく
恋愛
私にはすごくよくできた幼馴染がいる。格好良くて優しくて。だけど、彼らはもう一人の幼馴染の女の子に夢中なのだ。私だって、もう彼らの世話をさせられるのはうんざりした。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...