見えない明日に揺れる僕たちは

多田莉都

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第3章

夏休みの前に 6

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 2年の100m走決勝が先に行われ、文哉は5位に入り、6位までに与えられる北信越大会の出場権を手に入れた。

 続けて3年の100m走 決勝だ。僕もこの種目に出場する。
 決勝はこれまでに何度も大会で顔を合わせたことのある選手ばかりだった。招集場所で会ったときは、軽く談笑することもできたが、さすがにレース直前ともなるとそんな雰囲気はない。

 スタートブロックの後ろに決勝に進出する選手が並ぶ。

「位置について」

 スターターからの声が響いた。
 僕は一礼をしてスタートブロックの前に立ち、前を見据える。妙に胸の奥に淀みのようなものを感じる。これまでも何度も走ってきた場所なのに。決勝も初めてではないのに。

 スタートさえうまく切れれば、あとはスピードに乗ればそれだけで勝つことができるはず、何も不安になる必要はない。
 僕は首を横に振ってから、しゃがみこみスタートブロックに足を乗せ、タータンに両手を置く。夏の日差しで熱されたタータンは熱かった。背中を少しだけ揺らし、僕は息を吐く。

「用意」

 腰を上げ、スタートの準備に入る。あとはピストルの音と同時にブロックを蹴って走るだけだ。
 ピストルの音が鳴った瞬間、僕はスタートブロックを蹴った。悪くない、むしろ良いタイミングで飛び出せた。
 そのはずだった。
 
 ピストルがパンパンと二度鳴った。中断を知らせる音だった。
 選手たちは勢いを落とし止まる。誰かがフライングをしたのだろう、僕はスタートラインに戻り、身体をほぐすべく、右の肩を回した。審判員がトラックに入ってきた。
 フライングをした選手はレッドカードが提示される。レッドカードを向けられた選手は、『失格』となる。

 僕ではないだろうと思いつつも、不安が頭の中で生まれだす。急に汗が額から湧き出てきた。
 審判員はゆっくりと歩き、そして――、僕の前で止まった。


「え……?」

 審判はポケットからカードを取り出すと、僕に向けた。


 心臓が一瞬、跳ねたのではないかと思うほどそのカードには威圧感があった。


 フライングをしたのは僕だった。

*
 そんなまさか、と思いつつも自分がスタートを焦っていたという感覚もあった。ほんの僅かピストルよりも先に出てしまったのかもしれない。
 どう考えたところで、この結果は変わらない。
 僕は一礼をして、スタートラインから離れた。フライングで失格になるなんて、陸上を始めてから一度もなかった。タータンからコンクリートの部分に足を踏み入れたときスパイクがジャリジャリと音を出す。
 
 パン、と音が聞こえて振り向くと僕のレーンだけが空いた状態で、3年100m走決勝が始まった。
 僕は誰が1位になるかを見る気もなく、その場を離れた。
 
 スタンドに上がると、最前列に美咲が座っているのが見えた。隣には彩夏の姿もあった。
 さすがに声をかけにいく気分にはなれなくて、僕は別の階段から見つからないようにして、スタンド裏の通路に移動した。この裏側を抜ければウチの陸上部の待機場所へ戻ることができる。
 スタンドからのザワザワとした音がやけに他人事みたいに聞こえた。裏側は日陰だが夏の熱気で蒸し暑かった。
 額の汗をタオルで拭っているときだった。

「泣いてたり、とか?」

 聞き覚えのある声がした。振り向くとそこにいたのは美咲だった。いつの間に後ろについてきていたんだろう。

「泣いてねーし」
「あ、そう。あんなレースになっちゃったから裏側で泣いてるのかと思った」
「別に」

 走ることもできず終わったのだ。泣くほど悔しくもなれない。

「どうして裏側ここに?」
「なんとなく」
「なんとなくって」
「たまに失敗やらかしたとき、佑って人に見つからないように行動するでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ」

 何がおかしいのか美咲は笑っていた。

「クラスの女子も何人か応援きてたのに、残念だったね」

 何人か、ということは彩夏以外もいたのか。僕は全く気付いてもいなかった。

「誰か来てたんだ?」
「うん、彩夏以外にも千尋とか絵理沙とか。さくらも来たがってたけどテニスの練習あるって言ってた」
「そっか。せっかく来てくれたのに悪かったな」
「別に。佑は私たちのために走るわけじゃないでしょ」

 たしかに僕は誰かのために走っているわけではない。誰かのために生きているわけではない。では、何のために――、

「悪い。オレ、陸上部のとこ戻らないと」
「うん、疲れてるとこごめん」
「いや。みんなにも謝っといて」
「だから、佑は何も悪くないって言ってるじゃん」

 美咲が笑った。僕も少し笑い返すことができたような気がした。
 僕が裏側を抜けて歩いていくのが美咲に読まれていたのはちょっとショックだった。
 そして、それ以上に、こんなふがいない結果を出したことが信じられず、僕は美咲と別れたあとに、コンクリートの壁を力任せに強く叩いた。ジンとした痛みが拳に伝わった。
 僕は、何をやっているんだろう。
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