17 / 78
第3章
夏休みの前に 6
しおりを挟む
2年の100m走決勝が先に行われ、文哉は5位に入り、6位までに与えられる北信越大会の出場権を手に入れた。
続けて3年の100m走 決勝だ。僕もこの種目に出場する。
決勝はこれまでに何度も大会で顔を合わせたことのある選手ばかりだった。招集場所で会ったときは、軽く談笑することもできたが、さすがにレース直前ともなるとそんな雰囲気はない。
スタートブロックの後ろに決勝に進出する選手が並ぶ。
「位置について」
スターターからの声が響いた。
僕は一礼をしてスタートブロックの前に立ち、前を見据える。妙に胸の奥に淀みのようなものを感じる。これまでも何度も走ってきた場所なのに。決勝も初めてではないのに。
スタートさえうまく切れれば、あとはスピードに乗ればそれだけで勝つことができるはず、何も不安になる必要はない。
僕は首を横に振ってから、しゃがみこみスタートブロックに足を乗せ、タータンに両手を置く。夏の日差しで熱されたタータンは熱かった。背中を少しだけ揺らし、僕は息を吐く。
「用意」
腰を上げ、スタートの準備に入る。あとはピストルの音と同時にブロックを蹴って走るだけだ。
ピストルの音が鳴った瞬間、僕はスタートブロックを蹴った。悪くない、むしろ良いタイミングで飛び出せた。
そのはずだった。
ピストルがパンパンと二度鳴った。中断を知らせる音だった。
選手たちは勢いを落とし止まる。誰かがフライングをしたのだろう、僕はスタートラインに戻り、身体をほぐすべく、右の肩を回した。審判員がトラックに入ってきた。
フライングをした選手はレッドカードが提示される。レッドカードを向けられた選手は、『失格』となる。
僕ではないだろうと思いつつも、不安が頭の中で生まれだす。急に汗が額から湧き出てきた。
審判員はゆっくりと歩き、そして――、僕の前で止まった。
「え……?」
審判はポケットからカードを取り出すと、僕に向けた。
心臓が一瞬、跳ねたのではないかと思うほどそのカードには威圧感があった。
フライングをしたのは僕だった。
*
そんなまさか、と思いつつも自分がスタートを焦っていたという感覚もあった。ほんの僅かピストルよりも先に出てしまったのかもしれない。
どう考えたところで、この結果は変わらない。
僕は一礼をして、スタートラインから離れた。フライングで失格になるなんて、陸上を始めてから一度もなかった。タータンからコンクリートの部分に足を踏み入れたときスパイクがジャリジャリと音を出す。
パン、と音が聞こえて振り向くと僕のレーンだけが空いた状態で、3年100m走決勝が始まった。
僕は誰が1位になるかを見る気もなく、その場を離れた。
スタンドに上がると、最前列に美咲が座っているのが見えた。隣には彩夏の姿もあった。
さすがに声をかけにいく気分にはなれなくて、僕は別の階段から見つからないようにして、スタンド裏の通路に移動した。この裏側を抜ければウチの陸上部の待機場所へ戻ることができる。
スタンドからのザワザワとした音がやけに他人事みたいに聞こえた。裏側は日陰だが夏の熱気で蒸し暑かった。
額の汗をタオルで拭っているときだった。
「泣いてたり、とか?」
聞き覚えのある声がした。振り向くとそこにいたのは美咲だった。いつの間に後ろについてきていたんだろう。
「泣いてねーし」
「あ、そう。あんなレースになっちゃったから裏側で泣いてるのかと思った」
「別に」
走ることもできず終わったのだ。泣くほど悔しくもなれない。
「どうして裏側に?」
「なんとなく」
「なんとなくって」
「たまに失敗やらかしたとき、佑って人に見つからないように行動するでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
何がおかしいのか美咲は笑っていた。
「クラスの女子も何人か応援きてたのに、残念だったね」
何人か、ということは彩夏以外もいたのか。僕は全く気付いてもいなかった。
「誰か来てたんだ?」
「うん、彩夏以外にも千尋とか絵理沙とか。さくらも来たがってたけどテニスの練習あるって言ってた」
「そっか。せっかく来てくれたのに悪かったな」
「別に。佑は私たちのために走るわけじゃないでしょ」
たしかに僕は誰かのために走っているわけではない。誰かのために生きているわけではない。では、何のために――、
「悪い。オレ、陸上部のとこ戻らないと」
「うん、疲れてるとこごめん」
「いや。みんなにも謝っといて」
「だから、佑は何も悪くないって言ってるじゃん」
美咲が笑った。僕も少し笑い返すことができたような気がした。
僕が裏側を抜けて歩いていくのが美咲に読まれていたのはちょっとショックだった。
そして、それ以上に、こんなふがいない結果を出したことが信じられず、僕は美咲と別れたあとに、コンクリートの壁を力任せに強く叩いた。ジンとした痛みが拳に伝わった。
僕は、何をやっているんだろう。
続けて3年の100m走 決勝だ。僕もこの種目に出場する。
決勝はこれまでに何度も大会で顔を合わせたことのある選手ばかりだった。招集場所で会ったときは、軽く談笑することもできたが、さすがにレース直前ともなるとそんな雰囲気はない。
スタートブロックの後ろに決勝に進出する選手が並ぶ。
「位置について」
スターターからの声が響いた。
僕は一礼をしてスタートブロックの前に立ち、前を見据える。妙に胸の奥に淀みのようなものを感じる。これまでも何度も走ってきた場所なのに。決勝も初めてではないのに。
スタートさえうまく切れれば、あとはスピードに乗ればそれだけで勝つことができるはず、何も不安になる必要はない。
僕は首を横に振ってから、しゃがみこみスタートブロックに足を乗せ、タータンに両手を置く。夏の日差しで熱されたタータンは熱かった。背中を少しだけ揺らし、僕は息を吐く。
「用意」
腰を上げ、スタートの準備に入る。あとはピストルの音と同時にブロックを蹴って走るだけだ。
ピストルの音が鳴った瞬間、僕はスタートブロックを蹴った。悪くない、むしろ良いタイミングで飛び出せた。
そのはずだった。
ピストルがパンパンと二度鳴った。中断を知らせる音だった。
選手たちは勢いを落とし止まる。誰かがフライングをしたのだろう、僕はスタートラインに戻り、身体をほぐすべく、右の肩を回した。審判員がトラックに入ってきた。
フライングをした選手はレッドカードが提示される。レッドカードを向けられた選手は、『失格』となる。
僕ではないだろうと思いつつも、不安が頭の中で生まれだす。急に汗が額から湧き出てきた。
審判員はゆっくりと歩き、そして――、僕の前で止まった。
「え……?」
審判はポケットからカードを取り出すと、僕に向けた。
心臓が一瞬、跳ねたのではないかと思うほどそのカードには威圧感があった。
フライングをしたのは僕だった。
*
そんなまさか、と思いつつも自分がスタートを焦っていたという感覚もあった。ほんの僅かピストルよりも先に出てしまったのかもしれない。
どう考えたところで、この結果は変わらない。
僕は一礼をして、スタートラインから離れた。フライングで失格になるなんて、陸上を始めてから一度もなかった。タータンからコンクリートの部分に足を踏み入れたときスパイクがジャリジャリと音を出す。
パン、と音が聞こえて振り向くと僕のレーンだけが空いた状態で、3年100m走決勝が始まった。
僕は誰が1位になるかを見る気もなく、その場を離れた。
スタンドに上がると、最前列に美咲が座っているのが見えた。隣には彩夏の姿もあった。
さすがに声をかけにいく気分にはなれなくて、僕は別の階段から見つからないようにして、スタンド裏の通路に移動した。この裏側を抜ければウチの陸上部の待機場所へ戻ることができる。
スタンドからのザワザワとした音がやけに他人事みたいに聞こえた。裏側は日陰だが夏の熱気で蒸し暑かった。
額の汗をタオルで拭っているときだった。
「泣いてたり、とか?」
聞き覚えのある声がした。振り向くとそこにいたのは美咲だった。いつの間に後ろについてきていたんだろう。
「泣いてねーし」
「あ、そう。あんなレースになっちゃったから裏側で泣いてるのかと思った」
「別に」
走ることもできず終わったのだ。泣くほど悔しくもなれない。
「どうして裏側に?」
「なんとなく」
「なんとなくって」
「たまに失敗やらかしたとき、佑って人に見つからないように行動するでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
何がおかしいのか美咲は笑っていた。
「クラスの女子も何人か応援きてたのに、残念だったね」
何人か、ということは彩夏以外もいたのか。僕は全く気付いてもいなかった。
「誰か来てたんだ?」
「うん、彩夏以外にも千尋とか絵理沙とか。さくらも来たがってたけどテニスの練習あるって言ってた」
「そっか。せっかく来てくれたのに悪かったな」
「別に。佑は私たちのために走るわけじゃないでしょ」
たしかに僕は誰かのために走っているわけではない。誰かのために生きているわけではない。では、何のために――、
「悪い。オレ、陸上部のとこ戻らないと」
「うん、疲れてるとこごめん」
「いや。みんなにも謝っといて」
「だから、佑は何も悪くないって言ってるじゃん」
美咲が笑った。僕も少し笑い返すことができたような気がした。
僕が裏側を抜けて歩いていくのが美咲に読まれていたのはちょっとショックだった。
そして、それ以上に、こんなふがいない結果を出したことが信じられず、僕は美咲と別れたあとに、コンクリートの壁を力任せに強く叩いた。ジンとした痛みが拳に伝わった。
僕は、何をやっているんだろう。
25
あなたにおすすめの小説
【完結】イケメンが邪魔して本命に告白できません
竹柏凪紗
青春
高校の入学式、芸能コースに通うアイドルでイケメンの如月風磨が普通科で目立たない最上碧衣の教室にやってきた。女子たちがキャーキャー騒ぐなか、風磨は碧衣の肩を抱き寄せ「お前、今日から俺の女な」と宣言する。その真意とウソつきたちによって複雑になっていく2人の結末とは──
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
静かに過ごしたい冬馬君が学園のマドンナに好かれてしまった件について
おとら@ 書籍発売中
青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である
そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。
なんと、彼女は学園のマドンナだった……!
こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。
彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。
そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。
そして助けられた少女もまた……。
二人の青春、そして成長物語をご覧ください。
※中盤から甘々にご注意を。
※性描写ありは保険です。
他サイトにも掲載しております。
脅され彼女~可愛い女子の弱みを握ったので脅して彼女にしてみたが、健気すぎて幸せにしたいと思った~
みずがめ
青春
陰キャ男子が後輩の女子の弱みを握ってしまった。彼女いない歴=年齢の彼は後輩少女に彼女になってくれとお願いする。脅迫から生まれた恋人関係ではあったが、彼女はとても健気な女の子だった。
ゲス男子×健気女子のコンプレックスにまみれた、もしかしたら純愛になるかもしれないお話。
※この作品は別サイトにも掲載しています。
※表紙イラストは、あっきコタロウさんに描いていただきました。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる