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4巻
4-3
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「冗談よ。相乗りは前にしたから、今度は一人で乗ってみたいだけ」
「まぁ、ルゼちゃんならいきなりでも平気だろうけど。基本は馬術と同じ。前に簡単に説明したの覚えてるか?」
「ええ、覚えてるわ。ヘルちゃんにも教えてもらったから大丈夫よ」
私はキュルキュの背に手を置くと、スカートを翻して跨がった。
「お前、本当に一人で飛ぶのか!?」
タロテスがマティアさんの背に隠れながら聞いてくる。
気になるけど怖いようだ。ヘタレな子だな。
「もちろんよ。竜には前に乗ったことがあるの」
スカートが捲れてないか気にしつつ、さらに周囲を確認する。
問題なし!
「よし、行けっ!」
私はキュルキュの腹を足で圧迫する。基本は馬術と似たようなものだとテルゼは言ったが、移動方向は前や横だけでなく上下もあるので、操り方が少し複雑になる。が、まあ大丈夫だろう。
竜は翼を広げて地を蹴り、私を乗せて大空へ羽ばたいた。
それほど高く飛ばず、以前ヘルちゃんと相乗りした時に聞いた操り方に従って動いてくれるのを確認して、しばらく周辺の空を飛ぶ。
近くの木々で長閑に羽休めしていた鳥達が、竜の鳴き声と羽ばたきを聞いて狂乱する姿に、思わず笑いがこぼれた。
キュルキュは細身だが、羽ばたきは力強くて頼もしかった。こうして一人で手綱を握るのには、誰かと相乗りするのとはまた違った楽しさがある。
私達に気付いた人々がこちらを指さしている。こうして見下ろすと、エノーラお姉様のお屋敷は他よりも凝ったデザインで、立地的にもいいところにあるのがよく分かる。
慣れてきたのでもう少し高い場所まで行き、キュルキュに問題が無さそうなのを確認して一度地上に戻る。スカートが捲れ上がるのを手で押さえて、鞍の上で少しつんのめりつつも無事着地した。
完全に制止すると、スカートを気にしながらキュルキュの背から飛び降りた。
「ただいま」
スカートの裾を払って伸ばしながら皆に笑ってみせる。
「ねぇねぇ、ルゼって竜に乗ったことがあるの?」
子供達を連れて近づいてきたセルジアスが尋ねてくる。
「一人では初めてだけど」
「物怖じしないねぇ。たまにはきゃーとか言ったらいいのに。竜を見て可愛いって飛びついていきなり乗るなんて、君ぐらいだ」
「じゃあゴキブリが出たらきゃあきゃあ言うから助けてね」
「あ、それ僕も怖い」
情けない男め。ゴキブリ退治は、男が女の前で最も輝ける瞬間だというのに!
「君はゴキブリは嫌なのに、竜は平気なの?」
いや、ゴキブリと比べるのが間違っている。まあいいけど。
「私は昔から高いところが大好きなの」
「そういう問題じゃないと思うけど? それに、癖も分からない竜に乗るなんて」
「この子は素直でいい子だもの」
「なんだかねぇ……」
塀の外から、竜が飛んでいたと騒ぐ声が聞こえてきた。ここは住宅街だから、目立って当然だろう。
周囲が突然騒がしくなったせいか、キュルキュが興奮し出したので、前に回り込んでその喉を撫でた。
「いい子だったわね」
「ははは、初めて乗ってそう言うのは君だけだよ。さすがに一瞬で手懐けるとは思わなかった」
テルゼが愉快と笑い、私は余裕の笑みを返す。
「動物と心を通わせるのに時間は関係ないわ」
「いや、心っていうか明らかに力で服従させてるし」
セルが楽しそうにそう言った。
「竜騎士って言ったら、騎士の中でも特に選び抜かれた超エリートだよ。竜って簡単に従う生き物じゃないから。地下の竜って地上の竜より大人しいのかな」
「まあ、元々こいつは大人しい南の方の竜だし、今では家畜化されてるからなぁ。気が荒い方でも、この国の竜よりは扱いやすいかもな」
竜騎士は、竜を乗りこなせるからこそ称えられる。
つまり竜とは本来なら簡単に乗りこなせないものなのだ。
「すげぇ。お前すげぇな!」
「おねえさますごーい」
子供達がキラキラと目を輝かせて見つめてくる。タロテスにここまで感心されたのは初めてだな。彼らは乗りたそうにうずうずと私を見ている。
乗せてあげたいけど、いきなりじゃ母親達が心配するだろう。私は視線を巡らせて、ぽかんとしているカリンに目を付けた。
今日の主役は彼女だ。
「カリン、どうしたの、ぼーっとして。あ、乗りたい?」
私は彼女のもとへ歩み寄り、手を差し出した。
「えっ?」
彼女は呆けたように私を見つめ、同じように手を差し出してくる。
私はそんな、ちゃんと前を見ているのか疑わしい夢現なカリンの手を取った。
エノーラお姉様が世話をしているせいか、彼女からは花の匂いがした。
エノーラお姉様はゼルバ商会の中で、婦人部門の責任者を務めている。香りも美容の一部と、親しい人にはそれぞれに似合う匂いの香水を作ってプレゼントするのだ。それがなかなかいい宣伝になるらしい。
最近エノーラお姉様は安全のためと称してカリンを連れ歩いているから、彼女にも自社製品を身につけさせて、宣伝に利用しているはずだ。カリンは目に見えて綺麗になったから、その宣伝効果はかなり高いのではないかと思う。
「あっ、えっと、あのっ」
無意識で手を差し出していたのか、私が手を取った瞬間、彼女の目の焦点が合い、戸惑いの声が上がった。
「怖い?」
私は彼女の顔を覗き込んで問う。
普通は怖いだろう。誘っているのがギル様のような完璧な王子様ならともかく、私はただの女だ。身を任せるのは不安だろう。実際には誰よりも安全な同乗者なのだが。
「いいえ」
そう答えた瞬間、彼女は驚いたような顔をした。
彼女は本当はとても控え目で大人しい少女だから、竜に乗ろうなんて誘われて思わずふらふらと手を差し出してしまったことに自分自身驚いてしまったのかもしれない。
私は彼女の出した答えに満足して笑い、そのままキュルキュの傍らまで手を引く。
「テルゼ、念のため紐貸してくれない?」
「ベルトがある」
エノーラお姉様の屋敷に住み着いているテルゼの部下からベルトを受け取る。
これで多少のことは大丈夫。
そして彼女の腰に手を回して片腕で抱え、もう片方の腕で自分の身体を引き上げて竜の背に乗る。
私はそのまましっかり跨がり、前にカリンを横座りさせた。
「うっそ」
カリンが驚いて声を上げた。
あれだけ目の前でナイフバトルをしたのに、今更驚いているようだ。カリンがそれ以上言葉を出せないでいる間に、彼女のドレスの裾をさっと整えて、横座りのまま落ちないように座り直させる。そしてベルトで彼女の身体を鞍に固定した。
私はカリンの片手を引いて、鞍の前に付いた取っ手に誘導した。
それで準備は整った。
「大丈夫。しっかりとそれを掴んで、もう片方の手で私にしがみついていればいいわよ。私も落ちないようにずっと支えているから」
そう言うと、彼女は後ろに座る私の腰に片腕を回した。柔らかい感触に、私は小さく唸った。
最初に会った、ふっくらしていた時よりも痩せたのは間違いない。しかし、それでも女性特有の柔らかさがあるのだ。とても抱き心地がいい。ギル様好みの『華奢』とか『折れそうな腰』といったタイプとは違う、普通の男の人が好む健康的な身体なのだろう。
羨ましい。私も肉をつけたらこうなれるだろうか。
「ど、どうしたの? やっぱり重かった?」
「いや、そういうのじゃないから。じゃあ行くよ」
カリンは私を見上げ、興奮ぎみに顔を赤くして頷いた。
キュルキュが翼を広げた瞬間、カリンがぎゅっとしがみついてくる。こうして腰に触れられるのは、少しくすぐったいかもしれない。
「きゃっ」
翼が動くとスカートの裾が捲れ上がり、カリンが悲鳴を上げた。私は彼女のスカートを手で押さえながら、太股の下に挟んで押さえ込む。これでまあ大丈夫だろう。
竜が地を蹴ると、カリンは振動に驚いたのか歯を噛みしめて私にしがみつく。私も彼女を安心させるように強く抱く。
浮遊感がしたかと思うとわずかに落下し、今度は一気に上昇する。怯えながらもカリンは私にしがみつき、しっかりと目を開いていた。
景色が激しく揺れる。その間にキュルキュはものすごい勢いで屋根を越えていき、屋敷や人が、高い塔から見下ろした時のように小さくなった。
「もっと上に行こうか」
先ほどよりも上に、とにかく上昇していく。
都が見渡せるようになった頃、キュルキュの上昇を止めた。
そこでキュルキュが風に乗ると、動きが穏やかになる。景色がぶれずにはっきりと見えるようになると、カリンも落ち着いて首を巡らせた。
「ぅわあ……」
カリンは眼下の街並みではなく、遠くに見える山々の方を見て声を上げた。
都から離れた所に広がる森は、その向こうにある山脈まで続いている。山脈の頂上付近には雪が積もり、独特の形をした岩稜が朧気に見える。
少し視線を横にずらすと、都まで流れる川があり、その上流に見えるのは避暑地として名高い大きな湖。恋人達にも人気が高いらしい。
私にとってはそれほど心動かされる光景ではないが、都会育ちのカリンには何もかもが珍しいようだった。
「すごい……すてき」
カリンの口から、短い感想が漏れた。
過剰に飾られないその言葉は、心からのものだろう。
「カリンには、ああいう景色の方がいいのね」
「ええ。ああいう所にラントのおうちの入り口があるのかしら」
どうやらラントちゃんに色々と外のことも教えられたようだ。
「地下への入口は山の方にはあまりないわ。それよりも、あのあたり。二つ村があるでしょ。あの中間をもう少し山の方に行った辺りが怪しいわ。村を線で結んで、森の中に三角形の頂点を置いてみて。そこを中心にして探すの」
「へぇ」
「とは言っても、穴を開けるだけならともかく、こんな都に近い場所で略奪なんてしないわ。討伐隊が出るに決まっているもの。魔物討伐は新人騎士の訓練にもちょうどいいし。それに、人間からの略奪行為は、魔物の世界でも違法なの。それで人間を怒らせて、地下の国……この真下は五区のインカータというんだけど、そのインカータが管理している空気穴とかまで徹底的に潰されたら、さすがに彼らも賊狩りを始めるわ」
「そういえば、ラントも都の周辺では外に出て木の実を拾ったりするだけだろうって。あの辺りは地上も地下も要地に近いって意味だったのね」
ラントちゃんもそんな木の実を拾うだけの魔物であれば、私のペットにはならずに済んだのに。
「魔物は、規模の大きい街よりは規模の小さな街、後は視界の悪い街道に出ることが多いわ。国境沿いも狙われやすい。でも被害者は人間側だけとは言えないのよ。たまにラントちゃんみたいに小さくて無害な獣族が、うっかり人間と出会って捕まって、裏で愛玩用として売買されているの」
「えっ……」
カリンは驚いて私を見た。人間がそんなことをしているなど聞いたこともないのだろう。
「ラントちゃんが売られてたら、違法でも欲しくなる気持ちは理解できるでしょ?」
その言葉に、カリンは小さく頷いた。
「……私の知らないことが、世の中にはたくさんあるのね」
「そりゃあそうよ。私の知らないことだってたくさんあるわ。今みたいなことを私が知ってるのは、たまたまそういうことに関わっている場所で育ったからっていうだけ。逆に宮廷内のことはよく分からないわ」
私達は遠くを見つめて言葉を交わし合う。
彼女の視線は、ずっと山から湖を往復している。
「今度、行きましょうか?」
「えっ?」
私の呟きを耳元で聞いたカリンは、驚いた顔をこちらに向けた。
「今日はこれで戻らないといけないけど、今度もっと近くに行きましょうか」
カリンは私を見上げて瞬きした。
「竜で山の上を旋回して、湖畔に下りてお茶でもしながら湖を観賞して帰る。完璧なデートプランでしょう」
「それは素敵なデートね」
カリンはくすくすと笑った。
「護衛としてラントちゃんぐらいならまだ乗れるかも」
「ええっ、無理じゃない?」
「大丈夫。この前一緒に乗った時はテルゼに袋に入れられて吊り下げられてたから、普通に乗れると知ったら泣いて喜ぶわ」
「…………そう、なの」
テルゼの信頼度が急降下したな。カリンはあいつの好みっぽいから、きっちりと嫌わせておかないと。
するとカリンは笑うのをやめて、じっと私の顔を覗き込んできた。
男女ならこのまま自然と顔を寄せてしまいそうな、微妙な距離と体勢。
「その……」
カリンは何か言おうとして、言葉を詰まらせた。
「何?」
「あの、ギルネスト殿下とは、そういうデートをしているの?」
その質問を聞いて、私は笑った。
彼女はやっぱりまだギル様のことが好きなんだろうか。
「デート? 何を聞いたか知らないけど、ただ一緒に出かけただけよ。まるで保護者みたいに、あれを買ってやる、ああしろこうしろ、ああするなって」
思い出しただけでうんざりする。
「あれをデートと言うなら、私はデートなんてしたくないわ」
「……そ、そうなの?」
カリンは私の言葉に戸惑ったようだった。一度は好きになった男をこんな風に言われたら、心境は複雑だろう。
「私の兄に頼まれているから、兄貴気分なのよ。妹が一人増えたぐらいの感覚。ギル様の好みって、ウィルナお姉さんみたいな人よ」
「ああ……」
カリンはウィルナお姉さんが歌う姿を思い出したのか、納得したように頷いた。
「華奢で美人で、頭と要領がよくてとても有能。たまにそういう感じの人をじっと見てるから、好みのタイプはすごく分かりやすいの。ちなみにその『デート』とやらの時に、ウィルナお姉さん目当てで劇場に行ったのよ」
「…………」
カリンは複雑そうな顔でうつむいて、いきなり腰に回した腕に力を入れてきた。
どうやら真下を見て、急に怖くなったようだ。
「さすがに真下を見るのは怖い?」
「一瞬、気が遠くなったけど、そんなことはないわ」
彼女は強がるように言ってから、震えながらも今度はしっかりと街を見下ろした。
「落ちないから大丈夫」
キュルキュも穏やかに空の散歩を楽しんでいるようで、とても安定した乗り心地だ。万が一のことがあっても、しっかりとベルトで繋がっている。
「ルゼは……高い場所は怖くないの?」
カリンは私の背に回した手で服を握り締め、平静を装いつつも、恐怖を紛らわせるように問う。
「私は高い場所には慣れているから」
「山によく登るの?」
「山?」
「いえ、その、こんなに高い場所なんて、山の頂上しか思いつかなかったから……」
「そうね。そんなところかも」
うちの近所に高い山はないけど、そういうことにしておこう。
「だからあんなに力が強いの?」
あんなに、とはカリンを抱えた時のことだろう。
「あれは魔術よ」
「ああ、やっぱりそうなのね。よかった」
「よかった?」
カリンは自分との腕力の差に、びっくりしたのだろうか。
「だって、お兄さまでもあんなに軽々と私を抱えられるかどうか疑問だったもの」
「出来るわよ、いくらなんでも」
私はカリンの兄への過小評価ぶりに苦笑した。可哀相なベナンド。
「でも、私重いし」
「重くなんてないわよ。これぐらいが普通よ。緑鎖の端くれが、あなたぐらいの女の子を抱き上げられないなら、一から訓練し直した方がいいわ。ゼクセンでもそれぐらい出来るわよ」
ベナンドは普段から現場に足を運んで仕事をしている。それなのに女の子も抱きかかえられないほど身体がなまっていたら、もし犯人を捕らえる好機があったとしても、きっと取り逃がすだろう。それは緑鎖としてヤバイ。現場に立つ人間には、最低でも悪人達に負けない程度の身体能力が必要だ。
「そう……この子に言うことを聞かせているのも何か魔術を?」
カリンはキュルキュの背に触れながら問う。
「そんなところかしら。竜はけっこう敏感に魔力を読み取るの。だからやりようによっては手綱なんてなくても操れるのよ」
「魔術ってそんなことも出来るのね」
「普通の人は出来ないわ。正確には、魔術というより魔力を操る技術だし、普通の魔術師はやろうと思わないの」
「どうして?」
問い返されて、説明に困った。どうしよう。そうだなぁ……
「うぅーん……あなた、ナイフとフォークを、トングでつまんで使ったりしないわよね」
直接手で掴めばいいのに、わざわざ道具を使ってナイフを動かす。想像すると、実に馬鹿らしい姿だ。
「魔力で操れなくはないけど、それぐらい非効率的で面倒なのよ。手綱を使った方が楽。私はただすごく器用だから、操れるの。治癒術の時しか役に立たないわ」
説明は一応そこまでに留めておく。魔力を上手く操って治癒術の効率を上げるというのは、理屈としては、普通の魔術師でも練習すれば出来る技術だ。私のは傀儡術が混じっているけど。
「どうしてそんなことを練習したの?」
「えと……暇だったからかな。小さな頃はベッドの中にいることが多かったから」
あんな風に足を痛めてベッドから出られないという時期がなければ、今の私は無かっただろう。歩けない不自由さの中では、遠くの物を取るための傀儡術はとても役に立った。何でも傀儡術で済ましているうちに、気付けば人よりも魔力の使い方が上手くなっていた。必要性があれば、人は上達が早くなるものなのだ。
「あなたも病気なの? だからそんなに痩せているの?」
彼女は私の肩から腰を見て、不安げに問う。
これでも、だいぶ太ることが出来たのだが……
「病気ではないわ。今は昔よりはずっと健康なのよ」
これは本当だ。普通の暮らしをしているから、無茶をしていた頃に比べてずっと丈夫になった気がする。
私は話を逸らすように、地上を指さした。
「ほら、エノーラお姉様の屋敷が見えるわ」
カリンは私の指の先を見た。
「あれかしら。人がいるけど、誰が誰か分からないわ。都がまるで玩具みたい」
余裕が出てきたのか、彼女は眼下に広がる街を見回した。
もちろんしっかりと私にしがみついて、鞍に付いた取っ手もしっかりと握った上でのことだけど。
「そうね。上から見ると、人なんてすごくちっぽけ。あれが生きて動いて、生活しているんだから、不思議」
こうやって離れてみると、彼らは虫のように小さく、簡単に潰してしまえそうに見える。
「あっちが、私達が閉じ込められた倉庫のある方よ」
郊外にある、倉庫街を指さして言う。
「あんな所に……」
カリンは驚いてその一角を凝視した。
あそこは治安がいいとは言えない場所だ。上から見ても、自分達が住んでいる場所とはかけ離れていることがはっきり分かる。
カルパ達のアパートがある方は、ごちゃごちゃしていてよく分からない。その向こうに行くにつれ、建物がよりみすぼらしくなっていくのが分かる。カルパのアパートは子供が近くを歩けることを考えると、そちらよりはずっと治安がいいのだ。
「あそこは私の屋敷かしら」
「そうみたいね。上から見ると、余計に広く見えるわ」
カリンの屋敷は一度見に行ったけど、上から見るとまた雰囲気が変わる。
「あんな広い屋敷にお兄様と使用人数人なんて、ちょっと可哀相」
「でも、カリンが安全な場所にいてくれた方が、ベナンドも安心できるもの。守るべき相手が安全な場所にいてくれるっていうだけで、とても気が楽なのよ」
「そんなものかしら?」
「それはそうよ。大きな心配事があると、仕事にも身が入らないし、判断能力は鈍るし、夜遅くまで働くなんて出来ないし、気持ち的に袋小路に迷い込んじゃう」
カリンはそれを聞くと、少し嬉しそうに笑った。
私はキュルキュの様子を見ながら、しばらく街の上空を旋回し、ゆったりと飛ぶ。私は風を切るように飛ぶのが好きだが、それはまた今度。
「そろそろ下りましょうか」
「もう?」
カリンは空の上が気に入ったのか、不満そうに言った。
「この子も慣れないところに長く留まっているのは不安みたい。あんな飼い主でもいると落ち着くようよ」
カリンは驚いたように、少し飛行が不安定になってきたキュルキュを見た。
「それもそうね。私だったら、知らない場所に来て知らない人と一緒にされたら、怖くて仕方がないわ」
カリンはそっとキュルキュの首を撫でた。
生まれ育った場所を離れるのは怖い。この子は遠くにお嫁に来たようなものだ。きっと不安で一杯だろう。
「でも空を飛ぶのは好きみたい。こんなに広い空は地下にはないもの」
この光景は、キュルキュにとっても好ましいもののようだ。生まれ故郷にはない、青く澄んだ広い空だ。
綺麗な白い翼が日の光を受けて、目映く輝く。
本当に綺麗な子だ。
「さっき言っていたデート、楽しみにしているわ」
「あ、子供達には内緒ね。絶対に自分達もって言い出すから。騒いで大変よ」
「分かったわ」
カリンはくすくすと笑いながら、唇の前で指を立てた。
地上に下り立つと、私はベルトを外して先に降り、それからカリンに手を差し出した。身を預けてきた彼女の腰を抱いて、そっと地面に下ろす。スカートが変に捲れないように目を配るのも忘れない。
「ありがとう。とても素敵だったわ。まるで夢のようだった。あんな光景、普通なら決して見られないでしょうね。興奮して身体が火照ってるわ」
確かにカリンの顔はずっと上気したままだ。
「喜んでもらえて嬉しいわ。お水でももらいましょうか」
私はカリンに笑みを向け、身体を離した。
彼女はほんの少し寂しげだった。さっきまで人肌に触れていて、安心していたのかもしれない。私も小さな頃は、抱きしめてくれた人が離れると不安を覚えたものだ。
それに不安な状態が続いた時は、現実離れした場所に身を置くと、逆に安心したりする。現実に戻ってきた今、不安も戻ってきてしまったのかもしれない。
「先生、私もその子に乗ってみたいわっ」
突然、マティアさんが声をかけてきた。
タロテスは来るだろうと思っていたけど、まさか先にマティアさんが来るなんて……
「マティアさんって、意外と好奇心旺盛ですね。高い場所はお好きですか?」
「はいっ」
「母さんずりぃ」
タロテスがそう言ってマティアさんの腰にしがみついたので、私は苦笑した。
「あー、はいはい、順番ね」
「やった!」
母親が真っ先に名乗りを上げるなら、子供達を乗せても大丈夫だろう。
「まぁ、ルゼちゃんならいきなりでも平気だろうけど。基本は馬術と同じ。前に簡単に説明したの覚えてるか?」
「ええ、覚えてるわ。ヘルちゃんにも教えてもらったから大丈夫よ」
私はキュルキュの背に手を置くと、スカートを翻して跨がった。
「お前、本当に一人で飛ぶのか!?」
タロテスがマティアさんの背に隠れながら聞いてくる。
気になるけど怖いようだ。ヘタレな子だな。
「もちろんよ。竜には前に乗ったことがあるの」
スカートが捲れてないか気にしつつ、さらに周囲を確認する。
問題なし!
「よし、行けっ!」
私はキュルキュの腹を足で圧迫する。基本は馬術と似たようなものだとテルゼは言ったが、移動方向は前や横だけでなく上下もあるので、操り方が少し複雑になる。が、まあ大丈夫だろう。
竜は翼を広げて地を蹴り、私を乗せて大空へ羽ばたいた。
それほど高く飛ばず、以前ヘルちゃんと相乗りした時に聞いた操り方に従って動いてくれるのを確認して、しばらく周辺の空を飛ぶ。
近くの木々で長閑に羽休めしていた鳥達が、竜の鳴き声と羽ばたきを聞いて狂乱する姿に、思わず笑いがこぼれた。
キュルキュは細身だが、羽ばたきは力強くて頼もしかった。こうして一人で手綱を握るのには、誰かと相乗りするのとはまた違った楽しさがある。
私達に気付いた人々がこちらを指さしている。こうして見下ろすと、エノーラお姉様のお屋敷は他よりも凝ったデザインで、立地的にもいいところにあるのがよく分かる。
慣れてきたのでもう少し高い場所まで行き、キュルキュに問題が無さそうなのを確認して一度地上に戻る。スカートが捲れ上がるのを手で押さえて、鞍の上で少しつんのめりつつも無事着地した。
完全に制止すると、スカートを気にしながらキュルキュの背から飛び降りた。
「ただいま」
スカートの裾を払って伸ばしながら皆に笑ってみせる。
「ねぇねぇ、ルゼって竜に乗ったことがあるの?」
子供達を連れて近づいてきたセルジアスが尋ねてくる。
「一人では初めてだけど」
「物怖じしないねぇ。たまにはきゃーとか言ったらいいのに。竜を見て可愛いって飛びついていきなり乗るなんて、君ぐらいだ」
「じゃあゴキブリが出たらきゃあきゃあ言うから助けてね」
「あ、それ僕も怖い」
情けない男め。ゴキブリ退治は、男が女の前で最も輝ける瞬間だというのに!
「君はゴキブリは嫌なのに、竜は平気なの?」
いや、ゴキブリと比べるのが間違っている。まあいいけど。
「私は昔から高いところが大好きなの」
「そういう問題じゃないと思うけど? それに、癖も分からない竜に乗るなんて」
「この子は素直でいい子だもの」
「なんだかねぇ……」
塀の外から、竜が飛んでいたと騒ぐ声が聞こえてきた。ここは住宅街だから、目立って当然だろう。
周囲が突然騒がしくなったせいか、キュルキュが興奮し出したので、前に回り込んでその喉を撫でた。
「いい子だったわね」
「ははは、初めて乗ってそう言うのは君だけだよ。さすがに一瞬で手懐けるとは思わなかった」
テルゼが愉快と笑い、私は余裕の笑みを返す。
「動物と心を通わせるのに時間は関係ないわ」
「いや、心っていうか明らかに力で服従させてるし」
セルが楽しそうにそう言った。
「竜騎士って言ったら、騎士の中でも特に選び抜かれた超エリートだよ。竜って簡単に従う生き物じゃないから。地下の竜って地上の竜より大人しいのかな」
「まあ、元々こいつは大人しい南の方の竜だし、今では家畜化されてるからなぁ。気が荒い方でも、この国の竜よりは扱いやすいかもな」
竜騎士は、竜を乗りこなせるからこそ称えられる。
つまり竜とは本来なら簡単に乗りこなせないものなのだ。
「すげぇ。お前すげぇな!」
「おねえさますごーい」
子供達がキラキラと目を輝かせて見つめてくる。タロテスにここまで感心されたのは初めてだな。彼らは乗りたそうにうずうずと私を見ている。
乗せてあげたいけど、いきなりじゃ母親達が心配するだろう。私は視線を巡らせて、ぽかんとしているカリンに目を付けた。
今日の主役は彼女だ。
「カリン、どうしたの、ぼーっとして。あ、乗りたい?」
私は彼女のもとへ歩み寄り、手を差し出した。
「えっ?」
彼女は呆けたように私を見つめ、同じように手を差し出してくる。
私はそんな、ちゃんと前を見ているのか疑わしい夢現なカリンの手を取った。
エノーラお姉様が世話をしているせいか、彼女からは花の匂いがした。
エノーラお姉様はゼルバ商会の中で、婦人部門の責任者を務めている。香りも美容の一部と、親しい人にはそれぞれに似合う匂いの香水を作ってプレゼントするのだ。それがなかなかいい宣伝になるらしい。
最近エノーラお姉様は安全のためと称してカリンを連れ歩いているから、彼女にも自社製品を身につけさせて、宣伝に利用しているはずだ。カリンは目に見えて綺麗になったから、その宣伝効果はかなり高いのではないかと思う。
「あっ、えっと、あのっ」
無意識で手を差し出していたのか、私が手を取った瞬間、彼女の目の焦点が合い、戸惑いの声が上がった。
「怖い?」
私は彼女の顔を覗き込んで問う。
普通は怖いだろう。誘っているのがギル様のような完璧な王子様ならともかく、私はただの女だ。身を任せるのは不安だろう。実際には誰よりも安全な同乗者なのだが。
「いいえ」
そう答えた瞬間、彼女は驚いたような顔をした。
彼女は本当はとても控え目で大人しい少女だから、竜に乗ろうなんて誘われて思わずふらふらと手を差し出してしまったことに自分自身驚いてしまったのかもしれない。
私は彼女の出した答えに満足して笑い、そのままキュルキュの傍らまで手を引く。
「テルゼ、念のため紐貸してくれない?」
「ベルトがある」
エノーラお姉様の屋敷に住み着いているテルゼの部下からベルトを受け取る。
これで多少のことは大丈夫。
そして彼女の腰に手を回して片腕で抱え、もう片方の腕で自分の身体を引き上げて竜の背に乗る。
私はそのまましっかり跨がり、前にカリンを横座りさせた。
「うっそ」
カリンが驚いて声を上げた。
あれだけ目の前でナイフバトルをしたのに、今更驚いているようだ。カリンがそれ以上言葉を出せないでいる間に、彼女のドレスの裾をさっと整えて、横座りのまま落ちないように座り直させる。そしてベルトで彼女の身体を鞍に固定した。
私はカリンの片手を引いて、鞍の前に付いた取っ手に誘導した。
それで準備は整った。
「大丈夫。しっかりとそれを掴んで、もう片方の手で私にしがみついていればいいわよ。私も落ちないようにずっと支えているから」
そう言うと、彼女は後ろに座る私の腰に片腕を回した。柔らかい感触に、私は小さく唸った。
最初に会った、ふっくらしていた時よりも痩せたのは間違いない。しかし、それでも女性特有の柔らかさがあるのだ。とても抱き心地がいい。ギル様好みの『華奢』とか『折れそうな腰』といったタイプとは違う、普通の男の人が好む健康的な身体なのだろう。
羨ましい。私も肉をつけたらこうなれるだろうか。
「ど、どうしたの? やっぱり重かった?」
「いや、そういうのじゃないから。じゃあ行くよ」
カリンは私を見上げ、興奮ぎみに顔を赤くして頷いた。
キュルキュが翼を広げた瞬間、カリンがぎゅっとしがみついてくる。こうして腰に触れられるのは、少しくすぐったいかもしれない。
「きゃっ」
翼が動くとスカートの裾が捲れ上がり、カリンが悲鳴を上げた。私は彼女のスカートを手で押さえながら、太股の下に挟んで押さえ込む。これでまあ大丈夫だろう。
竜が地を蹴ると、カリンは振動に驚いたのか歯を噛みしめて私にしがみつく。私も彼女を安心させるように強く抱く。
浮遊感がしたかと思うとわずかに落下し、今度は一気に上昇する。怯えながらもカリンは私にしがみつき、しっかりと目を開いていた。
景色が激しく揺れる。その間にキュルキュはものすごい勢いで屋根を越えていき、屋敷や人が、高い塔から見下ろした時のように小さくなった。
「もっと上に行こうか」
先ほどよりも上に、とにかく上昇していく。
都が見渡せるようになった頃、キュルキュの上昇を止めた。
そこでキュルキュが風に乗ると、動きが穏やかになる。景色がぶれずにはっきりと見えるようになると、カリンも落ち着いて首を巡らせた。
「ぅわあ……」
カリンは眼下の街並みではなく、遠くに見える山々の方を見て声を上げた。
都から離れた所に広がる森は、その向こうにある山脈まで続いている。山脈の頂上付近には雪が積もり、独特の形をした岩稜が朧気に見える。
少し視線を横にずらすと、都まで流れる川があり、その上流に見えるのは避暑地として名高い大きな湖。恋人達にも人気が高いらしい。
私にとってはそれほど心動かされる光景ではないが、都会育ちのカリンには何もかもが珍しいようだった。
「すごい……すてき」
カリンの口から、短い感想が漏れた。
過剰に飾られないその言葉は、心からのものだろう。
「カリンには、ああいう景色の方がいいのね」
「ええ。ああいう所にラントのおうちの入り口があるのかしら」
どうやらラントちゃんに色々と外のことも教えられたようだ。
「地下への入口は山の方にはあまりないわ。それよりも、あのあたり。二つ村があるでしょ。あの中間をもう少し山の方に行った辺りが怪しいわ。村を線で結んで、森の中に三角形の頂点を置いてみて。そこを中心にして探すの」
「へぇ」
「とは言っても、穴を開けるだけならともかく、こんな都に近い場所で略奪なんてしないわ。討伐隊が出るに決まっているもの。魔物討伐は新人騎士の訓練にもちょうどいいし。それに、人間からの略奪行為は、魔物の世界でも違法なの。それで人間を怒らせて、地下の国……この真下は五区のインカータというんだけど、そのインカータが管理している空気穴とかまで徹底的に潰されたら、さすがに彼らも賊狩りを始めるわ」
「そういえば、ラントも都の周辺では外に出て木の実を拾ったりするだけだろうって。あの辺りは地上も地下も要地に近いって意味だったのね」
ラントちゃんもそんな木の実を拾うだけの魔物であれば、私のペットにはならずに済んだのに。
「魔物は、規模の大きい街よりは規模の小さな街、後は視界の悪い街道に出ることが多いわ。国境沿いも狙われやすい。でも被害者は人間側だけとは言えないのよ。たまにラントちゃんみたいに小さくて無害な獣族が、うっかり人間と出会って捕まって、裏で愛玩用として売買されているの」
「えっ……」
カリンは驚いて私を見た。人間がそんなことをしているなど聞いたこともないのだろう。
「ラントちゃんが売られてたら、違法でも欲しくなる気持ちは理解できるでしょ?」
その言葉に、カリンは小さく頷いた。
「……私の知らないことが、世の中にはたくさんあるのね」
「そりゃあそうよ。私の知らないことだってたくさんあるわ。今みたいなことを私が知ってるのは、たまたまそういうことに関わっている場所で育ったからっていうだけ。逆に宮廷内のことはよく分からないわ」
私達は遠くを見つめて言葉を交わし合う。
彼女の視線は、ずっと山から湖を往復している。
「今度、行きましょうか?」
「えっ?」
私の呟きを耳元で聞いたカリンは、驚いた顔をこちらに向けた。
「今日はこれで戻らないといけないけど、今度もっと近くに行きましょうか」
カリンは私を見上げて瞬きした。
「竜で山の上を旋回して、湖畔に下りてお茶でもしながら湖を観賞して帰る。完璧なデートプランでしょう」
「それは素敵なデートね」
カリンはくすくすと笑った。
「護衛としてラントちゃんぐらいならまだ乗れるかも」
「ええっ、無理じゃない?」
「大丈夫。この前一緒に乗った時はテルゼに袋に入れられて吊り下げられてたから、普通に乗れると知ったら泣いて喜ぶわ」
「…………そう、なの」
テルゼの信頼度が急降下したな。カリンはあいつの好みっぽいから、きっちりと嫌わせておかないと。
するとカリンは笑うのをやめて、じっと私の顔を覗き込んできた。
男女ならこのまま自然と顔を寄せてしまいそうな、微妙な距離と体勢。
「その……」
カリンは何か言おうとして、言葉を詰まらせた。
「何?」
「あの、ギルネスト殿下とは、そういうデートをしているの?」
その質問を聞いて、私は笑った。
彼女はやっぱりまだギル様のことが好きなんだろうか。
「デート? 何を聞いたか知らないけど、ただ一緒に出かけただけよ。まるで保護者みたいに、あれを買ってやる、ああしろこうしろ、ああするなって」
思い出しただけでうんざりする。
「あれをデートと言うなら、私はデートなんてしたくないわ」
「……そ、そうなの?」
カリンは私の言葉に戸惑ったようだった。一度は好きになった男をこんな風に言われたら、心境は複雑だろう。
「私の兄に頼まれているから、兄貴気分なのよ。妹が一人増えたぐらいの感覚。ギル様の好みって、ウィルナお姉さんみたいな人よ」
「ああ……」
カリンはウィルナお姉さんが歌う姿を思い出したのか、納得したように頷いた。
「華奢で美人で、頭と要領がよくてとても有能。たまにそういう感じの人をじっと見てるから、好みのタイプはすごく分かりやすいの。ちなみにその『デート』とやらの時に、ウィルナお姉さん目当てで劇場に行ったのよ」
「…………」
カリンは複雑そうな顔でうつむいて、いきなり腰に回した腕に力を入れてきた。
どうやら真下を見て、急に怖くなったようだ。
「さすがに真下を見るのは怖い?」
「一瞬、気が遠くなったけど、そんなことはないわ」
彼女は強がるように言ってから、震えながらも今度はしっかりと街を見下ろした。
「落ちないから大丈夫」
キュルキュも穏やかに空の散歩を楽しんでいるようで、とても安定した乗り心地だ。万が一のことがあっても、しっかりとベルトで繋がっている。
「ルゼは……高い場所は怖くないの?」
カリンは私の背に回した手で服を握り締め、平静を装いつつも、恐怖を紛らわせるように問う。
「私は高い場所には慣れているから」
「山によく登るの?」
「山?」
「いえ、その、こんなに高い場所なんて、山の頂上しか思いつかなかったから……」
「そうね。そんなところかも」
うちの近所に高い山はないけど、そういうことにしておこう。
「だからあんなに力が強いの?」
あんなに、とはカリンを抱えた時のことだろう。
「あれは魔術よ」
「ああ、やっぱりそうなのね。よかった」
「よかった?」
カリンは自分との腕力の差に、びっくりしたのだろうか。
「だって、お兄さまでもあんなに軽々と私を抱えられるかどうか疑問だったもの」
「出来るわよ、いくらなんでも」
私はカリンの兄への過小評価ぶりに苦笑した。可哀相なベナンド。
「でも、私重いし」
「重くなんてないわよ。これぐらいが普通よ。緑鎖の端くれが、あなたぐらいの女の子を抱き上げられないなら、一から訓練し直した方がいいわ。ゼクセンでもそれぐらい出来るわよ」
ベナンドは普段から現場に足を運んで仕事をしている。それなのに女の子も抱きかかえられないほど身体がなまっていたら、もし犯人を捕らえる好機があったとしても、きっと取り逃がすだろう。それは緑鎖としてヤバイ。現場に立つ人間には、最低でも悪人達に負けない程度の身体能力が必要だ。
「そう……この子に言うことを聞かせているのも何か魔術を?」
カリンはキュルキュの背に触れながら問う。
「そんなところかしら。竜はけっこう敏感に魔力を読み取るの。だからやりようによっては手綱なんてなくても操れるのよ」
「魔術ってそんなことも出来るのね」
「普通の人は出来ないわ。正確には、魔術というより魔力を操る技術だし、普通の魔術師はやろうと思わないの」
「どうして?」
問い返されて、説明に困った。どうしよう。そうだなぁ……
「うぅーん……あなた、ナイフとフォークを、トングでつまんで使ったりしないわよね」
直接手で掴めばいいのに、わざわざ道具を使ってナイフを動かす。想像すると、実に馬鹿らしい姿だ。
「魔力で操れなくはないけど、それぐらい非効率的で面倒なのよ。手綱を使った方が楽。私はただすごく器用だから、操れるの。治癒術の時しか役に立たないわ」
説明は一応そこまでに留めておく。魔力を上手く操って治癒術の効率を上げるというのは、理屈としては、普通の魔術師でも練習すれば出来る技術だ。私のは傀儡術が混じっているけど。
「どうしてそんなことを練習したの?」
「えと……暇だったからかな。小さな頃はベッドの中にいることが多かったから」
あんな風に足を痛めてベッドから出られないという時期がなければ、今の私は無かっただろう。歩けない不自由さの中では、遠くの物を取るための傀儡術はとても役に立った。何でも傀儡術で済ましているうちに、気付けば人よりも魔力の使い方が上手くなっていた。必要性があれば、人は上達が早くなるものなのだ。
「あなたも病気なの? だからそんなに痩せているの?」
彼女は私の肩から腰を見て、不安げに問う。
これでも、だいぶ太ることが出来たのだが……
「病気ではないわ。今は昔よりはずっと健康なのよ」
これは本当だ。普通の暮らしをしているから、無茶をしていた頃に比べてずっと丈夫になった気がする。
私は話を逸らすように、地上を指さした。
「ほら、エノーラお姉様の屋敷が見えるわ」
カリンは私の指の先を見た。
「あれかしら。人がいるけど、誰が誰か分からないわ。都がまるで玩具みたい」
余裕が出てきたのか、彼女は眼下に広がる街を見回した。
もちろんしっかりと私にしがみついて、鞍に付いた取っ手もしっかりと握った上でのことだけど。
「そうね。上から見ると、人なんてすごくちっぽけ。あれが生きて動いて、生活しているんだから、不思議」
こうやって離れてみると、彼らは虫のように小さく、簡単に潰してしまえそうに見える。
「あっちが、私達が閉じ込められた倉庫のある方よ」
郊外にある、倉庫街を指さして言う。
「あんな所に……」
カリンは驚いてその一角を凝視した。
あそこは治安がいいとは言えない場所だ。上から見ても、自分達が住んでいる場所とはかけ離れていることがはっきり分かる。
カルパ達のアパートがある方は、ごちゃごちゃしていてよく分からない。その向こうに行くにつれ、建物がよりみすぼらしくなっていくのが分かる。カルパのアパートは子供が近くを歩けることを考えると、そちらよりはずっと治安がいいのだ。
「あそこは私の屋敷かしら」
「そうみたいね。上から見ると、余計に広く見えるわ」
カリンの屋敷は一度見に行ったけど、上から見るとまた雰囲気が変わる。
「あんな広い屋敷にお兄様と使用人数人なんて、ちょっと可哀相」
「でも、カリンが安全な場所にいてくれた方が、ベナンドも安心できるもの。守るべき相手が安全な場所にいてくれるっていうだけで、とても気が楽なのよ」
「そんなものかしら?」
「それはそうよ。大きな心配事があると、仕事にも身が入らないし、判断能力は鈍るし、夜遅くまで働くなんて出来ないし、気持ち的に袋小路に迷い込んじゃう」
カリンはそれを聞くと、少し嬉しそうに笑った。
私はキュルキュの様子を見ながら、しばらく街の上空を旋回し、ゆったりと飛ぶ。私は風を切るように飛ぶのが好きだが、それはまた今度。
「そろそろ下りましょうか」
「もう?」
カリンは空の上が気に入ったのか、不満そうに言った。
「この子も慣れないところに長く留まっているのは不安みたい。あんな飼い主でもいると落ち着くようよ」
カリンは驚いたように、少し飛行が不安定になってきたキュルキュを見た。
「それもそうね。私だったら、知らない場所に来て知らない人と一緒にされたら、怖くて仕方がないわ」
カリンはそっとキュルキュの首を撫でた。
生まれ育った場所を離れるのは怖い。この子は遠くにお嫁に来たようなものだ。きっと不安で一杯だろう。
「でも空を飛ぶのは好きみたい。こんなに広い空は地下にはないもの」
この光景は、キュルキュにとっても好ましいもののようだ。生まれ故郷にはない、青く澄んだ広い空だ。
綺麗な白い翼が日の光を受けて、目映く輝く。
本当に綺麗な子だ。
「さっき言っていたデート、楽しみにしているわ」
「あ、子供達には内緒ね。絶対に自分達もって言い出すから。騒いで大変よ」
「分かったわ」
カリンはくすくすと笑いながら、唇の前で指を立てた。
地上に下り立つと、私はベルトを外して先に降り、それからカリンに手を差し出した。身を預けてきた彼女の腰を抱いて、そっと地面に下ろす。スカートが変に捲れないように目を配るのも忘れない。
「ありがとう。とても素敵だったわ。まるで夢のようだった。あんな光景、普通なら決して見られないでしょうね。興奮して身体が火照ってるわ」
確かにカリンの顔はずっと上気したままだ。
「喜んでもらえて嬉しいわ。お水でももらいましょうか」
私はカリンに笑みを向け、身体を離した。
彼女はほんの少し寂しげだった。さっきまで人肌に触れていて、安心していたのかもしれない。私も小さな頃は、抱きしめてくれた人が離れると不安を覚えたものだ。
それに不安な状態が続いた時は、現実離れした場所に身を置くと、逆に安心したりする。現実に戻ってきた今、不安も戻ってきてしまったのかもしれない。
「先生、私もその子に乗ってみたいわっ」
突然、マティアさんが声をかけてきた。
タロテスは来るだろうと思っていたけど、まさか先にマティアさんが来るなんて……
「マティアさんって、意外と好奇心旺盛ですね。高い場所はお好きですか?」
「はいっ」
「母さんずりぃ」
タロテスがそう言ってマティアさんの腰にしがみついたので、私は苦笑した。
「あー、はいはい、順番ね」
「やった!」
母親が真っ先に名乗りを上げるなら、子供達を乗せても大丈夫だろう。
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