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徐々にやっていきましょう

62.思ってるんだけど

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 部屋に一人、鏡を前にして、頬を両手で包んで揉みながら、ファランはぎゅっと唇を引き結んだ。
 今日、二度目のダンス練習が終わった。
 クライフの足は、一度踏んでしまったが、大分マシにはなっている。が、問題はそこではないのだ。
(何か…肌の調子が良い気がする)
 舞踏会に合わせて、色々やってはいる。だが、そうした努力とは違うのだ。己の身に起こった事態。それが関係している気がしてならない。
(これ、絶対美形セラピーだよぉ…)
 美形セラピーというのは、前世で友人だった大学の同級生が言っていた言葉だ。大学生にしてホストクラブ通いにはまっていた彼女は、言っていた。
『美形と触れ合うと肌の調子が良くなるんだよ! 女として磨かれるの! 凄いんだから!』
と。
(本当にあったんだ、美形セラピー…)
 勿論それだけではないのだろうが、間近に見た美しい顔は胸を嫌というほど高鳴らせてくれた。
(ときめきがもういっそ暴力だった。そうか…新陳代謝が活性されたのかもしれない)
 ただでさえ見た目のゆったりさの割に疲れる運動だというのに、そのスタートから心臓はフル回転だ。ステップの確認をしていた間に何とか慣れたと思った状況も、音楽が付くとまた変わった。
 手回しオルゴールをカトレアに回してもらって、一曲分を踊ったのだが。
 憶えているステップを思い出そうと必死になる脳。
 自然に高まっていく心臓。
 相手の動きを読み取ろうと体全てが傾注していく感覚。
 いつの間にか見つめ合っている視線。
 極め付きは、終わってから体を離した時に、寒いと思った体温。
(ダンスって…ダンスって…わぁああ!)
 うっかり恋に落ちそうだ。そう思ってしまったが、慌てて、つり橋効果、と呪文を唱える。
「つり橋効果つり橋効果つり橋効果つり橋効果」
 パンッと頬を叩いて、姿勢を正す。
「寝よう!」
 誰も居ない室内で小さめに叫んで、ベッドに潜り込んだ。
(寝不足は美容の大敵! 明々後日には舞踏会で精一杯のキレイを披露するんだから!)
 ミモザに教えた方法で、深呼吸しながら体から力を抜き、ゆっくりと頭を空にしていく。最初こそ手間取ったが、途中からすっぽりと頭から思考が抜けた。
 気付けば、眠っている。
 うまく、ぐっすり眠れたという事は、翌朝目を覚まして理解した。
(良かった…寝れた)
 そしてこれと同じことを後二回、やり抜かねばならない。
(いや、大丈夫。もう大丈夫。私は煩悩を捨てたのだ。もはや三度目ともなれば、既に免疫は出来ている。私はつり橋を鼻歌交じりに揺らして渡れるタイプだったじゃないか。まぁ本当言うと恐怖を感じるようなヤバイつり橋を渡った事ないけど…はっ! いかんいかん! 弱気になるな! とにかく私は大丈夫!)
 昨日と同じ事をするだけなのだ、と自分言い聞かせる。
(昨日でもう結構踊れるようになったし、なんなら今日はお茶でも飲みながら勉強会でもすれば良いのよ)
 本人は名案を思いついたつもりだが、完全に逃げの姿勢で、ファランは午後を迎えた。
「ご主人様ぁ、クライフさんの準備終わりましたぁ」
 ニーアの声に緊張でじっとしていられず、うろうろしていた足を止める。
(あれ、私昨日一昨日も同じ感じだった…?)
 既視感と緊張感に、三度目なのに何故だ、と慌てつつ、練習用のドレスでクライフの待つ部屋へ向かう。
 室内に入ったファランは、
「ぐっ…!」
と、呻いて自分の胸を押さえた。
「どうされました?!」
「大丈夫」
 傍らのニーアが空かさず心配してくれるが、美形に精神攻撃されたなどと言う事も出来ず、取り繕って笑った。
(ただの暴力的なときめきだから)
 カトレアから聞いてはいたのだ。ファランのドレスを最大限引き立てるために、同伴者の服も合わせて作ろうと言われて、クライフに同伴を頼んだのだから。当然その服を着るのはクライフなのだ。
(正装姿…いや、本番にいきなり見るより今見ておいて良かった! そうだ! 良かった! こうなったら、しっかり目に焼き付けてやろうじゃないか!)
 緊張と襲い来るときめきが、もうファランをよく解らない状態にしていた。
 じっとクライフを上から下まで睨むように見ながら近付くと、困惑したような微笑と目が合う。
「ご主人様」
 クライフの傍らで裾を触っていたカトレアが声をかけてくれなければ、不自然に明後日な方向へ視線を逸らしていただろう。
「どうかした?」
「クライフさんのカフスなのですが」
 実際着けてもらったところ、用意した物より別の物が良いかもしれない、との事だった。
「ああ、お父様の、という事ね。勿論構わないから、持って来て」
「畏まりました」
 衣装が揃うまでは、話でもしましょうか、とファランは遅ればせな挨拶をした。相変わらず顔を直視しているようで眉間とか鼻とか喉仏とかを見つめていたが、普通に話せている。
「では、店舗の目途も立っているのですか」
「はい。以前知り合った父の旧友の方がそうした方面にお詳しくて、お力を貸してくださって」
「それは、心強いですね」
「ええ、本当に」
 クライフとの会話が滞りなく進んでいる事に気を良くしたファランは、内心で拳を突き上げる。
(よぉし大丈夫。いける。笑顔という名のポーカーフェイス、これぞ貴族の最強装備!)
 相手の目を見ているようで見ない会話方法ならクライフの顔も気にならないぞ、と調子に乗って、ファランはつい訊かなくても良いことを訊いてしまう。
「そういえば、クライフさんはどうしてカツラを」
 クライフの美しい緑の目が見開かれたのを理解して、ファランは、自分が馬鹿な事を聞いたと顔を青くした。
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