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第2章
あなたとの日々
しおりを挟む「ルカ」
手渡されたサンドイッチを頬張りながら、空を見上げた。冬の空は高く、青く澄みきっていた。
「あっちの空は曇ってることが多かった」
「そうね...以前に行ったことがあるけど、昼間でも暗い印象だったわね。...どう?サンドイッチは」
「うまい」
またパクリと頬に入れて、味を噛み締めた。サーモンと海老、レタス、トマト、それに玉ねぎとクリームチーズがふんだんに挟まれたそれは、今にも具が溢れそうで、慎重に包み紙を持ち直した。
外気にさらされていたベンチは冷たく、尻を冷えさせたが、熱々のカフェオレを啜ると体の中から温まれた。
隣に座る女を見上げる。アイリスさんは伏し目がちにサンドイッチを頬張ると目をきゅうっとつむった。一緒に暮らすようになってから一ヶ月経った頃に知った。美味しいと思った時の彼女の癖のようだった。
砂場でおままごとをして遊ぶ子供の持つ手鏡が太陽に反射して彼女の額が柔らかい光に包まれる。
きめの細かい肌は透けるように白く、鼻は細く上品な形をしている。目尻が細められ、囲む睫毛に光が反射して色素が薄くなった。薄い唇は化粧っ気がないのに淡く色づいて色気があった。
ぽうっと見惚れるのを誤魔化すように背中まである彼女の黒く艶のある毛先をちょいちょいといじっていたらアイリスさんが口を開いた。
「これから、どうしたい?」
「....どうしたい...って?」
ドキン、胸が嫌な音をたてる。
そりゃあ、ずっとアイリスさんと一緒に暮らせるなんて思っちゃいなかったけど....。
表情が少なく淡々としている彼女は、冷たい印象を受けるが実はすごく優しい人だった。
しばらく俺を預かると言った彼女と過ごす日々の中で、少しずつアイリスさんのことを知っていく。
俺はアイリスさんとの生活を気に入っていたんだ。
「一緒に、いたい...」
そっと優しく頭を撫でられ、顔を上げると彼女は微笑んでいた。
「分かったわ。でも、私はこれから長期の任務に行かなくてはいけないからしばらく留守にするの。......寂しくない?」
まだアイリスさんと一緒に暮らせるんだと分かって、胸が弾んだ。
「寂しくない!大丈夫だから!」
「......ええ。じゃあ、これと、これを」
手のひらにチャリ、と置かれたそれは鍵だった。もう一つは四つ折りにされた紙。
「私の部屋の鍵よ」
「........」
鍵だ。
食い入るように手のひらを見つめた。シンプルなものを好むアイリスさんらしく、飾りは何も付いていない。
「あと、こっちは」
ぼうっとする意識の中で彼女の声が聞こえる。紙を開く音がする。目の前に掲げられた文字は読めない。
「あなたの戸籍票よ。この国で生きていくなら戸籍は絶対に必要なの。ちょこっと肩書きを利用して細工して手に入れた物だけれどね。....ここは孤児への対策がきっちりされているから、戸籍さえあればしっかり援助を受けられる。教育もね。......本当は、寮付きの学校への入学を勧めるつもりだったの。私の料理はなんというか、リーフ様のことを言えないくらい大味でしょう?だからいつも出来合いのものを買ってくるか外食になってしまうから...寮ならしっかり手作りのご飯が食べられるし.......どうしたの?」
料理ができないことを恥じるように話す彼女の眉間に寄った皺に胸が締め付けられる。どうしようもない衝動に駆られて、良い香りがして温かいその人を求めてしがみついた。
彼女と暮らすようになり、食べるものに困らない生活が始まった。そして、凍えない夜を過ごしたのは一体どのくらいぶりだっただろう。
一緒に暮らしはじめて三日経った朝。
トーストでこんがり焼いた歯触りの良いパンをかじりながらぼうっと目の前に座る彼女を見つめていた。
次の飯の心配をしなくてよくなると色々な事を考える余裕が生まれてきた。
その時から、これまで生きることに必死で置き去りにしてきた感情がじわじわと心の端から染みるように戻ってくるのを感じていた。
彼女がいなければ俺は自分に呑み込まれていただろう。
両親の死の悲しみが唐突に溢れだし、虚無感に襲われた時も。
生きるために犠牲にしてきた何も悪くない人達への罪悪感に狂いそうになった時も。
竜族の女から目を背けた瞬間を何度も頭の中でリフレインしては無力感に苛まれた時も。
なるほど。確かにあの金髪の女の言った通りだった。
「お前にとっての罰は裁かれないことかもしれないな」
日常生活の中で不意に訪れるようになった自分で処理しきれない感情達は体の中で渦を巻くように蠢いた。
夜中、衝動が襲ってきて感情のままに泣き叫び、棚にあるものをすべてひっくり返した。
街中を歩いていた時にはただ笑っている通行人をどうにかしてやりたいと思い、衝動的に拳を握り、駆け出そうとしていた。
アイリスさんはその度に俺を抱き締めて「もう大丈夫。大丈夫だから」と背中をあやすように撫で続けた。
彼女の首を絞めては「死ね」と狂ったように繰り返し叫んだ夜、彼女は俺の手をそっと外すと、悲しげに眉を下げ、俺の手を包んだ。
「言葉はすべてあなたに返って、傷つける。……あなたは充分、自分を責め、苦しんだ。あなたは自分の過去を決して忘れない。....だから、ほんの少し、少しでいいから、明日を思って。......生きることを、望んで」
外は大粒の雪が降っていた。深夜の真っ暗な部屋でサイドテーブルのランプの火がアイリスさんの綺麗な顔を柔らかな橙色に染める。
火はゆらゆらと縮んだり、伸びたり、膨らんだり、与えられた器の中で自由自在に動いていた。
いのちというものがそこにあろうとしているように見えた。
アイリスさんと暮らす日々を重ねていくうちに、不意に訪れる衝動を自分で抑えられるようになっていった。
過去から襲いくる感情と、今の生活とがゆったりと交わっていくような感覚だったように思う。
彼女の言う「明日を思う」こと。
それがなんなのか、正直よく分からない。
けれど彼女が小さく微笑む時。
一緒に飯を食っている時。
眠りにつく時。
明日も笑うかな、
きゅっと目をつむるかな、
おはようとこっちから言ってみようか。
そんなことを、思うようになっていた。
手渡された鍵と戸籍票をあてがわれた部屋のベッドに並べた。
帰る場所の証。
枕に頭を預けて何度も鍵の感触を確かめた。
ここにいる。ずっと、アイリスさんと一緒にいるんだ....。
いつの間にか眠っていたようで、瞼に朝の光が射し込み眩しさで目が覚めた。リビングのテーブルにあった金とパンで彼女が長期の任務に行ってしまったらしいことが分かった。
「......ちぇ...」
少しでいいから話したかったのに。起こせよな。
部屋のチャイムが鳴り、ドアの覗き穴から訪問者を窺う。面倒くささに溜め息を吐きながら、ドアを開けてやった。
「おはよう。朝飯は食べたか?」
そこには俺を治療したじいさんが片手にバゲットの入った紙袋を抱えて立っていた。
「いいから!俺がやるから!!」
じいさんが持つフライパンを慌てて奪い取る。油断ならねぇ。このじいさん、ちょっと目を離すとすぐになんか作ろうとしやがる。冷や汗を拭い卵をボウルに割ってしゃかしゃかと混ぜる。
このじいさんはアイリスさんの仕事仲間のようで、あれからちょくちょく顔を出しにきやがる。城の書庫番とかいう職業がお似合いな、いつも片手に本を持ち、のほほんと瞳をゆるませている頭に花が咲いていそうなじじい。
なぜかアイリスさんはこいつを慕っている。
こいつが来るといっつも本の話ばっかりしてさ...。
俺はこのじいさんが憎たらしくて仕方がない。
ぼうっと窓の外を眺め眩しそうに目を細めるじいさんの前にドンッとオムレツの載った皿を置いた。
緑の瞳が瞬いて、「おお」と狐を描く。水分の少なそうな皺の刻まれた手が俺の頭にぽん、と置かれた。
「お主、料理ができるのか!凄いのう!」
「べっつに!こんなん料理のうちに入らねぇし!これしかできねぇし!」
「凄い、凄いのう」
「........ふん」
にこにこと阿呆みたいに笑うじいさんの顔を見ていると苛つく気持ちが次第に薄れていく。
変なじいさんだ。俺がどんなに悪い言葉を使っても変わらずぽわーんと笑っている。
焼いたパンにオムレツをのせて頬張る。そっか、パンにのせて食べるならもっと塩味を濃くすればよかったな。いや、ケチャップかけた方がうまいかも?
アイリスさんが帰ってくるまでに料理を覚えるのもいいかもしれない。きっと喜ぶぞ。水でパンを流し込み、「ホットミルクでも作ってやろうか?」と微笑むじいさんを無視して俺の言葉を重ねた。どうせあのクソ甘いホットミルクだろ。無視無視。
「なあ、料理の本とか持ってる?」
「料理の?....儂は持っとらんなぁ。書店なら売っていると思うがの」
「なんとかタダで手に入らねぇかな?」
「そうじゃのう....図書館、は今はやっとらんし...おお、そうじゃ。城の本を貸してやろう」
「マジ!?サンキューじいさん!」
にこにこと嬉しそうにしているじいさんに「なに?」と聞くと「アミナ様がな...」と口を開いた。
出た。“アミナ様”の話。
このじいさんは城の書庫に毎日のように顔を出すというこの国のお姫様の話をよくしたがった。
「最近、料理に興味を持ったようで、厨房で料理の本とシェフの料理をしている姿を見比べて、時折納得でもしたようにこくこくと頷くのじゃ。まだ四歳だというのに、自分で疑問を持ち、調べ、理解することができるのじゃ。....引っ込み思案で臆病な所もある子じゃが、思慮深さと実は鋭い観察眼を併せ持つ、実に素晴らしい姫様なのじゃ」
「前からそいつの話聞くたびに思ってたけど、そいつって妾の子供だからビオラ姫との扱いに差があるんだろ?」
「.......ない、とは言えんな」
「子供って案外大人のことよく見てるんだぜ。そいつが他人の感情によく気がつくのは、自分が傷つくのが怖いからじゃねぇの。ただの臆病者だったりして」
じいさんを挑発するように笑ってみた。しかし予想に反してじいさんはこくりと頷いた。
「臆病だからこそ、強くもなれるのじゃ」
何言ってるんだ?てか全然怒んねーなこのじいさん。つまんねぇ。
頬にバケットを詰め込み、俺は窓の外を眺めた。
「意味わかんねー。やっぱあんた変わってんな」
今なら分かるよ。
な、アミナ。
そう言うと彼女は丸い瞳をおろおろと左右に揺らし、困ったように眉を下げた。
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