2 / 38
美しい声
2
しおりを挟む
***
昼休憩になると、すぐに喫煙ルームへ向かった。
アパートではタバコを吸わないようにしている。結衣がタバコの臭いに敏感だからだ。
結衣は吸ってもかまわないと言ってくれるが、せめて結衣の前だけでもと、我慢しているのだ。
そのまま禁煙しようかと思うが、仕事中はなかなかそうもうまくいかない。どうしても吸いたくなってしまう。そしてもう一人、そういう男が姿を見せる。
「よぉ」
「おぅ」
同僚の及川雅也と短いあいさつをかわし、深く息を吐き出す。
細く長い白いけむりを吐き出せば、少しは疲れを忘れる。
「今日はやけに疲れてるな」
「そう見えるか?」
「まあな」
しばらく無言でタバコを吸う。
雅也にあのことを話そうか。それを思い悩む時間が沈黙の時間だ。
「結衣ちゃんと喧嘩でもしたか?」
俺の沈黙に違和感を覚えたのであろう雅也は、無遠慮に結衣の話題を切り出す。
会社では彼女がいないということになっている。彼女に会わせろ、という同僚の言葉を避けたいからだ。それは、結衣をいたずらに男の目に触れさせたくないと思う俺のエゴ。
俺より先に結衣に出会っていた雅也は特別で、社内で唯一、俺に彼女がいることを知ってる男だ。
「何があったか知らないけどさ、元気出せよ」
雅也はそう言って、俺の左肩を叩いた。
「いて……っ」
思わず顔をしかめる。
「わりぃ、けがしてたか?」
大げさに痛がる俺に驚いた雅也は、心配そうにする。
「い、いや」
肩にそっと手をあて、苦笑いする。
この痛みの理由は、話せない。結衣にかまれたなんて、彼女の名誉のためにも話せない。
「一緒に暮らすと、何かと面倒なこともあるだろう」
雅也はすっかり結衣と喧嘩していると思ってるようだ。
結衣と喧嘩したことはほとんどないが、喧嘩するより深刻な問題になってる気はする。
「一緒に暮らしてるわけじゃないさ」
「半同棲状態だろ。似たようなもんだ」
うらやましそうな顔をして、雅也はタバコを灰皿に押し付ける。
「ほとんど毎日来るんだろ」
「……まあな」
今まではそうだった。今までは、だ。
残業がない時や、友人との飲み会とか付き合いがない時は、必ず結衣は夕食をつくって俺の帰りを待ってくれていた。
「違うのか?」
歯切れの悪い俺を見て、雅也は不審そうにする。
「ここ一ヶ月はあまり来ないんだ」
深いため息を吐けば、雅也は眉をひそめる。
「なんかあったか?」
それは何度も考えた。しかし、どれだけ悩んでも心当たりはない。
いくら会社では彼女がいないことになっているとはいえ、甘い誘いに乗ったことは一度もない。結衣を不安にさせることをしたつもりはない。
「急に来なくなったのか?」
「……まぁ」
それを言われてハッとする。一つだけ、あることが思い浮かんだ。
あの出来事がきっかけだったとは思えないが、少なくともあの時には結衣はおかしかった。
「一ヶ月前、結衣は実家に帰ったんだ」
「お盆だったからか?」
「ああ。一週間、会わなかった。結衣の実家はちょっと遠いから会えなかったし、電話をかけるのも遠慮したんだ」
それがいけなかったのだろうか。さみしかったならそう言ってくれればよかった。
いや、違うか。さみしかったのは俺だ。メールぐらいしてくれたっていいのにとうらめしく思った。
親戚まわりで忙しいからと、素っ気ないメールが来たきり、結衣は一切の連絡を絶った。
大人げないから不満は言わなかったが、結衣と一週間ぶりに会った俺は、彼女を無理やり抱いた。
あれがいけなかったのだろうか。だけどもう、あの時には結衣はおかしかったのだ。
「ちゃんと話し合えよ。本気なんだろ、結衣ちゃんに」
「……ああ」
結衣を手放したくない。ほかの男の目に触れさせたくないぐらい愛してる。だから、愛してると何回も伝えている。
それなのに、結衣はさみしそうに涙を流す。その意味はまったくわからない。聞いても答えない……そう、結衣はあまり話さなくなった。
「声を聞かせてくれないんだ……」
「声?」
「ああ、何を聞いてもうなずいたり首を振ったり。前はもっと話をしてくれたんだけどな」
俺はその日にあった出来事を楽しそうに話す結衣が好きだった。それが、一ヶ月前から話さなくなった。
「大丈夫なのか?」
雅也もさすがにおかしいと思ったのだろう。険しい顔で俺の顔をのぞきこむ。
だが、俺はなすすべがなくて、「わからない」と、首をすくめるしかできない。
一ヶ月前、実家から帰ってきた結衣に久しぶりに会った。彼女の顔を見たら、いとしさが込み上げてきて、すぐにベッドに押し倒した。
あの時の俺は、結衣も同じ気持ちだと信じていた。
しかし、結衣は抵抗した。結衣が抵抗することは初めてで、ショックのあまり、わきあがる衝動を抑えることが出来なかった。
結衣の服をはぎ取るように脱がせ、戸惑う彼女の黒い瞳に俺がどう映るのかと考えるのが嫌で、無我夢中に抱いた。
会えなかったさみしさ、会えなかった苦しみを、彼女を抱くことで解消しようとした。
ハッと我にかえった時、結衣は悲しい目をして静かに涙を落としていた。
俺をさげすんだり、俺を怖がったわけじゃない。ただただ消えてしまいそうなほど儚く、悲しげだった。
あの時から結衣は変わってしまっていた。
話しかけても話さなくなった。抱いていても声を聞かせてくれなくなった。
前は、愛してると言ったら、愛してると言ってくれたのに。
そして昨日、結衣は俺の肩をかんだ。俺の行為に耐えるように。そんなに抱かれたくないのか、そんなに声を出したくないのかといらだたしくもあった。
無理やり結衣を抱いた日から、彼女は美しく澄んだ、かわいらしい声を聞かせてくれなくなった。
昼休憩になると、すぐに喫煙ルームへ向かった。
アパートではタバコを吸わないようにしている。結衣がタバコの臭いに敏感だからだ。
結衣は吸ってもかまわないと言ってくれるが、せめて結衣の前だけでもと、我慢しているのだ。
そのまま禁煙しようかと思うが、仕事中はなかなかそうもうまくいかない。どうしても吸いたくなってしまう。そしてもう一人、そういう男が姿を見せる。
「よぉ」
「おぅ」
同僚の及川雅也と短いあいさつをかわし、深く息を吐き出す。
細く長い白いけむりを吐き出せば、少しは疲れを忘れる。
「今日はやけに疲れてるな」
「そう見えるか?」
「まあな」
しばらく無言でタバコを吸う。
雅也にあのことを話そうか。それを思い悩む時間が沈黙の時間だ。
「結衣ちゃんと喧嘩でもしたか?」
俺の沈黙に違和感を覚えたのであろう雅也は、無遠慮に結衣の話題を切り出す。
会社では彼女がいないということになっている。彼女に会わせろ、という同僚の言葉を避けたいからだ。それは、結衣をいたずらに男の目に触れさせたくないと思う俺のエゴ。
俺より先に結衣に出会っていた雅也は特別で、社内で唯一、俺に彼女がいることを知ってる男だ。
「何があったか知らないけどさ、元気出せよ」
雅也はそう言って、俺の左肩を叩いた。
「いて……っ」
思わず顔をしかめる。
「わりぃ、けがしてたか?」
大げさに痛がる俺に驚いた雅也は、心配そうにする。
「い、いや」
肩にそっと手をあて、苦笑いする。
この痛みの理由は、話せない。結衣にかまれたなんて、彼女の名誉のためにも話せない。
「一緒に暮らすと、何かと面倒なこともあるだろう」
雅也はすっかり結衣と喧嘩していると思ってるようだ。
結衣と喧嘩したことはほとんどないが、喧嘩するより深刻な問題になってる気はする。
「一緒に暮らしてるわけじゃないさ」
「半同棲状態だろ。似たようなもんだ」
うらやましそうな顔をして、雅也はタバコを灰皿に押し付ける。
「ほとんど毎日来るんだろ」
「……まあな」
今まではそうだった。今までは、だ。
残業がない時や、友人との飲み会とか付き合いがない時は、必ず結衣は夕食をつくって俺の帰りを待ってくれていた。
「違うのか?」
歯切れの悪い俺を見て、雅也は不審そうにする。
「ここ一ヶ月はあまり来ないんだ」
深いため息を吐けば、雅也は眉をひそめる。
「なんかあったか?」
それは何度も考えた。しかし、どれだけ悩んでも心当たりはない。
いくら会社では彼女がいないことになっているとはいえ、甘い誘いに乗ったことは一度もない。結衣を不安にさせることをしたつもりはない。
「急に来なくなったのか?」
「……まぁ」
それを言われてハッとする。一つだけ、あることが思い浮かんだ。
あの出来事がきっかけだったとは思えないが、少なくともあの時には結衣はおかしかった。
「一ヶ月前、結衣は実家に帰ったんだ」
「お盆だったからか?」
「ああ。一週間、会わなかった。結衣の実家はちょっと遠いから会えなかったし、電話をかけるのも遠慮したんだ」
それがいけなかったのだろうか。さみしかったならそう言ってくれればよかった。
いや、違うか。さみしかったのは俺だ。メールぐらいしてくれたっていいのにとうらめしく思った。
親戚まわりで忙しいからと、素っ気ないメールが来たきり、結衣は一切の連絡を絶った。
大人げないから不満は言わなかったが、結衣と一週間ぶりに会った俺は、彼女を無理やり抱いた。
あれがいけなかったのだろうか。だけどもう、あの時には結衣はおかしかったのだ。
「ちゃんと話し合えよ。本気なんだろ、結衣ちゃんに」
「……ああ」
結衣を手放したくない。ほかの男の目に触れさせたくないぐらい愛してる。だから、愛してると何回も伝えている。
それなのに、結衣はさみしそうに涙を流す。その意味はまったくわからない。聞いても答えない……そう、結衣はあまり話さなくなった。
「声を聞かせてくれないんだ……」
「声?」
「ああ、何を聞いてもうなずいたり首を振ったり。前はもっと話をしてくれたんだけどな」
俺はその日にあった出来事を楽しそうに話す結衣が好きだった。それが、一ヶ月前から話さなくなった。
「大丈夫なのか?」
雅也もさすがにおかしいと思ったのだろう。険しい顔で俺の顔をのぞきこむ。
だが、俺はなすすべがなくて、「わからない」と、首をすくめるしかできない。
一ヶ月前、実家から帰ってきた結衣に久しぶりに会った。彼女の顔を見たら、いとしさが込み上げてきて、すぐにベッドに押し倒した。
あの時の俺は、結衣も同じ気持ちだと信じていた。
しかし、結衣は抵抗した。結衣が抵抗することは初めてで、ショックのあまり、わきあがる衝動を抑えることが出来なかった。
結衣の服をはぎ取るように脱がせ、戸惑う彼女の黒い瞳に俺がどう映るのかと考えるのが嫌で、無我夢中に抱いた。
会えなかったさみしさ、会えなかった苦しみを、彼女を抱くことで解消しようとした。
ハッと我にかえった時、結衣は悲しい目をして静かに涙を落としていた。
俺をさげすんだり、俺を怖がったわけじゃない。ただただ消えてしまいそうなほど儚く、悲しげだった。
あの時から結衣は変わってしまっていた。
話しかけても話さなくなった。抱いていても声を聞かせてくれなくなった。
前は、愛してると言ったら、愛してると言ってくれたのに。
そして昨日、結衣は俺の肩をかんだ。俺の行為に耐えるように。そんなに抱かれたくないのか、そんなに声を出したくないのかといらだたしくもあった。
無理やり結衣を抱いた日から、彼女は美しく澄んだ、かわいらしい声を聞かせてくれなくなった。
1
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
兄様達の愛が止まりません!
桜
恋愛
五歳の時、私と兄は父の兄である叔父に助けられた。
そう、私達の両親がニ歳の時事故で亡くなった途端、親類に屋敷を乗っ取られて、離れに閉じ込められた。
屋敷に勤めてくれていた者達はほぼ全員解雇され、一部残された者が密かに私達を庇ってくれていたのだ。
やがて、領内や屋敷周辺に魔物や魔獣被害が出だし、私と兄、そして唯一の保護をしてくれた侍女のみとなり、死の危険性があると心配した者が叔父に助けを求めてくれた。
無事に保護された私達は、叔父が全力で守るからと連れ出し、養子にしてくれたのだ。
叔父の家には二人の兄がいた。
そこで、私は思い出したんだ。双子の兄が時折話していた不思議な話と、何故か自分に映像に流れて来た不思議な世界を、そして、私は…
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる