何万回囁いても

水城ひさぎ

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別離

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***


 あの日から、一度も佑樹からの連絡はない。

 ドライブの帰り、車の中でも無言だった。
 本気で佑樹を怒らせたのだと気づいたけど、もうどうしようもない。私たちはそうするしか道はなかったのだと思う。

 雅也さんが私に佑樹を紹介したあの日から、きっとこうなることはわかってた。佑樹はまだこの茶番を続けたがっていたけど、終わらせよう。

 起き抜けにスマホを眺めていた私は、そう覚悟した。

 予定よりはやく帰ってきましたぁ。

 七緒静華のインスタには、そう書かれていた。

 佑樹の住むこの土地に、彼女は帰ってきた。

 今日は大好きな彼に会いに行きます。みなさん、恋が実るの応援してくださいねっ。

 ふたたび、笑顔の七緒静華の画像があがった。いいねがどんどん増える。彼女は天真爛漫で、美しい女性。詩人としてだけでなく、その容姿も認められて活躍している。

 ベッドから起き上がり、出掛ける準備を始めた。かばんの中にはまだ佑樹のアパートの合鍵がある。

 返せと言われる前に、返してしまおう。
 傷つくのはもう、疲れてしまった。

 合鍵を小さな封筒に入れて、かばんへしまう。直接佑樹に会って返す勇気はない。ポストにそっと入れて帰ろう。

 着替えを済ませるとすぐに、佑樹のアパートへ向かった。何度も通ったこの道を、もう歩くことはないのだろう。

 佑樹は転勤で遠くへ行く。恋人でなくなったら、本当にもう会うことはないのだ。

「ねぇ、ちょっと」

 佑樹のアパートまであと少しの所で、後ろから声をかけられた。

 聞き覚えのある声だった。むしろ、忘れることのできない声。

 私はゆっくり振り返る。願わくは彼女でありませんようにと、むなしく願いながら。

「やっぱり」

 大きなサングラスを持ち上げ、前髪を押し上げる茶髪の女性がそう言う。

 長くたゆたう髪は輝いていて、見ているものを魅了する。声が似ていても、容姿も中身もこんなに違う。

「おひさしぶりです、静香さん……」

 私は頭をさげる。一度さげた頭をあげるのは勇気がいる。気持ちは複雑だった。

「佑樹に会いに来たの?」

 ちょっと強めの口調で言われた。会うなと言われたのに、まだつながっているのは、気に入らないだろう。

「……あの」

 頭をゆっくりあげた。もう二度とこんな複雑な気持ちでいたくなかった。

「なに?」

 腰に手をあて、首を傾けた静香さんは、あからさまに迷惑そうな顔をする。

「佑樹……杉田さんに会いに行くんですよね?」

 佑樹を杉田さんなどと呼ぶのはいつぶりだろう。

 もしかしたら、はじめてかもしれない。
 すごく違和感はあるけど、静香さんの前で佑樹と言うことは申し訳なく感じた。だからあえて言い直した。

「そうよ」

 静香さんは私を見下す。競り合う必要はないのに。そう思いながら、かばんから封筒を取り出す。

「なに、それ?」

 私が差し出す封筒を、静香さんはいぶかしげに見る。
 中身を知ったらいい気はしないだろう。あてつけだと思うかもしれない。それでも、佑樹との決別をわかってもらうためだと覚悟して、私は言う。

「杉田さんの部屋の合鍵です」
「合鍵?」

 案の定、静香さんは不機嫌なまでに怪訝な顔をした。

「今日はこれを返そうと思ってきたんです。もう必要はなくなると思うんですけど、静香さんが持っていてください」
「必要がなくなる?」
「はい。杉田さん、もうすぐ引っ越すんです」
「引っ越す?」

 静香さんの怪訝な顔は拍車がかかり、険しくなる。

「転勤するんです」
「転勤?」
「はい」

 私は静香さんの大きな瞳を見つめた。佑樹の瞳に映るのが静香さんなら、この大きな瞳に映るのは、佑樹なのだろう。

「静香さんについてきてほしいって、杉田さんは思ってます」
「佑樹がそう言ったの?」

 眉をひそめて、静香さんは尋ねてくる。

「言わなくても、そう思ってることはわかってます。だって……」
「……」
「だって……」

 だって、ずっと静香さんのこと、待ってたから。そう思ったら、目頭がグッと熱くなる。溢れ出しそうになる涙をこらえて、震える口に手をあてる。

「杉田さんについていってあげてください」

 こらえきれずに流れる涙を見せたくなくて、必死に頭をさげて何度もお願いした。

 そんなこと、私が頼むことじゃないし、余計に静香さんを怒らせてしまうとわかっていたけど、今の私にはすがるものがなくて、そう言うことで佑樹との決別に決心をつけたかったのだと思う。

「なんで?」

 静香さんはぽつりとつぶやいた。

「なんでそんなこと言うの?」
「……」
「あなたにとって私は憎むべき女でしょ」

 ハッと静香さんを見上げると、理解できないとばかりに彼女は眉をひそめている。

 何も言えないでいる私は薄く口を開くけど、言葉は出てこない。

 なんと言ってこの複雑な気持ちを伝えたらいいのかわからない。静香さんを憎んではいないと言ったらうそになる。だけど……。

「今のは聞かなかったことにするわ」

 静香さんはそう言うと、私の手から合鍵の入った袋を取り上げた。

「佑樹が転勤するってことも、私を連れていきたがっているってことも、佑樹の口から聞きたいわ」
「……」
「あなたばかりが特別みたいで悔しいじゃない」

 特別って言葉が胸に刺さる。

 静香さんは私を通りすぎ、行こうとする。

 私だって、と思う。
 いま言わなければ、大切な人を二人も失うだろう。

 あわてて静香さんの背中を追いかけ、前に回り込んだ。困惑ぎみに私を見下ろす静香さんの目を見つめ、心をしずめる。

「私にとって、静香さんは特別なんです」

 ずっと静香さんの詩に励まされてきた。静香さんは友人以上に特別な存在で、いつも私を支えてくれていた。

 落ち込んだ時も、泣いてしまう夜も、私を励まし続けてくれたのは静香さんの言葉。静香さんは憎むべき相手ではない。それ以上に特別な人。だから、佑樹も諦められる。

「特別?」

 静香さんには理解できないと思う。静香さんにとって、私こそが憎むべき相手だ。

「私……、静香さんが生きててくれて良かったって思ってます」
「……」
「引き止めてすみませんでした」

 頭をさげて、その場から逃げ出した。

 静香さんにも、佑樹にも会うことはないだろう。私にとって、特別な二人が幸せになるのだから、祝福すべきなのだと思う。

 だけど、こうも思うのだ。
 私が佑樹にとって特別だったら、嬉しいって……。
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