何万回囁いても

水城ひさぎ

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別離

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***


「とうとう、あさってか」
「ああ」
「しばらく会えなくなるな」
「そうだな」

 グラスの中の氷がカランと動く。それをじっと見つめたまま、隣に座る雅也の言葉にうなずく。

 転勤を前に二人で呑みに行かないかと雅也に誘われ、バーへやってきた。店内は比較的静か。何も考えられないでいる俺に、考える時間を与えてくれているようだった。

「それで?」
「結衣?」

 確認するまでもない。雅也は心配してくれている。どれだけ俺が結衣を大切に思っているか知っている唯一の男だ。

 雅也はただ黙って俺の言葉を待つ。しかし、何から話せばいいのか思案してしまい、沈黙が続く。

 結衣が俺から去ったこと。
 静香が寄りを戻したいと、また俺の前に現れたこと。
 俺の出した、結論。

 雅也なら、わかってくれるだろうか。

「すごく悩んだんだ……。こんなにもかって言うぐらい悩んだ」

 雅也は無言でうなずく。

 カウンターに両肘をつき、髪に指をうずめる。

「結衣は、あきらめられないんだ」

 雅也はまだ俺に何かを言わせたがっているかのように、うなずきながらも沈黙している。

 俺は顔をあげ、雅也に笑いかけた。情けない顔だろう。顔がひきつっているのが自分でもわかる。

「自分がしつこいことしてる自覚はあるよ」
「しつこい?」
「何度も結衣は俺から離れていったのに、そのたびに引き止めたんだ」
「好きなら当然だろ」
「好きなら何をしてもいいわけじゃないだろう?」

 俺と別れることが結衣の幸せなら、そうしてあげることも恋人としての努めだとは思う。だけど、何度も悩んで出した結論は、また結衣を苦しめるのだ。

「もう一度、結衣と話すよ。どうしてもついてきて欲しいんだ」
「ああ」
「ごめん。今から行く」

 俺は財布を取り出したが、雅也が払っておくというからそのままバーを出た。

 二日後には、新しい土地へ行く。

 新幹線なら三時間ほどの距離。たいした距離じゃない。結衣を失うぐらいなら、何度だって彼女に会いに来れる。

 俺は結衣のアパートへ向かった。

 あれはもう一週間ほど前になる。

 結衣の友人、川口亜紀が俺の会社まで訪ねてきた。結衣から転勤のことを聞いたのかもしれない。多くは語らない彼女だったが、「このままじゃいけないと思って」と言って、結衣のアパートの場所を教えてくれた。

 俺はまだ、結衣が別れたがった理由をはっきりとこの耳で聞いていない。それを確かめないことには、あきらめるわけにはいかなかった。

 結衣の部屋には、明かりがともっていた。
 安堵と緊張で、苦しい息を吐き出しながら、アパートの階段をのぼった。

 202号室の扉の前に立ち、チャイムをならした。指が震えていて、なんだかおかしかった。

 たった一人の女に固執したりして、みじめなことをしている。

 別れたがっているものをどうして手放せないのだろう。結衣もこんな俺を、重いと罵るだろうか。静香と同じ、あの声で。

「どちらさまですか?」

 インターフォン越しに結衣の声が聞こえる。直接扉をあけて出てきてはくれないだろうと思っていたが、ここで俺の声を聞かせても、結衣は出てきてくれないんじゃないかと不安は襲う。

 しかし、俺にはもう後がない。ここでくじけていたら、本当に大切なものを失うだろう。

「結衣、俺」

 そう言うと、インターフォン越しに結衣が息をのむのがわかった。

 少しして、玄関ドアは開いた。思ったよりすんなり出てきてくれた。

 部屋にはあげてくれなかったが、散歩しながら話をしようと言ったら、黙ってうなずいてくれた。

 肩を並べて歩くのはひさしぶりだ。あのドライブからいったい何日たったのだろう。結衣に会えない一日は、限りなく長く感じる。

 自動販売機の前で足を止める。
 あかりで結衣の表情がはっきりとわかる。どうしてそんな悲しい目で俺を見るんだろう。

「何か飲む?」

 いきなりついてきて欲しいと言っても、また断られるに決まっている。結衣の気持ちをほぐしてあげたくて尋ねたけど、彼女の表情は変わらない。

「いらないよね……」

 ため息まじりに言うと、結衣は小さくうなずいた。また沈黙してしまう。結衣の表情は固く、ただ俺の言葉を待っている。

「結衣」

 うなずくように結衣はまばたきをする。

「もう一度、チャンスをくれないか」
「チャンス?」
「そう。俺たちがやり直すチャンス」

 そう言うと、結衣の表情が崩れた。ちょっと苦笑いした。そんな気がした。
 先の見えない暗いトンネルを歩いているようだ。結衣の心の闇が深すぎて、俺には見えない。

「俺の気持ちは変わらないんだ」

 もうだめかもしれない。そんな不安を抱えながら、目を伏せて俺の言葉から逃れようとする結衣の手首をそっとつかむ。

 ぴくりと結衣の指が緊張で伸びる。その指をやさしく握りしめる。

「もう一度、言うよ」
「……」
「俺の目を見て」

 結衣はしゅん巡したが、もう一度繰り返すと、ようやく顔をあげた。少なくとも何かを期待させるような表情はしていなかった。不安は一層募る。

「結衣のこと、愛してるよ」

 それは絶対条件で、その上に俺たちは成り立っているのだと強調する。

 結衣は小さくうなずく。それはわかってくれているみたいだ。

「結衣は? 結衣は俺を愛してる?」

 結衣の瞳は悲しみに満ちていて、答えは期待できない。だけど、結衣をあきらめるためには、彼女のその口からその声で真実を聞きたかった。

「結衣」

 答えを促すように名を呼ぶと、じんわりと結衣の瞳に涙が浮かぶ。そして、薄く唇が開く。かすかに彼女の声が聞こえた。かすれていて何と言ったか聞こえない。

「なに?」

 もっとよく聞こえるように耳を寄せると、結衣はまた口を開いた。

「佑樹を愛してる」

 俺を愛してる……?

 待ちわびた言葉だったのに、一瞬呆然とした。すると、結衣はため息を吐き出すように笑った。

「もういいよ、佑樹」
「もういいって?」
「もう嘘はいいの」
「うそ……?」

 結衣の言葉を繰り返すだけの俺は、予期しなかった彼女の言葉に戸惑うばかりで、次の言葉が出てこない。

「私の気持ちも変わらないよ」
「……結衣」

 結衣は俺の手からそっと手を抜いた。

「私、佑樹とは一緒に行かない。だからもう来ないで」
「結衣、どうして?」

 俺を愛してるというなら、なぜ拒む必要があるだろう。
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