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別離
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少しは期待していたが、結衣ちゃんからの連絡はまったくなかった。
杉田さんとうまくいっているならそれでいい。そうは思ったが、やはりやりきれない気持ちもある。
結衣ちゃんは小柄で、あどけない少女のような顔立ちをしているのに、時折どきりとするような艶かしい眼差しをしたりする。
あの瞳に見つめられると、胸がざわつく。
杉田さんと別れてしまえばいい。そうしたら、全身全霊をかけて結衣ちゃんを愛し、悲しませるようなことはしないと誓うだろう。
俺はグラスを傾けた。視線があがる。
「あれ? 芳人?」
バーのカウンターから、驚いてこっちを見る男がいる。俺はグラスをテーブルにおき、片手をあげた。
「よぉ、雅也」
「いつからいたんだよ。全然気づかなかったよ」
雅也はそう言いながら、グラスを持って俺の向かい側へ移動してきた。
「さっき来たとこだよ。残業でさ、ちょっと飲みたい気分だったからさ」
「そうか。さっきまで佑樹と一緒だったんだぜ」
「へえ」
雅也は俺の気持ちを知らないのか、平然とその名を口にする。内心、あんまり聞きたくない名前だったなと思っていた。
「あいつさあ、転勤になったんだよ」
雅也は聞いてもいないのに話し始める。
俺は興味なさげにうなずくが、どこへ転勤になったのだろうと知りたくて仕方ない。
「じゃあ、結衣ちゃんと遠距離?」
結衣ちゃんのことを『結衣ちゃん』と呼ぶことに少々の迷いが生じたのは否めなかった。
雅也なら、何か気づくだろう。
「一緒に行くんじゃないかな」
雅也はちらっと俺に視線を寄越した。牽制した。そんな気がした。
「一緒に?」
「なんかおかしい?」
「まあな」
雅也は怪訝そうに俺を見る。雅也はなにも知らないのだろうか。
「杉田さんは結衣ちゃんを選んだってことか」
「は?」
「いや、杉田さん。忘れられない彼女がいて、そっちに乗り換えるつもりだって聞いたからさ」
雅也の目が大きく広がる。本当に何も知らないみたいだ。
「なんの話?」
「俺も詳しくは知らないよ。もう相手の名前も忘れちゃったしな。ただ結衣ちゃんがそのことで悩んでたのは知ってるよ」
「結衣ちゃんがおまえにそう話したのか?」
「ああ。俺のこと、多少は信頼してるみたいだな」
そんな関係は望んでないものの、雅也よりは俺を頼ってくれたのだと知れば気分はいい。
雅也は急に黙りこくり、あごをさすりながら床をにらみつけていた。何か思案げだが、俺はさらに声をかけた。
「こんなことになるってわかってて、杉田さんを紹介したおまえが悪いんだぜ」
「え?」
「俺、結衣ちゃんを彼女にしたいって思ってる」
「なんだよ、急に」
雅也は困惑するが、俺はかまわなかった。
「最初から俺を紹介してくれたら良かったのに」
杉田さんは女性を紹介してもらわなくたって、彼女に困るなんてことはないだろう。雅也は交遊関係も広いし、あえて杉田さんに紹介したというのも解せない。たまたまだったのだとしたら、たまたま俺だったとしても良かったはずだ。
「なんで杉田さんにしたんだよ。結衣ちゃんがかわいそうだって思わなかった?」
そんなこともわからないようなおまえじゃないだろう?
そう聞けば、雅也の顔は苦渋に満ちる。
「ごめん。今の話、最初から聞かせてくれよ」
雅也は水を一気に飲み干し、頭を振った。
「ちょっと飲みすぎて、思考力ゼロ。俺、まじで今、混乱してるわ」
「いいけどさ。杉田さんと結衣ちゃんがうまくいってないなら、俺、もらうから」
交換条件だと雅也は感じたのだろうか、無言で俺をしばらく見つめ、ため息をついた。
「正直、うまくはいってない。転勤先にもついていかないって言われたらしい。今あいつ、結衣ちゃんに会いに行ってる」
俺はゆっくりうなずいた。
「何もかも話してやるから、あの二人が別れたら、俺のすることに口出ししないでくれよ」
「ああ、約束する」
簡単に約束などという言葉を使う雅也は、相当動揺しているようだ。
俺は結衣ちゃんから聞かされたことを雅也に話してやった。動画サイトの女性だと言えば、雅也はスマホを取り出し、それを見せてきた。
「そう、この人だよ。杉田さんが大切にこの人の写真持ってるんだって、結衣ちゃん悲しんでたよ」
「まじかよ」
「その人、結衣ちゃんに杉田さんと別れろって言ったらしい」
「佑樹のやつ、なんでっ」
雅也は苛立つ。
「杉田さんばっかり責められないだろ。おまえが発端だよ」
「……は?」
「おまえだって、その人と結衣ちゃんの声が似てるって知ってたんだろ」
雅也は肯定も否定もしなかったが、眉をひそめた。
「似てるから、杉田さんと結衣ちゃんを引き寄せたんだろ」
雅也は息を飲んだ。
「結衣ちゃん、そう思ってた?」
「そうだろうね。そういうの、内緒にして付き合うからそうなるんだよ。悪いのは、おまえと杉田さんだろ」
雅也はしばらくテーブルの上をにらみつけていたが、意を決したように俺をまっすぐ見つめて言った。
「誤解がある」
少しは期待していたが、結衣ちゃんからの連絡はまったくなかった。
杉田さんとうまくいっているならそれでいい。そうは思ったが、やはりやりきれない気持ちもある。
結衣ちゃんは小柄で、あどけない少女のような顔立ちをしているのに、時折どきりとするような艶かしい眼差しをしたりする。
あの瞳に見つめられると、胸がざわつく。
杉田さんと別れてしまえばいい。そうしたら、全身全霊をかけて結衣ちゃんを愛し、悲しませるようなことはしないと誓うだろう。
俺はグラスを傾けた。視線があがる。
「あれ? 芳人?」
バーのカウンターから、驚いてこっちを見る男がいる。俺はグラスをテーブルにおき、片手をあげた。
「よぉ、雅也」
「いつからいたんだよ。全然気づかなかったよ」
雅也はそう言いながら、グラスを持って俺の向かい側へ移動してきた。
「さっき来たとこだよ。残業でさ、ちょっと飲みたい気分だったからさ」
「そうか。さっきまで佑樹と一緒だったんだぜ」
「へえ」
雅也は俺の気持ちを知らないのか、平然とその名を口にする。内心、あんまり聞きたくない名前だったなと思っていた。
「あいつさあ、転勤になったんだよ」
雅也は聞いてもいないのに話し始める。
俺は興味なさげにうなずくが、どこへ転勤になったのだろうと知りたくて仕方ない。
「じゃあ、結衣ちゃんと遠距離?」
結衣ちゃんのことを『結衣ちゃん』と呼ぶことに少々の迷いが生じたのは否めなかった。
雅也なら、何か気づくだろう。
「一緒に行くんじゃないかな」
雅也はちらっと俺に視線を寄越した。牽制した。そんな気がした。
「一緒に?」
「なんかおかしい?」
「まあな」
雅也は怪訝そうに俺を見る。雅也はなにも知らないのだろうか。
「杉田さんは結衣ちゃんを選んだってことか」
「は?」
「いや、杉田さん。忘れられない彼女がいて、そっちに乗り換えるつもりだって聞いたからさ」
雅也の目が大きく広がる。本当に何も知らないみたいだ。
「なんの話?」
「俺も詳しくは知らないよ。もう相手の名前も忘れちゃったしな。ただ結衣ちゃんがそのことで悩んでたのは知ってるよ」
「結衣ちゃんがおまえにそう話したのか?」
「ああ。俺のこと、多少は信頼してるみたいだな」
そんな関係は望んでないものの、雅也よりは俺を頼ってくれたのだと知れば気分はいい。
雅也は急に黙りこくり、あごをさすりながら床をにらみつけていた。何か思案げだが、俺はさらに声をかけた。
「こんなことになるってわかってて、杉田さんを紹介したおまえが悪いんだぜ」
「え?」
「俺、結衣ちゃんを彼女にしたいって思ってる」
「なんだよ、急に」
雅也は困惑するが、俺はかまわなかった。
「最初から俺を紹介してくれたら良かったのに」
杉田さんは女性を紹介してもらわなくたって、彼女に困るなんてことはないだろう。雅也は交遊関係も広いし、あえて杉田さんに紹介したというのも解せない。たまたまだったのだとしたら、たまたま俺だったとしても良かったはずだ。
「なんで杉田さんにしたんだよ。結衣ちゃんがかわいそうだって思わなかった?」
そんなこともわからないようなおまえじゃないだろう?
そう聞けば、雅也の顔は苦渋に満ちる。
「ごめん。今の話、最初から聞かせてくれよ」
雅也は水を一気に飲み干し、頭を振った。
「ちょっと飲みすぎて、思考力ゼロ。俺、まじで今、混乱してるわ」
「いいけどさ。杉田さんと結衣ちゃんがうまくいってないなら、俺、もらうから」
交換条件だと雅也は感じたのだろうか、無言で俺をしばらく見つめ、ため息をついた。
「正直、うまくはいってない。転勤先にもついていかないって言われたらしい。今あいつ、結衣ちゃんに会いに行ってる」
俺はゆっくりうなずいた。
「何もかも話してやるから、あの二人が別れたら、俺のすることに口出ししないでくれよ」
「ああ、約束する」
簡単に約束などという言葉を使う雅也は、相当動揺しているようだ。
俺は結衣ちゃんから聞かされたことを雅也に話してやった。動画サイトの女性だと言えば、雅也はスマホを取り出し、それを見せてきた。
「そう、この人だよ。杉田さんが大切にこの人の写真持ってるんだって、結衣ちゃん悲しんでたよ」
「まじかよ」
「その人、結衣ちゃんに杉田さんと別れろって言ったらしい」
「佑樹のやつ、なんでっ」
雅也は苛立つ。
「杉田さんばっかり責められないだろ。おまえが発端だよ」
「……は?」
「おまえだって、その人と結衣ちゃんの声が似てるって知ってたんだろ」
雅也は肯定も否定もしなかったが、眉をひそめた。
「似てるから、杉田さんと結衣ちゃんを引き寄せたんだろ」
雅也は息を飲んだ。
「結衣ちゃん、そう思ってた?」
「そうだろうね。そういうの、内緒にして付き合うからそうなるんだよ。悪いのは、おまえと杉田さんだろ」
雅也はしばらくテーブルの上をにらみつけていたが、意を決したように俺をまっすぐ見つめて言った。
「誤解がある」
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